08
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掃除と委員会の仕事で、部活に出るのがいつもよりも遅れた。と言っても、そんな感覚はあまりない。俺が活動している時間が、美術部の活動時間なのだ。
職員室に鍵を取りに行ったら、きっと水越先生が、なんて言われた。あの美術教師が鍵を持ったままグラウンドで自分の部活に勤しんでいるのだろう。帰る前に取りに行かなくては。
面倒くさい。自分で返しにきてくれないだろうか、と思いつつ、美術室の扉に手をかける。力を入れたところで、ぴたりと止める。
中に誰かいる。
大きなくしゃみの音がした。
『花粉症なら、マスクしろよ』
『家にないんですよ、誰も花粉症じゃないから』
『買って帰れよ』
美術教師と白坂だ。珍しい組み合わせだと思った。珍しいどころじゃない。初めて見た。
美術室に水越がいるのも、白坂がいるのも分かる。
彼を待たせてしまったのだろうか。それはあまりにも申し訳ない。
ふと気付く。
どうして彼は美術室に来るのだろうか。なんやかんやで数カ月間、彼は美術室に通っていて、黙って俺を見ていたわけだ。その後に、色々あって今こんな関係になっているわけで。
数秒間考えて、思いつくことはひとつだ。今は、俺に会いに来てくれている。それだくらいしかない。客観的に判断しても、それが妥当だろう。
「今は」であって、では、それまでの彼はどうだったのだろう。
俺はやはり彼のことを何も知らない気がする。
『あ、そうだ。また、モデルやってやれよな』
『知ってるんですか?』
『まあね。須藤の描いたものは大体目を通してるよ。そのへんに転がってるしな』
『割としょっちゅうしてますけどね』
『へえ、脱ぎたがりは水泳やってるやつの宿命?』
ははは、という楽しそうなふたりの声。
笑い合ってる……。思ったより仲がいいみたいだ。意外なようなそうでもないような感じだ。明るい性格は似ているし。ただ、どこに接点があったのだろうか。水越は非常勤教師だし選択美術を取っているか、サッカー部でもない限りそうそう会う人間でもないだろう。
この間、触った彼の背中のあたたかさがふと手のひらに蘇る。急な熱に、思わず手のひらを見て、手首から先をぶんぶんと振った。
『須藤遅いなぁ』
『あ、そうだ。鍵任せる。須藤に渡しといて』
あ、やばい。
急いで扉を横へ。一気に力を入れたら、見事に突っかかって、大きい音を立てて扉は半分も開かなかった。ちなみにちょっと浮かせることがコツである。
「あ、須藤」
「どうも、先生」
「宮ヶ瀬の自主トレ用のノートって今そっち? 明日使うから渡しといて。代わりに予定表受け取っておいてくれよ」
「俺、受験生なんですけど」
「大丈夫だって、すぐ負けて引退だよ。弱小だし」
予定の半分しかない隙間で、俺は美術教師と向かい合った。自分が顧問をやっている部活に対して酷いもの言いだ。それが例え事実であっても、酷い。
弱いなりに一生懸命というか、楽しそうなのがあの部活の救いだ。キャプテンがキャプテンだし、明るい雰囲気になるのは必然のような気もする。
へっきゅしょん、という奇妙な音がした。水越の後ろから、ぬっと白坂が現れる。目も鼻も真っ赤なのは先日から変わらない。マスクをして欲しい。ここは水越に同意である。
「今日は、何描く?」
「ああ、えっと……そうだな、どうしよう」
彼がドアを一気に開け放って、やっとふたり通れる幅ができる。体を斜めにしてすれ違って、俺は美術室の中に、水越は外へ。振り返りもせずに水越が「白坂にしなよ、いいかげん石膏は飽きただろ」と言いながら角を曲がっていった。
どうする? と彼が聞いた。じゃあ、と頷いて応える。彼は、口角をにっと持ち上げた。
「あったかくなったから、やる気出る」
「どういう意味?」
「脱ぐなら、寒いよりあったかい方がいいかなって感じ」
そういうものか。
彼が椅子をふたつ抱えた。俺はそれを横目に見ながら、筆箱とエプロンを取り出して、かばんはそのへんに放った。
見慣れた間隔に椅子を並べて、彼は大きく伸びをした。
原色の青にスポーツブランドのロゴマークだけが入ったトレーナーを脱ぎ去る。脱いだ拍子にひっくり返ったトレーナーを戻して、軽く畳んだ。彼は、それを机の下に置いたリュックに乗せた。
あ、と声を出してしまう。
どうした? と言うように、ゆっくりと目を瞬かせて、俺の言葉を待っている彼。俺は彼のまぶたが上下するのを見てから口を開いた。勿体ぶったのではない、自分の考えを言葉にする時間が必要だっただけだ。しかし、彼には、その時間が少し長すぎたのか、急かすような視線が俺を射抜く。
「えっと、Tシャツの上から、描きたい」
「脱がなくていいの?」
彼が普段、ジャージの下、トレーナーの下に着ているTシャツは、暗い色ばかりだった。黒とか濃紺が多い。今日は、濃紺だ。
どこから持ってきたのか(きっと、水越に場所を聞いたのか預かったのだろう)スケッチブックを差し出しつつ、空いた片手でTシャツの裾を胴の中ほどまでめくりあげた。無駄な肉の付いていない、それでいて柔らかく弾力のありそうな肌が覗く。
「本当に脱がなくていい?」
「ああ、いいよ。ありがとう」
「……ふーん、あっそう、きみがいいなら別にね」
握ったTシャツの裾はぱっと離された。柔らかい素材は音もなく、重力に負けて落ちる。無駄なものが付いていない引き締まった腹が、紺色の幕に隠れた。
「白坂、取れない」
「取れないようにしてる」
こちらへ向けられているスケッチブックは、引っ張ってもびくともしなかった。これ以上、力を入れたら紙が破れそうだ。もちろん、こんなに厚い紙の表紙、中には何枚もの紙が綴じられているのだから、そんなことはないのだが。
じっと睨まれて、俺はうーん、とひとつ唸って同じだけの力を込めて引っ張る。何も言わない彼は、察しろ考えろ、と俺に目線だけで語る。それは彼のわがままでもあるのだろうけれど、俺に必要な訓練でもある。俺が自分で、考えて分からなくていけないこと。俺が彼と、何かしらの関係で結びついている以上、できるようにならなくてはいけないこと。
「ああ、君は……脱ぎたかった?」
脱いでもいいよ、と言おうとして口を開くが、俺の言おうとしたことが分かったらしい彼が「いーやーだっ!」と子供っぽく遮った。
急に彼がスケッチブックから手を離したものだから、俺は後ろへ数歩たたらを踏むことになった。すぐさま、彼の腕が俺の背に回ってきた。っぶね、という声は頭の上から聞こえてきた。
「流石の反射神経だな」
「きみはよく、ここまで生きてこれたな?」
「ああ、まあ、でも生きてるし……けっこうなんとかなる」
白坂の腕の中で、苦笑いする。
俺の運動神経のことを言っているのか、空気が読めないことを言っているのか。きっと両方だ。
どちらにせよ、彼は俺を責めているわけではない。こんな俺を心配しているのだ。
そして、俺の勘違いでなければ、「こんな俺」が愛おしくて堪らないのだ。
眉を真ん中に寄せているのに、くちびるも中央にすぼめて、酸っぱいものを我慢しているみたいだ。しかしこれはあれである。彼が道ばたで猫が寝ているのを見た時と一緒なのだ。猫に対して「かわいい……」と声にならないような空気が喉を通る音だけで呟いていた。猫に対する態度と一緒、というのはすごいことのようでもあるし、果たして褒められているのかもよく分からない。
そんな彼が、俺も、きっと愛おしいのだ。あー抱き締めたい、と思うこれは、愛おしい、で間違っていない。
彼の腕が支えてくれているのをいいことに体重の半分以上を預ける。
「そうじゃないんだってば! もういいけど!」
彼が、片腕で俺を抱くようにしているせいで、顔がとても近い。俺も彼の背に腕を軽く回す。シャツ越しの体温は、いつものように俺の手のひらを溶かす。
彼が目の前でくるくると表情を変えていた。目を釣り上げたり、眉を下げて、あー、とかうーんと小さく唸っている。何がそんなに彼を悩ませるのか。
じっと黙って見ていたら、彼もぴたりと静かになった。あれ、と思うと同時に彼の頬に朱が差した。
「……してもいい?」
横を向いて、そう問うた。こっちを向いて言ってくれてもいいのに、と思いつつ、恋人ってそういうものは聞かなくてもいいのでは、と考える。俺にそう教えたのは君じゃないか。
「たぶん?」
「たぶんってなんだよ、するけど」
背中に触れる彼の手のひらが、俺のジャケットを軽く握ったのが感じられる。
俺が目をつむる前に彼のまぶたが降りた。すぐに、俺も目を閉じる。彼の手が顎にかかり、微調整をする。俺の緊張というのは、この段階でバレてしまうらしい。
とはいえ、彼もそれなりに緊張していると思うのだ。うっすら目を開けると、彼は、しっかりと閉じたまぶたに力が入っているのが、震えるまつげからも、寄った眉からも分かる。
互いにいっぱいいっぱいの行為であることは、当分変わらないのだろう。
一瞬だけかすった、と思うと強く引き寄せられて、深いものへと移っていく。
自分の心音だけが脳みそに籠って響く。口の中にも伝わってしまわないか、と馬鹿みたいな心配をしながら、彼が腕の力を緩めたことに安堵する。
「ごめんね」
「謝る必要はないと、おもう」
「そっか、そうだよなぁ……じゃあ、ありがとうかな」
「どういたしまして……?」
彼は、俺に触れる度に謝った。必要はない。そういう関係だとも俺に教えたのに、彼は、ごめんとすぐに言う。それは、思考よりも先に出てくる言葉なのだろう。
少しの時間を置いて申し訳なさそうな顔をする。ごめん、と言った自分に対する責めと、その言葉を俺に聞かせたことに対する表情だ。
そのタイムラグが彼の豊かな表情以上に俺に何かを伝えてくる。形も見えない、言葉にもならないが、はっきりと刻み付けられる。その一瞬の空白に、思わず身を引いてしまう。
心のどこかで俺に対して申し訳ないと常に感じているということなのだろうか。
「さっきの、よくできました、って褒めていい?」
「さっきの?」
「おれがなんで拗ねたのか分かったから」
がちゃん、とボールペンか何かが落ちたような音がした。ドアの外だ。
ドアを閉めた記憶はなかったが、水越はもう階段を下っていったはずだ。
ぱっ、と振り返ったのは彼で、俺はそんな彼に一拍以上遅れてドアを見た。
「水越かな?」
「水越先生は気にしなさそうだけど」
「そうか……?」
俺はあのひとのことがよく分からないから、どっちとも言えないが、気にしなさそうではあるし、気にされたら最後、からかわれ続けるだろう。前者であってくれることを信じたいし、まず見られていないことを祈りたかった。
「須藤って水越先生とよく話すの?」
「水越? 別に、美術室で遭遇する時くらいだけど」
「なんで水越先生は顧問じゃないんだろうな」
「あんなのが顧問だったら困る」
水越先生、という言葉が何度聞いても聞き慣れない。自分でもたまに使うが、その時も、納まりの悪さのようなものを感じている。向こうも水越、と呼ばれることに慣れている。俺が先生、と呼ぶと向こうも苦笑いを隠しつつ対応する。
彼は、俺よりも水越と接点があったりするのだろうか。さっきも仲良さげに話していたし。
そういえば、と呟くと彼は左の眉の端を微かに持ち上げた。
「君は水泳部なのか?」
「うちのじゃなくて、外部のスクールでやってるよ。水泳部の練習にもたまに混ぜてもらうけど」
「へえ……知らなかった」
「言ってなかったかも、ごめん」
「え、ああ、いや、謝られても困るんだけど……」
キスの最中に机の上に置かれたのだろうスケッチブックを手に取って、新しいページを開く。
彼は、椅子に座った。俺を見上げるようにしながら、ばつの悪そうな顔をした。すぐに、にやりと笑ったが。
俺も、向かいに並べられた椅子に腰をおろして、えんぴつを取る。
「君はなに泳ぎが得意なんだ?」
「なに泳ぎ……。一応、ブレかな。あと、バッタ」
「平泳ぎとバタフライか……太腿?」
「背筋も結構、自信あるけど」
彼をざかざかと描き散らす。Tシャツの綿素材のやわらかさと、しわに気を付けながら、彼の動きを捉えていく。
「きみは、水泳は?」
「好きでも嫌いでもない」
「一番好きな泳ぎは、なに泳ぎ?」
「クロールだけど。俺のこと、馬鹿にしてるだろ?」
スケッチブックから顔を上げるついでに、彼を睨む。大げさに肩をすくめて見せる彼は、否定はしなかった。
「体育は嫌い?」
「いや、別に……まあ、好きではないかな」
「短距離とか速いの?」
「たぶん、平均くらい」
へえ、と相づちを打ちながらも彼の質問は続いていく。
そこでやっと、俺は気付いた。
俺が彼のことを何も知らないのに、彼は俺のことをよく知っている気がする、その理由はこれだ。彼は質問魔だ。ずっと俺に質問する。俺も聞き返せばいいのだろうけど、そんな間も与えられずに次の質問がやってくる。
ちょっと待って、と鉛筆を指に挟んで、手で制す。彼は目をぱちり、と瞬く。少し驚いているようだ。
「俺に何かを聞くときは、先に君が答えてからにしてくれ」
「へ? オレがきみに向けた質問に、オレが答えるの?」
彼が自分を指差した。そして、その人差し指を俺に向けて、彼に向けて、頷く。うん、いいよ、と人差し指は引っ込んだ。
「じゃあ、」
「あ。待って、先に白坂、君は、水泳は好きか? 体育は? 短距離走は? 速いのか?」
「わっ、え、近っ」
椅子を前にずらして、さらに前のめりになって問いかける。そして、じっと見つめる。
嬉しいなぁ、と顔を綻ばせて、頬をかいた。
「水泳は好きだし、体育も好き。短距離はそこまで速くないけど、平均よりは、まあ、そこそこ速いかな。どっちかというと長距離の方が、いいタイム出るよ」
「どうして嬉しいんだ?」
「はは、そっちなんだ。きみがオレに興味持ってくれたから」
ふうん、と頷きつつ、前傾姿勢をやめて、背筋を伸ばす。
質問されると、彼は嬉しいのか。
彼が、俺のことをよく知っているのに、俺は彼を知らない。それをずるい、と思うのは、どういう気持ちなのだろう。
ふと思い出した言葉を口にする。
「好きの反対は無関心って、そういうこと?」
「そういうこと!」
須藤! と声を大きくした彼が俺の頭を抱き込んだ。うれしい〜と興奮気味に俺の頭をわしゃわしゃと撫で回す。顔を上げると、こんな笑顔は見たことないと思うような、締まりのない笑みだった。
彼の笑顔を見てると、釣られて楽しい気持ちになってくる。
なんで彼がこんなに嬉しそうなのか、よく分かってはいなかったが、そんなことはどうでもいいかという気持ちにさせられる。そういう表情なのだ。
俺の持っている語彙では表すことは到底かなわないほど、たくさんの種類の笑い方を彼は持っている。たぶん、彼は声を失ってもコミュニケーションが取れてしまうに違いない、そんな確信めいたものを抱かせるくらいには表情が豊かだ。
彼に会う度に思うことだ。
それでも、彼の表情の半分くらいは俺の処理能力を超えてしまって解読不可能なのだけれど(となれば、彼が声を失ったら俺とはコミュニケーションが取れないということになる)。
「ん? きみ、変な顔してる」
「俺が?」
「うん。なんか、こう、もうちょい、にーって笑ってみ」
「にーって」
「こうだってば」
離れた腕が、また近付く。人差し指を立てた両手で自分の頬を持ち上げた彼が、ほら、と俺に同じ動きをさせようとする。ぼけーっと見ていた俺からえんぴつとスケッチブックを奪って、膝に置いた彼。すぐさま俺の両腕を掴んで、目線で急かす。
数秒のにらみ合いの後、俺がさきほどの彼と同じように人差し指を立てる。彼の手によって、俺の人差し指の先が、頬の肉を持ち上げる。
「はい、にー」
「にー」
「歯医者さんみたいだな」
「あいしゃはん、こんにゃひゃない」
「ていうか、きみ、いま、最高にぶさいくだ」
けらけらと笑い始める。
質問されても、俺は特に嬉しさは感じたことがなかった。あまりにも聞かれてばかりだからだろうか。
思えば、はじめから彼は俺のことを俺よりも知っている節があった。それに加えて、毎度の質問攻撃である。俺と彼の、情報の差はずいぶんと開いているのではないだろうか。
「ぶさいくな須藤、はまったかも」
「馬鹿にしてるだろ」
「普段は、綺麗……だってことだ、って分かってよ」
「……ああ、君は国語が苦手なんだよな」
「勝手に納得しないで?! 間違ってるから、その理解!」
「今日はもう、容量オーバーだ、ちょっと待ってくれ。これ以上分からないこと言わないで」
ええー、と心底不満だと彼の表情は語る。いや、これは不満ではなく怪訝だ。彼は、俺の理解力の乏しさを怪しんでいる。
「おれさ、きみのこと、もう少し普通の人だと思ってたよ。悪い意味じゃなくて」
「著しく変だとは思ってない、けど、だめか……?」
「そんな顔をしないでくれ、うーん、あー、ちょっと待って」
腕を組んで、目を瞑る。彼は、言葉を探す。俺は、そんな彼を見ながら別のことを考える。
「無関心の反対が好きってことは、俺が君に関心を持ったら、俺は君を好きってこと?」
「へ? あ、うん、そうなんじゃない」
「そうか」
よく知らないひとと恋は始まらない。それはこういうことでもあるのか。一目惚れ特異性を物語る。
彼のことを知りたいと思うのは好意なのだ。
「あ、ごめん!! いま別のこと考えてた! おれもきみのこと、好きだからっ!」
「ああ、うん……? ありがとう」