07






 窓ガラス越しの空は、夏ほどの鮮やかさも冬ほどの遠さもない青色をしていた。花粉や砂塵のせいなのか、どこか柔らかい色合いの青空は陽光に更に白けていた。
 暖かくはなったが、やはりまだ肌寒さは消えてはいない。
 ぶわっと勢いよく、教室の中に桜が舞い込んできた。迂闊に窓を開けたのは間違いだったかもしれない。暗い黄緑のリノリウムの床にちらほらと白い丸が散った。たまに見える灰色のもやっとしたものはほこりのかたまりだ。
 諦めて、窓を閉める。教室後方の掃除用具の収まったロッカーを見る。初日が、掃除から始まるというのも悪くは無いだろう。この期を逃したら、当分しないだろうし。
 新学期初日から部活に出る必要なんてもちろんなく、俺がここにいるのは、ただヘルメスに会いに来た、それだけである。
 そこでふと、こんなことがばれたら、白坂は怒るだろうな、と思った。そこまで、意識が向くようになった自分にとても驚いている。
 白坂というのは、去年度末に知り合った同学年の生徒だ。
 一応、いや正式に俺の恋人ということになる。互いに好きだと認識しているので、たぶん、そう。きっと。
 だからといって、ほとんど恋人らしいことなんてしていないが。
 彼とそういう話をすると(照れくさいのでそうそう出てくる話題でもない)、彼は呆れっぱなしで開いた口を閉じる暇もなくなってしまうのである。ひとえに俺が無知、というよりかは感覚が少々ずれているせいだろう。
 ずれている、という自覚はある。ただし、興味がないのだから、知らなくても許して欲しいというのが俺の意見。ちなみに彼は長いため息で応えた。そして、弱ったなぁ、と笑っていた。
 俺は彼の言葉と表情が、度々理解できていない。彼の言動は複雑なのだ。

 「須藤! 新入生とか来てないか!? ひとり?!」

 駆け込んできた生徒。同じ色の上履き履いている。ぼんやりと外を見つつ、未だに窓のサッシに手をかけていた。そんな俺のすぐ横で息を切らしている。どこから走ってきたのかは分からないが、肩には桜の花びらが乗っていた。

 「入学式は明日だ」
 「あ、そっか」

 暗いグレーにシャドーストライプの入ったブレザー。金のボタンは全て外されている。彼、白坂が肩で大きく息をつくたびに揺れるネクタイもブレザーと同じくストライプだ。全く同じものを俺も着ているわけだが、彼の制服姿があまりにも新鮮で、今自分が着ているものとは違うものにすら見える。

 「君も制服着るんだな」
 「当たり前だろ、この間廊下であった時とか着てただろ」
 「そうだっけ」

 あっつい、と手で顔を扇いだ彼は、ジャケットを机の上に脱ぎ捨てて、シャツの袖を雑にまくった。そもそも緩められていたネクタイ、それも引き抜いた。そして、ジャケットの上にぽい、である。

 「ヘルメス描く?」

 その前に掃除なのだ。春休み中、一度も使われなかったであろう美術室は空気が悪い。入口を開け放しただけではやはり、空気は回ってくれそうにもない。
 外から入ってくる砂塵と、俺と彼の掃除する速度、どちらが速いだろうか。きっと、掃除の方が速い。
 よし、ともう一度窓を開ける。今度は全開だ。

 「掃除する。君も手伝って」
 「おう」

 俺が隣の窓々を開けていくうちに彼は、ロッカーから2本のほうきを取り出していた。ちりとりまで持っている。

 「はい、これ」
 「ああ、ありがとう」
 「さっきさ、帰ろうとしたら美術室の窓が開いたの見えてびびって飛んできたんだぜ。汗かいちゃった」
 「どうして? ああ、新入生きたと思ったのか」

 入学式は明日である。他の運動部ならいざ知らず、廃部寸前のこの美術部に春休み中から来るような熱心な人間がいるはずもない。いたとして、俺が困る。部員が増えることを是としていないわけではなく、そんなにやる気満ち溢れた人間がいたら俺の立場はどうなってしまうんだ、とかその程度のことだが。

 「あーでもさ、やっぱりひとりくらい入ってくれないと困るよな、美術部の部長さん?」
 「え、ああ……。いや、別に大丈夫じゃないか? おかしな新設の部活以外は、部員ゼロでも存続できるらしいし」

 俺が入った時に先輩はいなかった。去年も新入生は入って来なかったし、今年もそうだろう。美術教師が言うには、俺の前に入れ替わるように卒業していった先輩がいたらしいが、その代でもふたりだったらしい。ひとりであろうとふたりであろうと、どちらにしろ部の成立条件は満たされていない。それでも同好会に格下げされることもなく部としての存在が保たれている。
 部費も払ってなければ、学校側から何かが支給されるわけでもない。美術室を他に使う団体もいない。
 居るだけなら好きにしろ、ということに違いない。もしかしたら、部活動ではなく、俺がひとりで定期的に絵を描いている、それだけなのかもしれない。

 「新歓は? 部活紹介あるよな」
 「ああ、あれは……出ない」
 「出ない?! そういう選択肢あるんだ……」
 「去年もなかっただろ」

 新入生に配られる冊子に名前は載せてあるし、短いながらも文章は作成した。冊子にはきちんとスペースは設けられていたのだ。
 あくまでも運動部に力を入れている学校なのである。
 それと、俺はひとりで美術室にいるのが好きなのだ。若干、ずるいかもしれないが、きっと結果は変わらなかっただろう。

 「そういえば、いなかった。オレ、去年の秋まで美術部の存在知らなかった」

 教室の右半分を俺が、左半分を彼が掃いた。ちょうど真ん中に集まってきた桜の花びら混じりのほこりを、彼が手早くちりとりに乗せた。
 彼が、さっと首を後ろに回して大きなくしゃみをした。

 「花粉症だった? ごめん、今すぐ窓閉める!」
 「いや! 平気……なハズ? 花粉症じゃない」
 「そう? ならいいけど」

 本人がそういうので、とりあえず窓は閉めずに掃除を続ける。掃き掃除だけでも、随分と違うもので、なんだか空間が少しだけ明るくなったような気がした。
 彼が腕を伸ばしてきた。俺が首を傾げる前に当然だというように俺の手からほうきを持っていってしまう。

 「新入生来ちゃったら、どうしよう」
 「ああ、どうしような」
 「えっ?!」
 「ん? いやだって、困るだろ。なにかと。誰かと描くなんて嫌だ」

 ロッカーに半身を突っ込んで、がちゃがちゃとなにかと奮闘していた彼が勢いよく振り返った。

 「そうだよなぁ……」
 「君も来づらくなるよな。君は部外者だ」
 「……改めて言われると傷つくな」
 「え、ごめん」

 いいよ、と手を軽く振って、へにゃりと締まりのない笑みを浮かべた。傷つくと言った瞬間にこの表情である。難易度が高いにも程がある。

 「ヘルメス出す?」
 「んん、ああ、そうだな、出そうか」

 しっかり描くつもりはなかったのだが、まあいいだろう。ちょうど手元にスケッチブックがある。らくがきとして、ちょっと描くのもありだ。
 石膏が収まる棚の前で待っている彼が、早くと手招きをする。

 「やけに積極的だな」
 「あー、えっと。最近、こいつの顔見てなかったなぁとか思ってさ」
 「君、重症じゃないか?」

 思わず、眉を寄せる。
 ベストを脱いで、かばんにエプロンが入っていないことを思い出す。仕方が無いので、俺も彼のように袖をまくった。

 「きみには言われたくない!」
 「ああ、それはもう前提としてだな……君までも、って意味で。なんだか、俺のせいとしか考えられなくて」
 「きみのせいだけど、きみほどこじらせないから心配すんなよ」
 「……そうか? ならいいけど」

 しゃがんで向かい合う。彼の手が、ヘルメスの背を通って、裏へ回される。少し浮いた台座の下に俺が指を滑り込ませて、せーの、とどちらともなく声が揃う。
 持ち上がったヘルメスを、彼が勝手に胸へもたれかけさせ、俺は少しやるせない気持ちになる。もう気にするのは辞めることにしたけど。
 二回目のせーの、で教師が使う広い机の上に置かれたヘルメス。細やかなほこりのせいで、手のひらもシャツもざらり、と気持ちが悪い。ぱんぱん、と手のひらを鳴らすようにした。彼も同じようにしている。シャツの下のほうを引っ張って、白い布についているはずの見えないほこりをはたいている。
 オレもエプロンしようかなぁ、と呟いた。

 「ジャージの上に?」
 「あ、そっか。オレ、ジャージで来るんだった」
 「ボケてるのか?」
 「まあ、ほら、そろそろ、3年だし引退だから」

 ああ、そうか、と返しつつも俺はその言葉を思い出すまでに少しかかっていた。
 そうだ、引退。
 完璧に忘れていた。大会もなければ、そもそも部員もいない。そんな部である。

 「須藤は引退いつ?」
 「……顧問か水越に聞いてみないと分からない。たぶん、いつでもいいんじゃないか? 鍵の管理さえできてれば、なんの問題もないはず、だ。たぶん」

 ヘルメスの角度を直し、イーゼルを出しに行こうとした彼の腕を引っ張って止める。今日はらくがきなのだ。わざわざイーゼルを組み立てるほどではない。

 「須藤?」
 「ん、ああ。イーゼルは平気」
 「そうか?」

 スケッチブックと筆箱を出して、いつも通りに黒い机にばらまく。何本もの六角のえんぴつがころころ、と軽い音を立てた。
 彼は、どこかの机から椅子引っ張ってきて、俺も近い椅子を足の甲を引っ掛けて、寄せる。すぐ後ろから、横着すんなよ、と聞こえてきたが無視する。
 俺も彼も黙り、外の桜の枝がわさわさと強風に揺すられる音だけがした。
 ヘルメスの肩だけ。そう思って、描き出した。
 背中には、彼の視線を感じながら。


 「っっくじょっ!!」
 「うわっ、びっくりした……」

 俺が手を止めたのは、彼の盛大なくしゃみの音にだった。
 うーん、ごめん、と鼻をこする彼は、どう見ても花粉症だった。目もいかにも痒そうに、赤い。充血していた。

 「君、花粉症だろ、どう考えても」
 「今日とつぜん?!」
 「誰だって、突然なるものなんじゃないのか?」
 「確かに……」

 今まで相当、我慢していたのだろう。くしゃみとか気にしないでいいから、と言ったら、後ろでずっとくしゃみする音、鼻をすする音が止まらなくなった。たまに気になって振り返ると、申し訳なさそうな顔をする。そんな表情をさせるのは嫌で、できるだけ控えはしたが、どうにも気になる。振り返る度に、赤い目尻の色が広がっていて、目をぱしぱしと瞬かせてた。見ているこっちまで目が痒くなってきそうだった。

 「さっき窓全開にしたのが、悪かったよな……ごめん、大丈夫?」
 「こっちこそ邪魔してごめんな!」
 「ああ、いや、全然構わないけど」

 天気予報で今日は関東一帯、花粉の量がすごいとかなんとか言っていた。
 マスクなんか持ってないよなぁ。かばんへ目線を向けるが、入っているわけがない。冬にも付けないのだから当然だ。

 「あ、なんか落ち着いてきた」

 依然として目は赤いが、とりあえずくしゃみが随分と収まったようだ。
 花粉症がどんなものか体感したことがないので、よく分からないが、辛いのは確かだ。

 「あれ、全部じゃない」
 「ああ、たまには部分だけ描くこともあるんだ」
 「前にコレ見せてもらった時に見たよ」

 椅子から数歩こっちへやってきて、いつの間にか後ろに立っていた。驚いたけれど、それを顔に出すのはしゃくな気がして、何食わぬ顔で返答する。
 すぐ横に彼の顔があった。

 「近いよ」
 「えっ? あ、ごめん」

 ぱっと彼が体を起こして、横に並んだ。
 シャツの裾は後ろだけしまってあって、さっきはたいた時のままなんだな、と思った。
 ふと眩しさに顔を上げる。
 短い髪のおかげでよく分かる頭部の曲線から、うなじまでを目線でなぞる。まだほとんど真上にある太陽の光を受けて、塩素で抜けたのか茶色っぽい髪の先端がきらきらしていた。
 シャツの襟から、白い布地。少し前かがみになったからか、背骨が布を押した。

 「須藤は、このへんが好きなの?」
 「へ? いや、別にシャツが出てるなって思ったんだが、それだけ」

 うん? とお互いがはてなマークを出したまま見合う。数秒の沈黙のあと、彼が小さく吹き出した。
 オレの話? とにやにやしている。

 「ヘルメスの話したんだけど?」
 「ああ……。俺は、ヘルメスの横顔と腕の断面が好きかな」
 「よこがお……だんめん。断面ってなんかコアな感じ」
 「胸筋は言わずもがなだけど」

 なんで? と顔に書いてあった。
 ヘルメスの胸筋は宇宙、石膏界もとい石膏デッサンをする人間の界隈ではよく言われる言葉である。そんな界隈を俺自身が知っているわけではないが、美術教師が言っていた。あれでいて、美術を教えているのだから美術大学を出ているのだろうし、あの教師は嘘はつかない。嘘をつくことが面倒くさいようである。もちろん、嘘をつくのは原則として悪いことなのだから構わないのだが、あの妙にひねくれた性格なら嘘のひとつふたつついてもおかしくなさそうだ、という話である。
 水越のことはどうでもいい。
 ヘルメスの胸筋の話だ。どこがどう宇宙なのかと言われると、はっきりとは言葉にできない。感じたことを、思い通りに言葉にできていたら、きっと俺は今ここでえんぴつを握ってはいない。握っているのは万年筆だっただろう。
 とにもかくにも、「宇宙」という表現を聞いた時に、心底から納得したのだ。それだけである。そしてそれはきっと、ヘルメスを描いたことのある人間ならば、分かるようなことなのだ。

 「なんていうか、そういうもの」
 「ふうん?」

 そっかぁ、と椅子へ戻っていった。
 鼻をすする音は絶え間なくしていたが、彼はいつもの視線を後ろから投げていた。
 久しぶりに向けられるその視線を背中で感じつつ、腕を動かす。今日も彼はヘルメスと、俺の描いたヘルメスをじっと、睨みつけているのだ。
 振り返らなければ、絶対とは言えないが、きっと彼はそうしている。少なくとも、俺は、ふとした瞬間 「彼が今も見ているんだ」と勝手に思う。目が合うと彼は、俺に向かって笑いかける。それはもちろん、嫌なわけではないけれど、それはそれ、これはこれであって、ようは俺は彼の睨みつけるような鋭い目線が気に入っているのだ。彼にばれないように、そうっと見るあの瞬間、嬉しさとも喜びとも違うけれど、なにかプラスの感情が胸を震わせる。
 ぞくぞくする、っていうのが近いのかな。
 ちらり、とななめ後ろを見る。

 「どうかした?」

 彼は、ちょっと釣った目を軽く細めて、優しく微笑んだ。


(2016/06/18 10:34:40)


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