06





 スケッチブックの半分くらいが、あっという間に彼で埋まってしまった。彼に見せてと言われて、もう渋るほど下手ではないと、自分に及第点を与えて、スケッチブックを渡した。
 どのページもしっかり見ているようで、全く顔を上げもしない。そんな彼の目の前に立っているのは、むずがゆい感じがした。

 「あ、ヘルメスだ」
 「え? ああ、そんなとこまで見たのか」
 「ダメだった?」
 「いいや、もう今更だし」

 あれだけ下手なものを見せてしまった、というか、彼をあんな風に描いてしまったという申し訳なさがある。あれほど失礼なことは他にないだろう。そう考えると、彼に対して許せないものはほとんどないかもしれない。
 今更? と首を傾げた彼。スケッチブックと俺の間に視線を巡らせた。なんでもない、と言えば、スケッチブックのとあるページを見せてきた。

 「これ、あんまり使わないの?」
 「このスケッチブック?」

 日付が一昨年だ、と指差した。
 一年生の時のスケッチは、さすがに恥ずかしいとも思ったが、彼の質問に答えなくては。
 そのことか、と準備室を指差す。

 「一回、あの中で行方不明になったから」
 「準備室の中ってどんな」
 「汚い、っていうか片付けられてない」
 「水越先生は?」

 あの美術教師のことをちゃんと先生と呼ぶのを久しぶりに聞いた気がする。女子は大抵、ミズちゃんと呼んでいる。それでいいのか、というくらいに安易だが、他にピンとくるものがなかったんだろうな、とは察した。顧問をやっているサッカー部の生徒は、呼び捨てている。本人は特に気にしていないようだ。

 「基本使ってない……いや、自分が使うところだけは片付けてる」
 「あー、っぽいね」

 だよな、と同意して、彼が一度閉じてから、表紙を開き直した。一ページ目が見たかったのか。俺も覗き込む。
 一年生の時、一番はじめに描いたものが、当然そこにはあった。顧問は何も言わないし、美術教師はグラウンドにいるし、とどうしていいか分からなくてとりあえず、と思って買ったスケッチブックだ。遭難事故を得て、もはや懐かしさすら感じるものになっている。

 「うわ、上手くなってるんだなぁ。あ、オレなんかに言われたら嫌か」
 「いや、普通に褒め言葉として受け取るよ、なんの謙遜?」

 少し冗談っぽく言って、スケッチブックを受け取る。
 ぱぁっと、彼の顔に満面の笑みがあった。訳は分からないけど、彼は嬉しそうだった。本当にめまぐるしく表情を変える。

 「ありがとう、面白かった」
 「いや、こちらこそ、どういたしまして」

 深々と頭を下げられ、釣られて同じようにする。手を後ろに伸ばして、机の上に置かれたえんぴつを手に取った。
 待って、と声がかけられる。
 あのさ、と目が伏せられ、宙をさまよい、一拍の沈黙があった。

 「最近、なんか変わったこととかある?」
 「随分とアバウトな質問だな」

 茶化したつもりはなかった。ただ、単にそう思っただけだ。けれど、彼はそう受け取ってくれなかったのかもしれない。
 口角は上げたまま、すっと目を細めて「ほんの些細なことでもいいんだけど」と念を押すように言う。
 ふざけた雰囲気が一瞬にしてどこかへ消えて、まるで尋問されているみたいだった。それもあながち間違いではないのかもしれない。質問の内容の割に、明確な答えを求められているのが分かる。
 きっと、彼は「これ」という決まった答えを俺が言うのを待っているのだ。
 何度も感じたことだ。

 「なんか、と言うと……?」
 「ううん、なんとなく聞いただけ。でも……」

 彼は立ち上がって、俺の両手をその上から自分の両手で包んだ。えんぴつも一緒に握り込まれる。
 あっごめん、とすぐに離された。

 「オレがさ、ヘルメスとキスしてる時ってやきもちとかないの?」
 「な、いと思う、けど」

 嘘だよ、と吐息混じりの小さな声が零された。ただ、その冷たい声色に目を丸くすることしか出来なかった。
 彼の真顔が怖かった。つり目がちな細い目が、俺を睨みつけるようにする。
 表情が豊かな彼の、無表情は初めて見る。これも表情ではあるのだろうけれど、本当に何も読み取ることが出来ない。
 彼は何を思っている?
 俺に何を言わせたいのだろうか。
 俺に見えない俺を彼は知っているのだ。俺の代わりに俺に関心を持ってなにかを見つけた。

 「オレがヘルメスとキスしてどう思ったの? 興奮した? 本当にやきもちも嫉妬も全くない? オレがヘルメスにキスするたびに、きみ、自分がどんな顔してるか知らないだろ」

 そんなに一気に言われても困る。まくし立てるように次々と質問をしてきた。質問ではない。いっそ事実を並べられたのかもしれない。
 怒っているわけではなさそうだが、責められているようだ。

 「あの日、オレの首に触ったのはどうして? ヘルメスに触って、オレに触って、あいつのこともオレのことも、きみは描いた」
 「ああ、そうだな、描いた……あの時は何も考えられなかった」

 頭が真っ白になったんだ、と言う。どこにも嘘はなかった。本当に何も考えられなくて大変だったのだ。

 「須藤にとって、ヘルメスとオレってなに?」

 彼の言っていることが本当に分からなかった。首を傾げる余裕もなく俺は混乱に陥る。
 日本語を話していて、ひとつひとつの単語はすべて分かるのに、理解ができない。つまり、つながらないのは文脈。

 「オレさ、誤解はしないで欲しいんだけど、うーん、あながち誤解でもないのか。……きみのことを、結構前から見てきたと思う、その自信が一応あるからこんなこと聞いたんだけど」
 「ああ、うん……? そう、なのか?」
 「うん、そうなんだよ」

 あー待って、やっぱり恋は盲目とか言うし、客観的ではないっていうか、えーと、その、オレの主観ってこの状態じゃなんの役にも立たない?! あれ!?
 彼はひとり百面相を始めた。
 俺は、もう何がなんだかという話で、彼が言っていることがやっぱり分からないのだ。焦ってることは流石に分かる。
 じっと待つ。彼が落ち着いてちゃんと話してくれなければ、俺はどこが分からないのかさえ分からないのだ。

 「ヘルメスを描く時の顔が違う、って言ったの覚えてる?」
 「ああ、そういえば」
 「それと同じ顔、するんだぜ、きみ。オレを書く時にも」

 彼の顔が赤い。片手で、その顔を覆って、指の隙間から黒い虹彩が見えた。目が合うと、慌てて逸らされる。

 「きみにとってのヘルメスってなに?」

 なんだろう……、と零した俺の声は弱々しかった。
 その疑問は、俺のものだ。
 もしかしたら、彼は、俺のことなんて全てお見通しなのかもしれない。そうだと言われても驚かないし、疑いもしないだろう。

 「オレは、ヘルメスに並べるんだろうか?」
 「並ぶ、って……? ヘルメスはひとじゃない」
 「その『ひとじゃない』ヘルメスを唯一のなにかにしてる須藤、きみは……ヘルメスが好きなのか、って聞いてるんだ」
 「好き?」

 前も同じようなことを聞かれなかっただろうか。少なくとも、こんな話題で話したことは確かだ。
 石膏の中ではもちろんヘルメスに敵うものはいないだろうというぐらいには好きである。
 好きだよ、と答える。
 恋しているのか、と問われる。

 「……恋をするってどんなことなんだ?」
 「はい? あーうん、っと、そりゃあ……電子辞書出すね」

 机の足のあたりに放ってあったリュックをがさごそを漁り始める。身をかがめて、伸びた首筋がよく見えた。 
 あの日、思わず触ってしまったあの首筋だ。
 俺の冷えきった手には熱かったことを思い出す。あの時は、そんなことを感じる余裕はなかったけれど、思い出すだけでじんじんと指先が軽いしびれを伴った。
彼の手の中には黒い電子辞書。カバーはかかっていない。

 「『恋』。えーと、『特定の異性に強く惹かれ、会いたい、ひとりじめしたい、一緒になりたいという気持ち』だって。異性、ね……そりゃそうか」

 彼が、電子辞書の画面を睨み付けて、勢いよく閉めてしまった。ばちんっ、という音がした。
 一瞬にして一層冷えた空気を変えるためにも、何か言おうと言葉を探す。

 「そうだな、ヘルメスに強く惹かれ……てはいるな。会いたく、もある。けど、独り占めは、別に思わない」

 そこにいるヘルメスは、あくまで模造品であり、同じようなものが世界中にごろごろいるのだ。ヘルメスというひとつに存在として見れば、365日、片時も誰かに見られていないなんて時は存在しない。
 たくさんの視線のひとつでしかない。
 本物にお目にかかったこともない俺が『独り占めしたい』なんて思うこと自体が狂気の沙汰に違いない。

 「ヘルメスも異性じゃないけどな」
 「ああ、そうだな。そもそも石だし。これっていくつ当てはまったら恋してるってなるんだ?」
 「いくつ? え、そういうやつじゃ」
 「ああ、そうなのか、そうだよな。辞書だしな」

 ぽかん、と呆れたと言わんばかりの(当然である、自分でも呆れている)表情の彼が、かぶりを振った。
 そうじゃない、という呟きは自分にあてたものか、俺へなのか。

 「じゃあ、オレは?」
 「君? 俺が、君に恋をしているか? いや、俺も君も男じゃないか」
 「ヘルメスも男だろ? 素材がなんであろうと、性別は男だ」
 「いや、だから、ヘルメスは、そういう存在じゃないっていうか、君こそ……俺に何を言わせたいんだよ!? よく分かんないことばっかり言ってきて、俺は困ってるんだっ!」

 思わず大きな声が出た。こんな風に声を張り上げたのは久しぶりだ。いつぶりだろう。
 彼は、俺以上にヘルメスに固執しているような気がする。反りが合わないと言いつつ、口づけて、ヘルメスは俺にとってなにか? なんて。そんなの俺の方が聞きたいという話だ。
 彼は、ヘルメスの話をしているのだろうか。俺の話? 彼自身の話なのか?

 「君の言うことは難しいんだ、もう少しわかり易く話して欲しい」
 「あー、えっと、オレとヘルメスは違う?」
 「もちろん。君は体温も柔らかさも持ち合わせた人間じゃないか」
 「……そっか」

 急に黙り込んでしまった彼。机の上のブルータスを一瞬仰いだ。
 俺は、えんぴつを置いた。かつん、と木と木が音を立てた。
 日はずいぶんと傾いて、その色も煮詰めたかのように濃くなっていた。
 カーテンを閉めて電気をつけなければ。
 立ち上がろうとした。肩を押さえられて、俺は若干浮かせた腰が椅子に戻された。

 「やっぱりオレが間違ってたみたいだ。まどろっこしいことは辞めるよ」
 「うん……?」
 「オレはきみを見てきた。それは須藤のことが好きだからだ。そのオレから見て、きみは最近少し変わったと思う」
 「……そうか? あんまり感じないけど」
 「もうそれでいいよ。でも、オレは、僅かな変化にでも賭けたかったんだ」

 変化、変わったこと、違和感。
 ひとつ思い当たった。

 「待って、違う。きみの耳は節穴なのか?! おい!!」
 「それを言うなら、」
 「そういう話じゃない!! オレは、須藤に好きだって言ってるんだ!! 愛とか恋とかそういうやつ! 触りたいしキスしたいし、エロいことがしてみたいって言ってるんだ!!」 

 数秒間、頭の中で彼の言葉がぐるりと回った。
 ぽん、と手のひらを打ちたくなった。言葉がやっと文字の集合体から言語になったような気がした。

 「俺も、君がヘルメスにキスをした後に、ヘルメスをキスをしたくなる。でも、前と違って何回しても……し足りないような気持ちになるんだよな。欲求不満というのか……」
 「きみは……いや、いい。それって、どういう意味?」
 「それが分からないんだ」
 「分からないことばっかりかよ、そうだな、じゃあオレとキスしてみる?」

 ヘルメスと彼のキスを見て、ヘルメスとくちづけて「物足りない」と思うのだから、彼としてみるというのは、理屈としては間違っていないだろう。
 彼とヘルメスのキスは、何かが違うのだ。俺がヘルメスにくちづけるそれとは、確実に何かが違う。あんなに見てて恥ずかしい気持ちになんてならない。体の中央からカッと燃え上がるような熱さには見舞われない。
 ヘルメスとのキスは、もっと静かで冷たい。じわじわと冷たさが染みてくるような感じだ。恥ずかしさよりも、圧倒的に仄暗い罪悪感が占めている。

 「……ああ、してみる」
 「えっあっ、ほんとに? ううん、いや、いい。なんでもない。今からする。しますっ!」

 彼の指が顎に掛けられ、俺は目を瞑った。すぐにくちびるに温かいものが触れた。
 くちびるから直に伝わる熱とは別に、そこに彼がいることが伝わってくる温かさがあった。俺と彼の間に温かい空気が漂っていることが感じられる。

 「君、顔が赤いよ」

 体温が離れていったので、そうっと目を開けると、椅子に座って頬どころか耳の先端まで赤くした彼がいた。
 この熱だ。この柔らかさだ。
 俺が描けなかったものだ。
 パズルのピースがはまったような、なんて陳腐な表現がまさに合う。俺の視覚が得た情報と俺の触覚が得た情報が重なった。
 今なら、満足のいくものが描ける。そう思った。
 今すぐに描きたい。自分でも興奮しているのが分かる。そわそわしてきた。

 「どうしてきみは普通かなぁ!」
 「どうしてって……あ。なんか俺も、変な感じしてきた」

 あれよあれよという間に、別の熱が登ってきた。
 彼はどこの美術室にもいるレプリカの石膏でもなんでもない。ひとりの人間だ。
 俺がヘルメスにするそれとは意味が違う。 
 俺はキスをしたのか……。
 顔が熱い。照れてばっかりだな。癖のように手で頬を冷やそうとした。その腕がぱっと掴まれた。じっと見つめられる。 

 「え、っと、その……満足感があり、ます」
 「そうか、そっ、か……? てことは、なんだ?」
 「ヘルメスとのキスが足りなかったんじゃなくて、君とのキスを俺は欲してたって、こと……なのかな」 
 「…………あ、そういうことね。ん? んん?」

 ぎゅうっと目を瞑って、俯いた。はああああ、と長いため息。どうした、と覗きこもうとしたら手のひらで制された。
 開放された手首を見てみる。もちろん、赤くもなんともなっていない。
 ぽつりと言った。なんでもない。彼の声がいつもとなんだか違った。
 短い前髪のせいで俯いたところで、赤い耳はよく見えるし、そもそも彼の方が少し背が高いのだから、やっと目線が並んだようなものだ。
 それ彼も気が付いたのか、あからさまに横を向いてしまった。

 「あ、かわいい」

 ぽこん、と喉から言葉が飛び出した。
 そうだ、かわいい。その表現が正しい。どうして、自分はその言葉が出せなかったのか。人間に向ける言葉として認識していなかったからだろうか。
 自分の言葉に自分で感心してしまった。

 「恋しい、の類義語って愛おしいだと思うんだ。で、愛おしいって、かわいいって思うことだ、たぶん」

 そっぽを向いたまま、彼が言った。

 「きみはさ、オレのこと好きなんじゃないだろうか」
 「俺が君のことを好き……そうだな、そうかも」
 「本当に?!」
 「いま君が説明しただろ。俺は君を愛おしいと思ったんだ」

 彼が、一度頷いた。
 大きく息を吸い込んだ。釣られて、俺は息を飲んだ。

 「ちゃんと聞けよ、理解してくれよ!?」

 いいな? と念を押した。ぐっと掴まれた両肩。俺は茶色い瞳の真剣さに思わず身構える。

 「オレはきみに恋をしていて、さっきから愛の告白をしてる。んで、きみに好きと言わせようと必死こいてる。オレにはさっきまで、きみが俺のことを少しは特別に思ってくれてるんじゃないかと思ってた。やっぱり違ったと思ったけど、さっきの言葉で可能性はあるかも、と気持ちが上下してる」
 「……告白? 好き?? つまり、俺、ものすごい失礼、だった……?」

 ぶんぶん、大きく頭を縦に振って頷く彼は本当に嬉しそうだ。そうそれ!! と指でも差しそうな勢い。
 しかし、俺は大混乱である。
 愛の告白。
 俺の頭はやっぱり少し回転が遅すぎるようだ。彼はさっきから何を言っていた?
 俺に何回、好きだと言った? 
 最低なことをしたのではないだろうか。わざとスルーしたわけではないが、そしてそれはどうも彼にも伝わっているようだが、それでも酷いことには変わりはない。

 「オレもさ、よく分かんないんだけど、ホモってやつなんだよ。君を男として好きなんだ」
 「あの、それ以上は言わないでくれ……恥ずかしい」
 「あー、あのさ、気持ち悪いとか、は?」
 「それは別に……あんまり考えたことはないけど」

 特に彼が男が好きだということには抵抗はない。そういうひともいるだろう。それだけだ。世界の偉人なんてホモばかりだし。

 「もう一回言うよ。きみが好きだ」

 ありがとう、と告げる。その続きの言葉が浮かばない。彼は続きしか求めていない。ひとまずの「ありがとう」に意味も価値もない。
 続き、とは。是非で答える言葉ではない。

 「付き合って欲しい、と言うつもりはないんだ。そりゃ、できるならしたいけど……」
 「君は、俺が君を好きかどうか……言えばいいのか?」
 「うん、全くちゃんと振って欲しい。きみは同情なんかでオレに好きだって言ったり中途半端な態度は取らないだろうから」

 そんなことするメリットがないよね、と俯いてしまった彼。
 膝の上に置いていた手が、ズボンを握り込んでいた。ああ、と気付いてた手を開いた時には、手遅れにくしゃくしゃになっていた。
 彼の手も同じようにきつく握り締められている。
 あの手を開いてあげたいと思う。
 手を伸ばそうとして、思いとどまる。その行為は彼を、戸惑わせるだけだろう。
 自惚れではないのだ、彼がまっすぐな目をして言った。もし冗談だったら、あまりにも捨て身で、あまりにも笑えない。そして、意味がない。疑う余地なんてない。 
 彼は俺を好きだという。それを信じないのは、ひととして酷いにも程があるというものだ。

 「今、分からないと答えるのは、『いいえ』と同義になるだろうか……。もし良ければ、君が、俺が君を好きかもしれないと思った根拠を教えてくれないか」

 ヘルメスに対する俺の感情がおかしいなら、彼に対するものもおかしいことになる。そのおかしさが、特別な思いであることはもう間違いがない。
 俺はすぐそこにいるブルータスよりも、常にヘルメスを描きたいし、触れたい。ブルータスも嫌いではないけれど、くちづけたいなんて思ったことはない。

 「どうして、ヘルメスの話をしたのかも教えて。俺、ヘルメスとはキスをするけど、ほかの石膏とはしないんだ。そこまでの、なんだろう……その、特別な思いはないから。でも、君とはキスをしたんだ」

 やめろよ。
 弱々しい、なんてものじゃない、涙声だった。こぼれる涙は見えなかったが、今にも泣きそうな湿った声だった。震える背中と、一向に上がらない顔。
俺は、現在進行形目の前の彼を傷付けている。
 どうしたらいいんだろう。
 俺は彼を振りたくないと思っている。しかし、彼が好きなのかと言われると、そうだとは頷くことはできない。

 「変に期待させんなよ。オレが今した覚悟が、また、ダメになる。……っオレのせいだけどさ!!」

 握った拳に更に力が入った。ぎりぎり、と硬い爪が肉に食いこむ音が聞こえてくるようだ。暖かく、わずかに湿っていて、皮の厚い手のひらを俺は知っている。その手のひらが、痛いのは嫌だ。

 「君の求めてる答えとは少し、いや、結構違うのかもしれない! でも、これは同情でもなんでもないし、とにかく俺は、君にそんな声出されるのも、痛い思いをされるのも嫌だって思ってる」

 俺は彼の手に自分の手を重ねた。彼の右手を開かさせて、次は左手を開かせる。親指から順に無理やり、とはいえあっさりと1本ずつ伸ばす。

 「……きみがオレを描くときにヘルメスへ向ける目と同じ目をしていた。きみは、オレがヘルメスとキスをしている時に、困っているのか怒っているのか不思議な顔をしていて、しかも、見ないようにって目を逸らそうとするくせに、すぐに覗き見してるみたいにちらっと見てるんだ。オレのポジティブ脳みそはさ、それを『もしかしてやきもちかな』とか思っちゃってさ……。オレは、ヘルメスにやきもち焼くよ、きみとキスしてきみの視線独り占めして」

 俺の顔なんて、俺には見えないのだから反論のしようもないのだが、そもそも全て無意識なのだ。彼がさっき言ったとおり、彼は俺よりも俺を見ていた。ならば、俺はきっと、そういう顔をしていたんだ。どんな顔だか分からないが、間抜けな顔に違いない。
 目を逸らそうとしたけど、できなかったのは事実だ。不思議と惹かれるものがあったのだ。逃れようがない魅力があったのだ。バレていたんだな……。
 彼は両の手のひらをぴたりと重ね合わせていた。俺の手の介入を拒まれたように感じたのは、考えすぎなのかもしれないが、なんだか少しショックを受けた。

 「君とは違うものなのかもしれないけど、俺が君を好きなことはたぶん、勘違いじゃない」
 「ヘルメスとどっちが好きか言って」
 「へ? ヘルメスと君は全然違う、ヘルメスとキスしてもこんなに恥ずかしくならないし、彼にかわいいなんて思わない。ヘルメスを描いてる時は、すごく落ち着くけど、君を描いてる時は真逆だ。ずっと照れくさい。どきどきしてるんだ」

 彼も照れているようだが、俺も十分に恥ずかしかった。頬の内側はとっくのとうに火照りきっている。顔を隠すことも含めて、自分の手のひらで頬を包む。冬場は冷たくて、もはや痛いくらいでこまる冷え性がこんなところで役立つとは。

 「なんか言ってくれよ」

 彼は黙ったままだ。ただし、赤い顔は上げてくれた。
じっと俺を見ている。彼の目線は、いつもまっすぐに目を見てくる。根負けして、そっと視線逸らす。
 ぬるくなってきた手のひらを裏返して、今度は手の甲で頬を冷やす。気休めとはいえ、気持ちよかった。

 「きみだけずるいな」
 「え、何が?」
 「冷たいってこと、知ってる」

 外側に向けた右の手のひらに彼の手のひらが重ねられた。彼の頬どころか、短い髪のせいで一切隠れることのない耳の端もうなじだって赤くなっているのが見えた。

 「慣れないことはしない方がいい」

 空いた左手を彼に差し出す。彼は俺の手を取って、こっちを見た。いいのか、と聞いているようだった。

 「いいよ」

 俺の手の甲を自分の左頬に触れさせて、わずかにまぶたを落とした。手のひらには彼の右手が重ねられ、俺の腕はまるで宝物か、というくらい丁寧に包み込まれている。

 「つめたい」
 「末端冷え性ぽいから、俺」

 彼の頬と、彼の手に挟まれた俺の手が徐々にあたたかくなっていくのを感じた。
 ふと、彼に触れているんだな、と思った。
 一度、引っ込みかけていたはずの頬の熱がぐん、とまたのぼり始めるのがはっきと分かった。
 挟まれた手、指先がこわばって、突然のむず痒さが手首から先を襲った。指を少し動かすと彼の指にぶつかった。彼の手のひらはあたたかかったが、もうすでに俺の冷たさと混ざって、どことなくぬるい。というか、俺の手もぬるくなっていて、少しでも気を抜くと、どこからどこまで俺の手で彼の手のなのか分からなくなってしまいそうだった。
 指の腹を彼の指先が掠って微かなくすぐったさが痺れとなって伝わってきた。
心臓の音だけが脳の中、体の内側に聞こえてきた。ばくん、ばくん、と脈打っている。心臓って本当にポンプなんだな、なんて考えてしまうくらいに、拍動のたびに 内側から圧迫されている気がした。

 「どうしたの?」
 「な、んでもない」
 「なんでもないって顔じゃないんだけど」

 一体、どんな顔をしているっていうんだろうか。そんな自分が心配になり、俯こうとしたとき、

 「ごめん」

 彼の声が頭で処理されるのよりも速く、俺の視界が真っ暗になった。何にも分からない、ということさえも分かっていないうちに、くちびるに圧がかかった。
 2回目だ。慣れないけれど、初めてではない感触。おかしいけれど、なんだか安心感があって、けれど緊張する。
 そして、無意識に呼吸を止めていた。
 彼の手が離れて、視界が元の明るさを取り戻すと同時に、肺が勢い良く空気を吸い込んだ。おかげで咳き込みかけた。
 「ごめん、なんか、耐えられなかった」
 彼は目を逸らして、自分の顔を片手で覆った。その手が、ついさっき俺の視界を遮ったものだと気付き、もう片方の手に視線を遣ると、しっかりと彼に手を握られたままだった。

 「なあ」

 返事はない。

 「やっぱり」

 彼は何も言わずに、俺を見た。
 少しのタイムラグはあったが、キスされたんだなぁ、としみじみ思えた。
 出たり引っ込んだりと動きの激しい照れだが、彼の2回目のごめん、という言葉を聞いたときに引っ込んでいた。
 今は冷静だ。流されているわけでも何でもない。回転の遅い脳みそをなんとか回して、今までの違和感をまとめてみる。

 「君のこと、俺も好きだ」

 彼が痛い思いをするのは嫌だし、彼を描くとあんなにもどきどきして、キスをするのは、死にそうな程に緊張するけれど、今まで感じたことのない充足があるのだ。
 違和感に名前がついたら、それはもう違和感ではない。
 ゆっくりと、自分が噛み締めるために告げる。
 彼の目の端が潤んだのを、俺はいとおしいと思った。

 「嬉しすぎてどんな顔していいか分かんないな……」
 「俺も、分かんない」

 1分くらいだろうか、ほとんど真顔で見つめ合っていたのは。

 「君は、あれ、ああそうか……」

 そういえば、俺は彼の名前を知らなかった。いや、それだけじゃないんだった。何もかも知らないのだ。そう思うと、少し笑えてきた。そんな俺を見てなのか、彼も苦笑いに近いような表情をした。

 「まずは、君の名前を教えてもらわないと」




(2016/04/19 01:09:11)


prev | top | next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -