05





 「やっぱり、ひとり?」

 何事もなかったように、彼は美術室の扉をくぐった。そして、俺の隣に椅子を並べて腰かけた。今までにない距離の近さだ。いや、腕を掴まれた時の方が近かったか。
 昨日、答えが出せたばかりだったので、内心でセーフと思いながら、ああ、と頷いて見せる。

 「考えた、ちゃんと」

 ぱちくり、と瞬きをひとつ。数秒間、目を丸く開いたままで、ああ、あれか、と彼はジャージのチャックを下ろして前を開けた。

 「で、どんな感じ?」

 身を乗り出すようにして、わくわくしているのが全身から伝わってくるようだ。何を期待されているんだろう。

 「君を描きたい」 
 「うん?」
 「君がどうしてヘルメスにキスをして見せたのかは分からないけど、これからはきちんとドアの外を確認するようにする」
 「へ??」
 「君に触ったのは、描きたかったからなんだ」
 「……えーと、なんかちがくない?」

 期待には応えられなかったみたいだ。
 とはいえ、これが俺なりの答えなのだが。これ以上も以下もない。
 そっか、そっかぁ、と腕を組み俯いた彼。ひとりで呟いた。ぱっと顔を上げて、問う。

 「描きたいものに触るの?」
 「見るだけよりも触った方が、なんとなく現実味湧くし」
 「だから、ヘルメスにキスをする?」
 「……それはどうだろう」

 ヘルメスに口づけることは、描くこと自体に関係はない。モチベーションにはなるけれど。キスをすると、フラストレーションを感じて、それを満たしたいと思う。空腹にちょっとだけ食べると、余計にお腹が空く、みたいな。

 「きみはさ、オレに聞きたいこととかないの?」
 「例えば?」
 「え〜、いろいろあるだろ? なんでヘルメスとキスしたの、とか。いつ見たんだ、とか。気にならないなら別にいいんだけど」

 取り留めのない話、に分類していいと感じたので、止めていた手を動かし始める。 
 今日はブルータスだ。ちょうど俺に背を向けてようとしている、そんな角度だ。
 彼は俺の手元を覗き込んだ。

 「じゃあ。どうしてヘルメスにキスをしたんだ?」
 「きみがするから、どんなもんなんだろうって」
 「で、どうだった?」

 そこは食いつくんだ、と呆れたのかなんなのか、短いため息をついた。

 「冷たかった。あと、ほこりっぽい」
 「俺もそう思うよ、いつも……っていうか、気持ち悪いとかは、ない?」
 「きみはオレとヘルメスのキスを見て、そう思った?」

 彼は質問に質問で返すことが多いような気がする。その自覚があるのだろう。だから、俺に質問はないのか聞いたのかもしれない。

 「……いや、そんなことはなかったけど」

 そもそも、そんなことを彼にさせた原因が俺自身なわけだし、気持ち悪いはずがない。ヘルメスとキスする自分を心底から、気持ち悪いと蔑みながらも続けられるほど、俺には被虐的な趣味はない。客観的にきっと気持ち悪いだろうと思うだけで、主観ではそうは思っていない。だから、懲りずに飽きずにヘルメスに口づける。
 話しながらのデッサンなんて数ヶ月前では考えられなかったな、と頭の片隅でつぶやきながら、ちらっと隣の彼を見る。
 ふうん、と乾燥しているくちびるをぺろ、と舐めた。

 「さっきのさ、オレが描きたいってやつ」
 「ああ、うん」
 「いいよ、嬉しい」
 「本当に!」
 「代わりにヘルメスとキスさせて」

 ああ、構わない、と答えてから、えんぴつが止まった。
 それを了承するのは俺ではなくてヘルメスなのでは。いや、そこじゃないか。

 「え、っと? どういうこと?」
 「そのままの意味だけど。嫌なら、いいよ。言ってみただけ。心配しなくても、オレのことなんて好きなだけ描いていいから」

 むしろ光栄だよ、と笑う彼の動きが大げさで、芝居がかってすらいたけど、嘘をついているということではなさそうだ。

 「いや……俺がどうこうっていうことじゃない。学校のものだし、ただ、びっくりした」
 「そう? まあ、普通じゃないことは確かだよな」
 「君は、嫌いだって言ってた」
 「それはそれ、ってことで。今も、反りは合わないって思ってるよ」

 反りが合わないとは、どういうことなんだろう。ちょっとだけ気になったけれど、彼はもう会話は終わりだというように黙って紙の上に目を向けていたし、俺も既にえんぴつを滑らせていた。
 途中で、この石膏は誰、と聞かれたのでブルータスだと答えた。「お前もか、ブルータスの?」と俺もはじめは思った疑問を口にしていて、思わず笑ってしまった。「きみも笑うんだな」なんて神妙な顔付きでうんうんと頷くものだから、恥ずかしくなって顔を引き締めるはめになった。
 時間がきたので、ブルータスの続きは次に回すことにした。
 ブルータスをふたりで運び、棚に収めたところで、俺はイーゼルを解体しに行こうときびすを返した。そこを後ろから、エプロンの肩紐を引っ張られた。わっ、という間抜けな声を出して振り返る。
 エプロンから手を離した彼が、棚の前にしゃがみこんだ。ちょうど前にいるのはヘルメスだ。
 俺を見ながら、ヘルメスに口づけた。ヘルメスの俯く方向に首を合わせているのに、こっちを向いているので、違和感がある。
 相手は石膏だというのに、ちゅ、という生々しい音がした。その音は小さかったけれど、教室は静かだった。
 無意識に逸らそうとしていた目が彼へ戻される。

 「引き止めて、ごめん」
 「いや……平気」

 ぱっと立ち上がった彼が、背中を軽く押すように叩いた。背中のワイシャツ越しに彼の手の温かさが、本当に一瞬だったが、伝わってきた。

  

 来る度に、彼はヘルメスにキスをした。
 絶対に俺の前で。
 わざとなのかどうかは、分からないけれど、時間が長かったり、数回繰り返したり、と見ているこっちが気恥ずかしいキスをする。
 俺は、ブルータスを終わらせて、短い時間だけでも、彼が来る度に彼を描いた。石膏、石膏、彼、石膏くらいの割合だ。
 段々に、彼から照れが消えていくのがよく分かった。俺も、はじめは少し恥ずかしかったが、すぐに慣れた。
 石膏は、色が一律で、布地すらも同じ素材で出来ていたわけだが、彼は人間で、服も着ていて、そういう異なる素材が混在していることも難しさの一因だった。

 「眉間にしわ」
 「えっ」
 「顔が険しいよ。難しい?」
 「うん、難しい」

 向かい合って座り、俺はスケッチブックを半ば抱えるようにして、彼を描いていた。彼は片足を、もう片足の膝に乗っけていた。長袖のTシャツは原色の緑だった。 背中側の窓から強い夕暮れの光が入っている。
 難しい、と言った俺に嬉しそうに笑う。
 少しづつ、少しづつ、柔らかさが紙上に出てくるようになった。骨を考えて、筋肉を考える。
 俺がこの間、触った背骨があるのは皮膚と筋肉の下なのだ。
 人間は分厚い。そして不透明だ。
 見えない服の下を意識しながら、彼を観察するのには、罪悪感が伴った。覗きでもしているみたいなのだ。彼があまりにも平然と椅子に座っていて、俺に見られていることも描かれていることも全く意に介していないようだから、俺が盗み見ているみたいだった。
 彼が今日は帰るね、途中でごめん、とリュックを背負って、思い出したように俺の手を引いて歩き出す。引っ張られながら、ヘルメスの前まで行って、俺も一緒にしゃがませた。変なひとだ。
 角度を変えて、くちびるに2回、最後に軽く額にキスをして、俺にありがとうと言って出て行った。
 彼が帰って、俺は、自分の手のスケッチをした。フレミング左手の法則をしてみたり、中途半端に指を曲げてみたりといくつかやってみた。
 ふと、彼の指はこんなだったな、と自分のものと比較している自分に気付く。四角く、かつ短く切りそろえられた爪や温かくて厚みのある手のひらを思い浮かべた。
 この間から、彼に触られることが多い。いやきっと、触るなんていう感覚ではないのだ。意識するほどのことでもなくて、気付いてすらいないくらい普通のことなんだろう。
 どうしてかは知らないが、運動部のひとっていうのは、そうな気がする。
 慣れてないから、毎回驚かされる。友達にも、思わず減らしてくれって頼んだことがあるくらいだ。
 スケッチブックをめくって、自分の描いた彼を眺める。遡っていくと、下手になっていく。毎日描くとちがうなぁ、なんて思いながら、乾燥した指先で紙の中の彼に軽く触れる。伸ばした指はささくれが腫れて若干赤い。厚くめくれた皮膚の隙間の赤も、えんぴつでぼんやり黒い。菌でも入ったら、さらに痛くなるのだろう。
 触ってみたい。
 彼からの、なんの意味もない接触は多々ある。その度に彼の温度を感じた。もう何度触れたのか分からない彼の手ならば、克明に思い描けるし、紙上にも現せる気がした。じっくりと見たわけでもないのだから、そんな気がするだけだが。
 彼の首の太さだとか、肩の厚みだとか。
 目に見えるだけではなくて、触れると分かることがある。それは絶対だ。
 結構、引き締まった体をしていることはきっと確かだが、それでも、見た目よりもしっかりした筋肉に覆われているように感じる。運動の種類にもよるのだろうけど、例えば、陸上選手みたいな細くつく筋肉ではなさそうだ。右腕だけが太いわけでもなさそうだから、テニス、バドミントンでもなさそうだ。脚が見れれば、もう少し分かるかもしれない。
 なんだか急に恥ずかしくなってきた。頬が熱くなってくる。
 何を考えてるんだ、俺は。
 スケッチブックを半分ほど丸めて、両方の頬に当たるようにする。一瞬冷たかった。すぐにぬるくなる。
 こういう時の自分の手だ。スケッチブックは膝に置いて、両手で顔を包む。
 手のひらをひっくり返して手の甲で冷やして、石膏の収められた棚を見た。
ほんの出来心だ。そもそも俺の日常の中にあったわけで、彼は関係ないんだ。だって、はじめは俺がやっていたことだ。
 言い訳しながら、立ち上がる。
 俺は、わざわざヘルメスを机の上に出していたけれど、彼は棚に収まったヘルメスに口づけていた。
 ヘルメスの前にしゃがむ。薄暗いし、すぐ隣にはマルスがいた。こそこそと隠れているようなものだ。机の上でするよりも、悪いことをしているみたいだった。
 首だけでドアを確認した。今日はきちんと閉まっている。彼が珍しく閉めて出て行ったからだ。
 途切れた腕の断面に右の手のひらをぴたりと合わせて、そこから腕、肩をゆっくりと撫でて、首筋を登り、頬へたどり着く。左手は、ヘルメスの後頭部に。くるくると短く巻きのある髪の毛はどの指にも引っかかった。
 しゃがんだ状態で、さらに首を捻るのはなかなかきつくて、片方の膝をつき、潜り込むようした。俺よりも背の高い彼が額に口づけたことに納得だ。
 この虹彩は何色だったんだろうか。青だろうか、灰だったのだろうか。それとも、案外同じような暗い茶色だったのかもしれない。目だけを見ると、あまりにも無感情で、まさに無機物然としていた。
 俺以外のひとだって、ただの型取られたセメントにキスをしているんだと思うと、少しおかしかった。なんて馬鹿なことをするひとがいるんだ。まさか俺以外にもそんなことをするひとがいるなんて。
 ただの石なのに。
 いつも通りに、それでも久しぶりにヘルメスに口づけた。冷たくて硬い、懐かしい感触だ。
 これまた出来心で、ヘルメスからくちびるを離す時に、ちゅ、と音を立ててみる。
 …………あー、これは、かなり恥ずかしい。
 ばっと勢いよくドアを見てしまった。そして、同じ勢いで俯く。ヘルメスから目を逸らしたかった。
 さっきから、顔が熱くなってばかりだ。恥ずかしさを通り過ぎて、ちょっと楽しい気持ちになっていた。無意識に顔がにやける。
 もう一度、今度こそいつも通りのくちびるで触れるだけの、指で触るのと何も変わらないようなキスをした。外したくちびるを、ヘルメスの後頭部に回していた左手でなぞる。荒れてて、がさがさしている。気付かぬ間に切ったのか、ぴりっとまだくっつききっていない薄い皮がもう一度裂けたのが分かった。指先に血がつく。そのまま指で押し込むようにした。
 彼は、なにを思ってヘルメスにキスをするのだろうか。俺だって、感触以外に思うことはないのだから、彼がなにかを考えていると思うのは、間違っているのかもしれない。彼も、ほこりっぽいな、と思っているだけに違いないのだ。
 彼も、ここに触れたのか。
 右の親指で、ヘルメスのくちびるを端から端へ辿る。癖のひとつだった。
ふう、と息をつく。目を閉じて、足元に流れる冷気がじわじわと足から登ってくるのを感じた。
 まぶたの裏で、俺の手を引いてしゃがんだ彼が、俺の手を離さないでヘルメスにキスをした。手から熱が伝わってきて、そこに気を取られていると、いつの間にか俺の顔を覗き込んだ彼が「ごめんね、ありがとう」と俺を持ち上げるように繋がった片腕で立ち上がらせる。
 目を開けて、床を見る。俺の手は、何も握っていなければ、ただ冷気の中に放り出されているだけだ。
 彼がまたキスをする。さっきもしていた。そんな場所に、俺も触れる。普通に、客観的に考えて、おかしいことだ。 
 彼のくちびるは俺よりも温かいんだろうか。だとしたら、温度差で、彼にはもっと冷たく感じたのではないだろうか。俺よりも。
 もう一度、口づけたいと感じた。
 我慢して、くちびるを舐める。裂けたところが少し沁みた。
 明後日の部活に、彼は来るだろうか。最近は、毎日のように来てくれているが、少し前はまちまちだったし、彼にも予定があるはずだ。それを、俺が描かせてほしいなんて、頼んだから無理させているのかもしれない。
 顔の火照りは治まったが、ヘルメスに口づけたい気持ちはまだくすぶっている。もう数回したのに、まだしたい、なんてことは今までなかった。しかも、描きたい欲求が伴っているわけではない。
 おかしい。小さな違和感が心の隅にあった。


(2016/03/26 11:00:41)


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