透明のうろこはかたくてもろい







 「どうしてうろこが生えてるのに、陸上部にいるの?」

 我ながらおかしな質問だと思った。
 今までほとんど話したこともないような、クラスも違えば種目も違う男子にしていい質問ではなかった。確実に変なやつ認定されてしまっただろうなぁ。
 質問された側である彼はジャージのジッパーを一番上まで締めて、ぎゅっと強く目をつむった。
 わたしは答えを待っていた。

 「さかなにプールは毒だから」

 ふうん、とこぼれたわたしの声は興味なんてなさそうだった。けれど、それは表面だけ。とてもとても興味があった。しかし、深く追求しようにも、どこを掘り下げていいか分からなかった。それだけだ。
 彼はそれきり何も言わずに、わたしを一瞥して先輩のもとへ駆けていってしまった。


 うろこが生えている生物は魚だけではない。
 その思考に至ったのは、部活から帰る途中のことだった。坂道を無抵抗に自転車の走るままの速度で走らせていた。強い空気抵抗が、髪とスカートを痛いほどにバサバサと鳴らせていた。わたしのハンドルを握る手は、ブレーキにそっと指をかけるだけで斜面には一切、抵抗していないのに、空気がぶつかり、わたしの体は意思に反して勝手に抵抗を受けていたのだ。そんなことを考えつつ、視線の先には青い海があった。まだ、昼間だからきらきらと高い日の光を反射していた。ぐしゃぐしゃに丸めたアルミホイルを引き伸ばして、上から青いセロハンを通した光が当たっているような、どこか硬質さを持っていた。
 道路の脇にコンクリートで建てられた壁は、坂の上からでもないと海を見せてくれない。もちろん、コンクリートの終わるところからは砂浜に入るこができたし、海を見ることもかなうけれど。こんなにも広い海が見えるのは、やはりコンクリートの壁などよりもはるかに高い場所からだけだろう。
 海を見て、彼はどんな魚かと思った。そして、うろこのない魚が思い浮かんだ頃、思考の端にとかげとかへびとか、いわゆる爬虫類が出てきたのだ。
 とはいえ、私は「うろこ」としか言っておらず、彼が自ら「さかな」という表現を使ったのだ。爬虫類のことなんて考えても無駄である。
 彼のうろこは硬そうで、透明で、光に当たると緑にも青にも、赤にも紫、黄色にも見えた。それらが混じりあって、グラデーションを見せていた。はっきりとひとつの色を示していることはなかった。虹色、と呼んでもおかしくはないのかもしれない。虹だって所詮は水滴の集合で、そこに色を付けているのは光と、その水自身だ。そして、その水は透明。彼のうろこも、ガラスみたいに透明で、光によって色が変わるのだから、虹色と呼んで差し支えはないだろう。
 個人的に、にじいろ、よりもとうめい、の方が彼に近い色名だと思うので、「とうめいのうろこ」と呼ぶことにした。
 見慣れたうろこだったのだ、彼のうろこは。鯛のうろことそっくりだ。円に近いけれど、六角形との五角形ともとれない、すこしだけ角ばった形で、ガラスのように全面が透き通るわけでなく、生物的な筋が見て取れるのだ。だから、透明でありつつも若干白く濁っているとも言える。
 全く接点のない彼のうろこについてどうして、そんなことを知っているのか。どうして彼の体にうろこが生えていることを知っているのか。いや、そもそも、うろこが生えているとはどういうことなのか。
 改めて客観的に考えてみると、どうしたってわたしが妄想癖のある、思春期特有の病気とも取れない精神的な何かに冒されていると思うのが妥当なところだ。いわゆる、(広義での)厨二病だと思われるだろう。
 しかし、わたしにとっては残念なことにまごうことなき事実なのだ。
 わたしの心がおかしくないとすれば、次におかしい可能性があるのは目に関する方だろう。ひいては、脳かもしれないが。
 なにはともあれ、わたしの主張は首尾一貫して「彼には透明なうろこが生えている」である。
 彼の背中にびっしり、と薄いうろこが生えている。硬そうではあったが、同時に薄く、ぐっと両方の端から負荷をかけたら、割れてしまうだろう。そんなようなうろこが。
 初めてそれを見たのは、2週間くらい前のことであった。
 わたしも彼も陸上部で、高校一年生で、入部して1ヶ月も経たない。前述した通り、彼とは接点がない。同じ部活なのだから、という言葉は、ひとの言う人見知りのわたしには当てはまらない。そもそも、口数の多い方ではないと自覚している。知らない人と、きっかけもなく話をすることはない。付け加えるならば、飛び抜けて無口であるわけでも、友達がいないわけでもない、ということは言っておきたい。
 彼の名前と顔くらいはさすがに一致するし、種目も知っている。一緒にトレーニングだってしている。けれど、話したことはなかった。
 その日は、今日と同じく土曜日で、午前中しか練習がなかった。気温も高く、日差しも強かった。まだ、春のはずの暦を疑いたくなるような暑い日だった。ただ、雲の流れがはやく、日が出たり陰ったり、を繰り返していて、日が陰れば、そこそこ涼しかった。
 運動部なんて、どこもそうだろうけれど、男子は暑ければ脱ぐのである。ほとんどの男子が、どうせ練習も終わりで、あとは着替えるだけだからといって、汗でびしょびしょのTシャツを脱いでいたのだ。そこに先輩の粋な計らいで、ホースから水が放たれた。
 みんなで逃げ回りながら、騒いで、頭から水をかぶってびしょびしょどころではなくなった。
 そこで、ふと、彼が目に入ったのだ。ちょうど、雲が切れて、眩しいほどの日差しに思わず目を細めた時だった。彼も、ぎゅっと目をつむったのを見た。目は合わなかった。彼もわたしもいつの間にかすぐ近くまで迫ってきていたホースから逃げるために背を向けて走り出した。
 その背がきらきらと光っていたのだ。
 どこかで見たことのある光り方だった。海とも宝石とも違う、タイルのように正確な並びで、角度を変えると、変えた端から、光り方が伝播していくのだ。
 あ、うろこだ。
 と、思った時には、放水は止められて、日は陰っていた。そして、彼は、苦い顔しながら、水分を絞ったTシャツを着ていた。周りの友達に、笑われていた。わたしも、同じ種目の先輩に「風邪引く前に着替えよう」なんて声をかけられて、更衣室に引き上げた。
 そして、今日まで機会を窺ってきたのだ。
 彼にうろこが生えていることが事実になった。わたしは、それだけでは満足しなかった。次から次へと、なんかしらの欲求がぽこぽこと湧いてきたのだ。
 彼のうろこに触りたい。うろこを間近で見たい。彼が泳ぐと速いのか知りたい。
 坂道でついた勢いをそのまま、漕ぐ必要のないペダルに足をただ乗せて、たまに無駄に後ろ向きに回してみたりしながら、平らな道路を進む。横を走っていく車は大げさに避けたり、短くクラクションを鳴らした。鳴らされたところで歩道はないのだし、わたしはきちんと自転車用の白いラインの中を走っているのだ。これ以上、どうしようもないのである。
 車道のすぐ横はコンクリートの壁だ。
 この向こうに海があった。


 「なあ、」
 「うわぁっ?!」

 突然、声をかけられた。とん、と肩を叩かれて、それに驚いたのだ。思わず大きな声を上げてしまった。びくり、と体をこわばらせて、一歩後ずさったのは、彼だった。

 「ごめんね、ちょっとびっくりして」
 「いや、こっちこそ。本読んでるところに、ごめん」

 教室でぼうっと、友達に借りた漫画を読んでいたところだった。教室移動がないと、席を立つのも億劫になって、大抵は自席でぼんやりとしていた。友達も同じようなもので、席が遠いので、休み時間は特に話すこともない。その反動なのか、なんなのか、お昼休みや部活前なんかは、ずっとしゃべり通しだけど。

 「この間のことなんだけど」
 「誰にも言わないよ」

 わたしの質問から数日が経っていた。今までと同じように彼と接することは全くなかった。

 「そうしてくれると助かる」

 頷いて、教室から出ていこうとした彼の袖を引っ張って、引き止めた。なんだ? というようにいかにも怪訝に思っている、という表情をしてわたしを見た。

 「いろいろ聞きたい」
 「いろいろ?」
 「例えば、お」
 「ああ! 言わなくていいっ!」

 きっ、と睨み付けられて、間抜けにも口を開いたまま黙った。遅れて、その口を閉じながら、わたしの目線までかがんだ彼のことばに耳を傾けた。わたしにだけ聞こえるように小さくひそめた声で「部活くるだろ? そのときでいい?」と聞いてきた。頷いて応えた。
 じゃあ、あとで。彼は軽く手を振って教室をあとにした。


 随分と日が高くなったもので、部活が終わり、もう七時も過ぎていながら空は夕暮れ色だった。青をベースにしつつ、表面にうっすらとオレンジ色の膜が張られているかのようだった。ちかちかと瞬く星が遠くに見えていた。
 ジャージで帰宅することは、校則でだめと言われているので面倒くさいが、制服に着替える。シトラスの香りがするシートで拭き取ったあとの肌は、さらさらで、どことなく鼻にくるような冷たい香りがした。シトラスというよりはミントの方が近いんじゃないかなあ、と思いつつ、制服の臙脂色のリボンを付けて、更衣室を出た。
駐輪場に向かうと、彼は先にいて、もう自転車を出していた。すぐ出す、と言って自分の自転車を引っ張り出す。

 「どっち?」
 「裏門出て、海沿いずっと」
 「了解」

 これは帰りながら、話してくれるということなのか。しかも、送ってくれるのだろうか。送ってもらうほど暗くもなければ、危なくもないのだけれど。自転車だしね。
 黙って走り出した彼を追いかける。すぐに国道に出た。国道沿いは、歩道がないので自転車用の細い線の内側を縦に並んで走るこになった。彼は何を言うどころか、振り返る気配も見せない。
 車の流れが切れて、浜の入口向かって、進路を曲げた。大人しく、ついて行く。目の粗いコンクリートの階段の上に錆びかけた銀色のママチャリが並んで停められることになった。空はいろだぼんやり暗いオレンジ色だ。
 階段を降りきって、コンクリートと砂浜の境、彼はスニーカーと靴下を脱いだ。
 そこではじめて、彼はわたしを見た。わたしが靴を脱がないことが不思議だったようで、黒い瞳がじっと見ていた。2回ほど、彼の瞬きを見てから、ローファーとハイソックスを脱いだ。

 「海、久しぶりだ」

 靴の中に靴下を突っ込んで、両手にスニーカーを提げた彼が裸足でずんずんと砂浜を進んでいく。波が届かないぎりぎりのところに腰をおろした。隣に座ってみる。

 「久しぶりなの?」
 「ああ、ホームシックになるまで来ないって決めてたから」
 「ふうん……」

 座る場所は間違っていなかったようだ。青いような黒の髪が海風に逆立っていた。わたしの前髪も立っているだろう。そんな強風に目を細めた。

 「もう、ないんだ」

 彼は、半袖シャツのボタンをいくつか外すと、がばり、とシャツを脱いだ。背をわたしに向けて、自分の背中を指さした。

 「本当だ……ない」

 びっしりと背中を覆っていたはずの透明なうろこは消えていた。半袖焼けした背中は白かった。いや、腕が焼けているだけで、肌が特別白いわけではない。
 思わず、その背中に手が伸びてしまった。背中の中央、肩甲骨の間に触れた。

 「うろこは生えないの?」
 「生えるよ。戻ればね」

 どこに、と聞く前に、彼が「海に」と答えた。
 わたしは腕をおろし、彼が前を向いた。

 「一瞬だからって気を抜くんじゃなかったな」

 すぐにあの日のことを言っているのだと分かった。男子はみんな脱いでいたし、そんな中ひとり脱いでいなかったら、変に思われていただろう。強制はされないにしても、なにか理由があるのか、と思われるのも嫌だったのだろう。(実際、理由があったわけだが)

 「たぶん、誰も見てなかったから平気じゃない?」
 「今なら、いくらでも脱げるんだけど」
 「脱がなくていいよ」
 「はは、冗談。で、なにが聞きたい?」

 なに、と言われると、なんだっけ、である。
 なんでも聞いていいよ、と付け加える彼は、優しく微笑んでいた。青でも紫でもオレンジでもない空の色を写つつも、海は、磨き切られていない金属のように硬質に光を返していた。

 「泳ぐと速い?」
 「え、この姿で? うーん、本気で泳いだことはないから、分かんないな。プールはじまるまで待って」
 「プール入るの?」

 プールは毒だ、と言ったのに。
 さかななら、塩素の入ったプールの水は確かに毒なんだろう。水槽用の水は塩素抜きを入れたりするから、彼にも毒になるはずだと思っていたのに。

 「今はひとだし。というか、ひとにだって、塩素は決して無害じゃないだろ? プールの水飲み込んだら不味いのは共通」
 「たしかに。じゃあ、前も肺呼吸してたの? エラ?」
 「エラ。でも、肺呼吸もできるんだ。これが大変だったんだよ!! すごい苦しいんだ」

 目を大きく開けて、語気を荒くした。すぐに恥ずかしそうに、俯いたが、ごほ、と小さな咳払いをひとつして、何事もなかったように話を続けた。わたしにはどういうことか全く検討もつかなかったので、とりあえず、頷いて見せた。

 「肺から、水抜くのが痛い。喉から水を吐くんだぜ?」
 「それで息ができるの?」

 魚がどうやって海水にとけた酸素を体内に取り込むのはよく分からないが、(水中にあっても、血液の中の赤血球が「酸化」するのだろうか?)エラ呼吸も、肺呼吸もできるというのは、とてもすごいことなのではないのだろうか。

 「水が抜け切るまではできない。乾燥で肌もぴりぴりしてたし、陸に上がってすぐは、しんどいことしかなかった」
 「……話、したかったんだ?」
 「そう、かも」

 部活の時は、黙々と練習メニューをこなしていたように見えたし、先輩に絡まれたって、他の部員に絡まれたって、どことなく一線を画しているような雰囲気があった。無口だとか、笑わないとか、特別に大人っぽいとか、そういうことはなかったけれど、少し冷めているのだろうと思っていた。
 そんなことはなかったようだ。
 語りは、やはり淡々としていて、「冷めている」という印象を裏付けていくばかりだ。しかし、部活の時ほど、表情が乏しくないからだろうか、その顔を見ると普通の高校生だった。訳のわからないどうでもいいことに、全力で笑ったり、バカみたいに力を注いでしまったりしている、うちの教室にいる男子とどこも変わらない。

 「水の中と空気中って、含んでる酸素の量って違わないっけ」
 「違うよ、全然。びっくりした」

 あまりにも多くて。
 調べたんだけど、と続けた彼。

 「海水に含まれる酸素の割合は0.004パーセント。空気中は21パーセント。空気中と水中じゃあ簡単に比較はできないかもしれないんだけど。ざっと50000倍」
 「ごまん……酸素に酔いそう」
 「それ! 酸素って吸い過ぎると死ぬよ、ほんと」

 やけに実感がこもっている。酸素で死にそうになったのだろうか。というか、酸素の吸い過ぎってなんだろうか。酸素がないと、死ぬし、勝手に体は必要な分しか吸ってくれない。
 酸素も毒になるよ、ぽつりと言った。

 「さかなって、海中の酸素の80パーセント使えるらしい。で、ひとは、20パーだって。ただでさえ酸素多いのに、こちとらひとの4倍も酸素摂っちゃって……。もう平気なんだけどね、きちんと呼吸切り変わったから」
 数字が頭の中を回る。数学は嫌いじゃない。生物も嫌いじゃない。
 けれど、彼の声が、なんだか眠気を誘う。あと、波の音かもしれない。部活の疲れもきっとある。
 もしかして寝てる?
 彼が顔を覗き込んだ。首をぶんぶんと横に振る。

 「切り替わったって」
 「エラ、やっと、塞がったんだ」

 首を横に傾げて、わたしに向けて首筋を顕にした。耳の後ろから、首の真ん中くらいまでに細い傷跡のようなものが走っていた。
声が嬉しそうだ。

 「いつ陸に上がったの?」
 「春」
 「今年の?」
 「ああ。だから、俺、同中とかいない」

 よく分からないけど、彼は海の中にいたさかなで、最近陸上がってきて、ひとになったらしい。
 さかながひとになるのは大変で、色々あったみたいで、彼はそれを誰かに話せるのが嬉しいらしい。
 空がオレンジから紺色になったあたりで、彼が勢い良く立ち上がって、帰ろう、と言った。

 「遅くなるといけない」
 「もう少し話が聞きたかった」
 「俺もまだまだ言いたいことあるから、また話そう」

 靴下は履かずに、裸足をローファーに突っ込んだ。彼の真似だ。落としきれていなかった砂が時々、ちくりと刺したが、自転車だ、気にすることはない。


 部活の帰りに浜辺で話す。
 これが日常に組み込まれた。
 それ以外は何も変わらない、ハズだ。部活ではやっぱり話さないし、そもそもクラスは違う。廊下で目が合ったら挨拶はするけど。
 今日も、海にやってきた。

 「来週からプールだよ」
 「お、やっと質問に答えられるな」
 「めちゃくちゃ速いに1票」

 どうだろうな、と曖昧に笑った。
 夏はもう来ていた。短い梅雨だった。あっという間に暑い。坂を下っている時以外、ずっと暑い。
 彼は、暑さは平気なのだろうか。きっと熱帯魚ではなかったに違いない。

 「暑いね」

 少しどきっとした。考えが読まれたみたいだった。
 もちろん、そんなことはない。誰だって、息をするように暑いとこぼす季節だ。

 「うん、暑い。水筒まだ残ってたかな」

 脇に置いたかばんを漁る。教科書たちに下敷きにされていた水筒を引っ張りあげると、軽い。ちゃぽん、とも言わないあたり空だろう。

 「いる?」

 ウーロン茶のペットボトルが横からぬっと現れた。

 「あ、これ、飲みかけだ」

 受け取りかけてた手が動かせない。
 私はペットボトルの底をつかみ、彼はキャップの近くを握っている。
 ぴたり、と止まる。
 妙な空気が流れて、それとは別に、ただの暑さで首筋からシャツの中に汗が流れ込んでくすぐったい。

 「気に、しないけど」
 「俺も」

 彼が手を離した。ずん、とペットボトルの重さが手にかかった。その手が先に引っ込んだ。
 わたしはペットボトルのフタを開けて、ひとくち飲む。半分くらい残っていて、気持ちとしては一気飲みしたかったが、流石に申し訳ない。

 「あげる」
 「いいよ、悪いし」
 「今見たら、もう1本あった。こっちも飲みかけだったけど」

 リュックから別の銘柄のウーロン茶を出して、こっちへ見せた。確かにそれも、半分くらいしかない。
 ウーロン茶が好きなのだろうか。
 彼は、それをごくごくと喉を鳴らして飲み干した。減っていくペットボトルの中の液体。夕日が映り込んで、不思議な色をしていた。ペットボトルを上へ上へ傾けて、伸びる首筋と、顕わになる傷跡。

 「海に帰ったら、そこがエラになるんだよね?」
 「ああ、そうだよ」

 横目に私を見る。
 彼はどうして陸へ上がってきたのだろう。

 「そういえば、タイム上がったって」
 「嬉しいよな、結果出るのって」
 「うん」

 朝練もして、部活もひとりだけコーチにメニュー厳しくしてもらったりして、居残り練習もしていた。流れで付き合ったこともある。えげつないメニューをこなしていて、話しているとオフの日も帰ってからも走っていて、何になりたいのだろうか、という感じだった。
 わたしが部活に無気力なわけではなく、彼がおかしいほどに走っているのだ。
 動いていないと死ぬのかな。マグロだったのかも。
 我ながらいいところに気付いたのではないのだろうか。

 「泳ぎたい」
 「海で?」
 「ううん、プールで」

 彼のさかなからひとになるまでの過程の話は一通り終わったらしい。わたしが質問すれば、答えてはくれるが、自分から話したかったことはもう尽きてしまったようだ。

 「背泳ぎとかする?」
 「実は、クロールもしたことないんだ」
 「もしかして、泳いだことない?」
 「自信はあるけど」
 「そりゃそうだ」

 ウーロン茶好きなの、と聞くと、微妙と返ってきた。ピンとくる。学校の自動販売機で一番安いから、と聞くと、うん、と返ってきた。どうしてか、うちの学校には違うメーカーのウーロン茶が三種類ある。値段は三つとも最安値だ。
 長い日がようやっと沈んで、彼が腰をあげる。
 一番星は見えなくなっていく太陽の上にあった。


 芸術鑑賞だかなんだかで、街まで出されていた。大きなホールに三学年全員を押し込んで、ホールの中が暗くなると、隣も前も爆睡していた。
 演劇だった。プロがやっているのだし、もちろん面白くて、わたしは寝てはいなかった。ただ、ずっと座りっぱなしで、ある意味疲れてはいた。
 なんとはなしに後ろへ視線をやる。隣のクラスの担任と目が合った。急いで目をそらしつつ、もう少しあちこちを見てみた。
 わたしはクラスの中で最後列で、この列から後ろは別のクラスだ。どこのクラスだったかな、と思ったら、真後ろに彼がいた。ずいぶん近くにいたものだ。
 段々になっている座席のおかげで、斜め上を見るようにした。
 彼は起きていたが、少し顔色が悪く見えた。暗いからだろうか。いや、顔色ではないのだ。表情とか雰囲気とかが、具合が悪そうに見せていた。
 こっちに気付いて、彼はそっと正面の舞台を指さした。きちんと見ろ、ということだろう。頷いて応え、正面ではあるが、遠い舞台を見る。こんなところまではっきりと声が届くのだから、役者というのはすごいものだ。
 一部が終わって束の間の休み時間になった。生徒はわらわらとトイレだとか、お茶を飲みにだとかで席を立っていく。
 わたしは、後ろを振り返って彼を見た。明るくなったホールの中で、彼の顔は本当に青白かった。
わたしが見ていることにも気が付かないのか、赤い布が張られた座席には深く腰掛け、未だにまっすぐ舞台を見ている。舞台には幕が降りているというのに。
 首に絆創膏が貼られていた。斜めに。
 それは、かつてエラのあった場所だ。絆創膏からはみ出るように上下に赤い筋が伸びている。
 これと彼の具合が悪いのは、関係がある。そう思った。

 「ちょっと来て」
 「……え?」

 人が減っていたおかげで、列の真ん中からも簡単に抜け出せることができた。幸い、彼の周りも空席だらけですぐ隣に行くことが出来た。
 腕を差し出す。取ってはくれなかったけれど、頷いて立ち上がった。それ、くび、と言うと、気まずそうに目をそらした。
 ホールを出て、外のベンチもトイレの周りも人が沢山いた。どこか人のいないところを、と非常階段へとそっと進む。
 階段にはもちろん誰もいなくて、ばち、ばちと鳴る電気がいつ消えてもおかしくなさそうだった。

 「元気?」
 「げんき」
 「嘘つかない」
 「うーん、実は、昨日、海に入った」
 「呼吸してないのって、それが原因?」

 彼はあまり、鼻で息をしない。本当は口で呼吸するのは菌が入るとかなんとかで体によくはないらしいけれど、彼はとにかく、呼吸をする時は、少し口を開けている。自分でも、喉が乾く、と話していた。
 さっきから、彼の口はぴたりと閉じていた。

 「酸素の毒にやられてるんだ?」

 わたしが言うと驚いたように目を丸くした。なんで、と口がぱくぱくと動く。

 「調べたんだよ、ちょちょいっとね。どうしたら、呼吸できる。深呼吸する?」
 「……走れば」
 「へ?」
 「体が酸素を求めるようにすれば、いいと思う」

 だから、走っていたんだ。ひっきりなしに。
 ぽん、と手を打ちたい気分だったが、それはとりあえず置いておく。
 気持ち悪いのか、だるいのか。ふらふらしていた彼は、階段に座り込んだ。隣に並んで、座る。
手を頬に伸ばして、こっちを向かせる。
 右手で、鼻をつかみ、左手で、くちびるを摘んだ。
 急に何を、と言いたそうな表情は一瞬で、すぐにされるがままになった。
 そんな姿勢で十分は経っただろか。
 先生の二部が始まるから戻れ、という声を遠くに聞いてから随分経った。後で確実に怒られる。

 「長いね、息」

 困ったように首を傾げる。未だに苦しくないとは、ちょっと生き物としてまずくないか。くじらか、という話だ。
 ちょうど目に入った彼の腕時計を見たら、さらに五分経っていて、やっと苦しそうな顔をし始めた。
 眉が寄り、眉間にしわができる。目が細められ、鋭い目付きになる。だらり、と下がっていた手が拳を握る。
 痛くない程度に摘んでいたくちびるの端からから、ふっ、という息がこぼれた。
 もうちょっとかな、勘を根拠にわたしは待つ。
 彼の両腕が交差されて、バツを作った。
 ギブ、ということか。
ぱっと手を離すと、大きく肩で息をつき始める。吸って吐いて、吸って吐いて。隣のわたしにもよく聞こえるほどの大きな音を立てて、彼は息をした。

 「応急処置になったと思う?」
 「……たぶん」
 「酸素酔い、したのは、エラが開いた、から?」

 頷く。そっか、と返す。
 酸素は酸性だ。酸性と言ったら、塩酸とかが代表的だろうか。金属もタンパク質も溶かす。そんなものを私たちは毎日吸っているわけで、濃度の高い酸素を吸い続けると死に至るとか、なんとか。
酸素は、呼吸に必要不可欠で、だからずっと吸ってると、体が呼吸サボり出したりするとか。呼吸をサボると、体の中に排出されなくなった二酸化炭素が溜まっていき、呼吸の神経がマヒしたりなんだったり。
 文明文化に感謝だ。本当かどうかは知らないが、ぼんやりアウトラインくらいであれば速攻検索、情報ゲット社会である。
 きっと、彼は呼吸をサボったのだ。
 開いたエラはひとの体には必要ないほどの酸素を取り入れてしまって、酸素の毒が体を巡り、同時に不必要な酸素を吸わなくなって呼吸が減っていった。だから彼は、ずっと口を閉じていた。

 「海入ると、さかなになるんだ?」
 「まあ、そんな感じ」
 「ホームシック?」
 「落としもの探し」
 「そっかぁ」

 酸素が増えたっていうか、ちょっとさかな寄りに戻ってしまった、と心底からの「やっちまった」という顔で彼は言った。

 「後で、怒られるね」
 「だな、やだな」
 「私もやだよ」

 今日って自転車? と聞いてきたので、そうだと言うと、彼は私の腕を引っ張って立ち上がった。
 
 「海いこう、うみ」

 いいよ、という返事は聞いてはいなかったように思う。がちゃがちゃに停められた自転車の中からなんとか自分の自転車を取り出すと、彼は「行くぞー」といつもより元気そうにペダルを回し始めた。
 道中はしゃべらず、浜辺について、膝を抱えたところでやっと口が開かれる。

 「俺、海水に頭まですっぽり浸かったらさかなに戻る」
 「うん、海は入れないね」
 「ああ、入れないんだ」
 「友達と遊びに来れないね」

 うん、と寂しそうだった。
 お昼にもならない日差しは、強いどころかまさにわたしたちを刺し殺そうとしているかのように鋭い。汗が湧く湧く。だらだら、と流れ出す。部活がないから、タオルもない。ハンカチでは受け止めきれない量にこのままだと達しそうだ。
 というか、この炎天下、全てが自殺行為にほかならない。

 「喉が乾いた」
 「わたし、お茶持ってるよ」
 「いいの?」
 「いいよ」

 この間もらったし、と水筒を差し出す。
 まるで交換、というようにタオルが差し出された。彼がいつも部活では使っている水色のタオルだ。
 どうしろと。
 じっと見ると、タオルを広げて、わたしの頭に乗せた。狭いながらの日陰である。

 「これは」
 「熱中症になるから」
 「わたしよりも、」
 「平気。ひとまず呼吸戻ったし」

 なにが平気なんだ。訳分からん。
 彼が水筒にくちをつけ、ひとくち飲んで、わたしに返して、そこからずっと沈黙。
 波と、コンクリートの壁の向こうの車の音だけがした。平日の真っ昼間から海辺を歩く人なんていない。遊泳できるエリアでもないし。

 「さっきのやって欲しい、また」
 「さっきのって」
 「息させないやつ」

 呼吸戻ったって今さっき言ったくせに。

 「俺、別に走るの好きじゃなくて、あ、タイム上がるのは嬉しいけど、とにかく走ったことはないから、やってみたかっただけだったんだ。思えば、泳ぐことだってはじめてだったし、なんでも良かった。でも、動いてないと、すぐ呼吸止まるんだ。気をつけろ、意識しろって言われるんだけど、今まで呼吸を意識したことなんてないし。勝手にするもんだろ?」
 「うん」
 「だから、ずっと動いて、体を息切れさせておけば、呼吸するかなって。今日は、3時間くらい座りっぱなしで、ぼうっとしてたら呼吸してなくて……あと、エラ開いて使える酸素量増えててっていうダブルパンチだった」
 「うん」
 「そこをさ、無理やりどうにかしてくれただろ。なんか、その手があったかって感じで、感心した」

 うん、以外の言葉が出てこないし、それ以外は求められていないように思った。
 実は彼はものすごく、おしゃべりで、自分のことを話すのは嫌いではない。聞かれないと話すきっかけがないのか、内容を思いつかないのか、自分から話をすることは得意ではないようだが、聞くとめいいっぱい答えてくれる。
 そんな彼が自分からめいいっぱい話した。とても、言いたかったのだろうか。言いたくて言いたくてたまらないことだったのだろうか。

 「こんな話できるひと、他にいなくて、いつもこんな話してごめんな。つまんなくない?」
 「最初に興味もったの、わたしだよ」

 そうだっけ、と頬をかく姿はわざとらしい。
 うろこをうっかり見てしまったのは、本当に偶然だけど、そこに興味持って、いろいろ聞き出したのはわたしだ。最終的には、おしゃべりな彼との需要と供給が一致した。
 彼の頬が赤いのは、暑いからだろうか。タオルの下からちらっと窺う。目は合わない。

 「応急処置ありがとう」

 はじめて見る、満面の笑み。
 ひまわりみたいだなぁ、なんて陳腐な表現しか出てこないけれど、陳腐ということはみんな共通、ということでもある。そして、笑顔の破壊力というものは古今東西の漫画が伝えているものである。男も女もひとは笑顔に弱い。わたしは、ひとであって、つまりは笑顔にも弱いわけである。
 彼のにじいろに光るうろこを見た時とは違う意味で彼が気になっていた。
 さかなである彼ではない。彼自身に、だ。

 「聞きたいことあるんだけど、いい?」
 「答えられることなら」

 彼は、タオルをぺろ、とめくり上げて、覗き込んできた。
 え、あ、うそ。
 けれど、口はもう開いていて、脳みそは口にも舌にも声帯にもゴーサインを出していた。
 視界からの情報に、思考がストップをかけても、もう遅い。

 「うろこの生えていないさかなは、ひとと恋をしてくれる?」

 いやあの未来形なんだけどさ、なんて言い訳にもなりはしないだろう。
 言っちゃっただけで、まだ好きだなんて確固たる形は見せていないのだけれど、きっと、近いうちに実感するのだ。好きだっていう気持ちを。
 見たことないものがちらついている。数歩先にある落とし穴が見えているのに、回れ右はできそうにもない。
 あの穴に落ちる時、どんな音がするんだろう。
 顔が熱い。元から熱いけれど、もっと熱い。
 海に飛び込みたい。
 彼もきっと、海に飛び込みたいに違いない。
 目を逸らす。まっすぐに彼はわたしを見ている。引っ込んだ笑顔がまた、彼の顔に戻ってきていて、けれど、さっきの笑みよりも少し意地悪そうだった。にんまり、と見たことのない表情をした彼が、ひとこと。

 「ひとじゃなくて、きみとなら」


(2016/02/19 00:18:04)
(2017/01/28 02:15:04)


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