04





 『きみには俺がこう見えてるんだな』
 先日の彼の言葉がふと耳の奥に響いた。目の前のヘルメスは当たり前だが何も言わない。教室の前方、教師が授業の際に使う机の前にぽっかりと空いた空間に椅子を置いて、その上にヘルメスを乗せた。ここのところ、斜め下から見上げることが多かったので、少し離れたところから描いてみようと思ったのだ。
 ヘルメスと共に彼を描いて、それは3日かかって一応、完成ということになった。満足しているか、と言われればもちろんそんなことは無かったが、出来上がったら彼に見せる約束だし、彼には見る権利があった。
 そうして、見てもらったわけなのだが、すごい、上手だ、と興奮気味に言ってくれた。美術教師が何も言わないひとなので、何かしらのコメントをもらうのは久しぶりだった。褒められるのは、嬉しい。けれど、これは褒められるに値しない。自分ではそう判断した。
 「ヘルメスに、さわれそうだな」と描かれたものを見て彼は言って、「俺は少し、石膏慣れし過ぎてるのかも」と返した。そして、彼は「きみには俺がこう見えているんだな」とぽつりとこぼした。
 紙上の彼の硬さは、俺だって本意ではない。とにもかくにも、それは実力不足の表れだった。だから、否定したのだが、彼は、声のトーンの割に、沈んだ表情はしていなくて、俺はまたも彼の心情を測りかねるのだった。
 いつものように椅子に腰掛けて、ため息をついた。
 ある程度描いたところで彼がやってきた。何をするでもなく、いつも通りただ、俺が描いている姿を見ているだけだった。今日は、またヘルメスなのか、と笑ってくることはなかった。
 三〇分も経っていないが、全然、集中することができなかった。昨夜、夜更かしをしたことが原因だろうか。図書室で借りた小説を切りのいいところまで読みたかったのだ。
 意味もなく時計の針を見てからえんぴつを置いた。

 「おしまい?」
 「うん、少し疲れた……」
 「集中してるもんな」

 そうかな、と答えながら首をまわす。ぼきぼき、と骨が鳴った。目を閉じて伸びをすると、椅子を引く音が聞こえた。上履きの裏のゴムがかつかつ、とあまり綺麗とは言えないリノリウムの床で音を立てていた。

 「なあ」
 「ん?」

 顔を上げると、彼はヘルメスの前に立っていた。
 視界には向かい合う彼とヘルメスがいた。呼んでおきながら、こっちを見る気配は全くない。
 照明のついていない室内、真剣な横顔に夕陽が影を差していた。
 おもむろに、彼の手はヘルメスの肩にかけられた。この間の構図に似通ったところがあり、さっきまでそんなことを考えていた俺にはぴったりのタイミングだった。下手だと責められているような気さえした。
 椅子の上のヘルメスは、向かい合うにはいささか背が低かったようで、彼の膝が軽く曲げられていた。背骨もぐっと丸められている。
 ちら、とこちらに視線だけを投げた。笑ったように見えた。
 ゆっくりと彼は首を傾げていく。
 動くことのないヘルメスの頬骨のラインと、彼の顎のラインが交わっていった。
俯くヘルメスの向こう側へ。
 Tシャツの襟から首筋がまっすぐ伸びていた。髪の短い彼の耳もうなじもいつだって隠されることなく晒されていた。いつもと違う角度から見た彼の耳は、どうしてか魅力的だった。薄い耳朶から、その縁をなぞってみたいと思った。彼の首筋を辿って、皮膚の下の骨を感じたいと思った。
 見て、触って、そして、描きたい。
 今まで感じたことのない衝動に、どきどきと鼓動が速まる。見てはいけないものを見てしまった、そう思った。けれど、目を離すことはできない。
 どこか背徳的な光景だった。
 ぎゅっと胸元が締め付けられるような感覚がした。俺がヘルメスにくちびるを重ねる寸前、目を閉じず石灰の凹凸の影を捉え、石膏のまとう冷気を頬で、ほこりっぽい匂いを鼻で感じている時。その瞬間の興奮と酷似していた。
 しかし、彼の動きに自分を重ねているわけではなかった。ただ、酷くゆっくりと、まるでコマ送りかと思うほど進みの遅い景色に目を奪われていた。
 彼が体を離す。ヘルメスの肩にあった手が彼自身の顎を捉えた。そして、すぐ上ののくちびるを親指でなぞった。
 その動きをよく知っていた。
 少々つり目気味の目を細め、薄いくちびるは弧を描く。
 音もなく緩慢だった世界のなかで、彼は突然動き出したように見えた。
 ヘルメスに背を向けて、俺のすぐ目の前にまっすぐに立っていた。俺は、見上げるような形となった。彼は、首だけ回して、一度ヘルメスを見た後、俺へ冷たい視線を向けた。
 彼は、その場で片膝をついた。じっと見つめられる。
 眉を寄せ、目をわずかに細めていた。先ほどの妖しいまでの笑みとは異なる表情だ。
苦しそうにさえ見える。
 夕陽は彼の顔に影を作るばかりでなく、眼球を覆う涙の潤いを濃くも暗い炎のような色に照らしていた。睨むような目付きと合わさり、熱っぽくも冷たい視線だった。

 「こっちを向いて」

 言われるまでもなく、彼を見ていた。
 目を離すことなどできなかった。見ているこっちが痛いくらいに真剣な表情をしていたからだ。
 きみと、そう……。声として聞こえないほどの小さな音で、いや、もはや吐息だけでそう言った。
 彼の顔が近い。

 「間接キスだ」

 確かにその通りだと考えながら、彼の奥のヘルメスがぼんやりと視界の隅に存在していることに気がついた。
 彼のしたことに今更ながら、驚き、呆然としていた。自分がどんな間抜け面をしているのかは想像に難くない。
 ほら、と膝の上に置いてあった俺の手を掴んだ。手首に回された彼の指の長さに一瞬、気を引かれた。
 手首を一周して、尚余る。その指は、思っていたよりも細かった。しかし、手のひらはしっかりと厚みがあって「彼らしい手だ」と、なんだか感心してしまった。
 そして、彼はゆっくりと顔の前まで掴んだ手を運んでいった。もう、あと一センチでも近付けば、彼に触れてしまう。もう一度、ほら、と薄く微笑んでみせる。眉をわずかに寄せて、妙に大人びた表情だ。彼の吐息が手の皮膚の上をなぞって消えていった。

 「どうし、て」

 ようやっと出てきたその言葉。途中で、喉の奥がぴたりと張り付き、呼吸を阻害した。どうにかしなくては、と思うのに何をしたらいいのか分からなかった。
 あ、とか、う、とか呻き声みたいなのしか出てこない。言葉にならなかった。
 そもそも、言わなくてはいけないはずの言葉や文字が何ひとつ思いつかなかった。 
 まさに頭の中が真っ白だった。
 彼の茶色い瞳から目を逸らすことは許されていなかった。
 そういう張り詰めた空気がこの場を支配していた。
 どうにかしなければ。この状況をどうにか打開せねば、という危機感、焦燥感はあるのに、その具体的な策は一向に考えつかない。精一杯の思考をしているはずなのに、ようやっと出てきた言葉は「どうしよう」という言葉だけだ。
 こんな静かな焦りを経験したのは初めてだった。
 掴まれているのは左手であり、右手は自由だった。右手を使えばいい。そう思うのだが、鉛筆を握っているせいで、自由が効かなかった。どんな理由だ、と自分のつっこみが聞こえてくるようだ。どこにそんな余裕があったのか知らないけど。
 離せばいいことくらいは分かっている。
 そうは言っても、指が上手く開かない。筋肉をつった時のように動かしたくても動かない、そんなもどかしさがあった。
 そこまで、はっきりと自分の状態が分かるのに、体が動かないのは不思議でしかなかった。掴まれた手首は、決して強く握られているわけではない。振り解こうと思えばすぐにできるはずだ。しかし、できないのだ。

 「彼よりかは柔らかいしあったかいと思うんだ」

 だから、どうして。彼って、誰だ。
 ちらりと少し離れた椅子上のヘルメスを見る。目線で示す。言葉では曖昧にしておきながら、仕草があくまで彼とは「ヘルメス」であると、告げていた。
 そうしなければいけないような気がして、彼の目線の先を追うようにヘルメスに視線を遣る。何度こうやって、彼に続いてヘルメスを見つめただろうか。

 「キスしても、いいよ?」

 すぐに彼の視線が戻された。
 目が合う。
思わず、目を逸らした。
くすり、と吐息で笑っていた。ひどく侮辱されたような気がした。かぁっと頬に熱が上った。

 「君は、なにを」

 ぶつ切りの言葉しか出てこなかった。握った鉛筆の先端が震えていた。いや、震えているのは自分の腕のようだ。
 この震えが怒りからきているのか、恥ずかしさからきているのか、それとも恐怖からだろうか。はたまた、その全てか。
 彼が握った手の力を緩めた。そもそも、そこまで強い力ではなかったのだが、瞬間的にどっと血が流れ出したような気がした。

 「硫酸カルシウムで出来てないから、だめ?」

 なんの話だ。なんでもいいから、手を離して欲しかった。そして、早急にひとりにして欲しくもあった。俺が出ていくんじゃない、彼が出ていくのだ。
 正確にはひとりになりたいわけではなかった。俺とこれら石膏だけにして欲しい。 
 誰もいない、この部屋でヘルメスを描きたい。誰にも邪魔されずに。

 「きみの手は柔らかいな。決して、白くて硬い石膏でなんか構成されてない」

 彼は、俺の腕を掴むのをやめた。代わりに、俺の指に自分の指を絡めた。その手を持ち上げて、しげしげと見ている。面白いものなんて何ひとつないだろうに。紙に擦れたり、描いた部分をぼかしたりと、どこもかしこもがえんぴつの炭素で黒いだけだ。

 「意味が分からないんだけど、結局なにが、」

 なにが言いたいんだ? そう聞くことは躊躇われた。どう返されるのか全く想像がつかない。何がしたくて、こんな行為をしたのか。
 俺が気持ち悪くないのだろうか……?
 その言葉にたどり着いた途端、すうっと体中の熱が引いて、思考がまとまりはじめる。今まで焦っていたのが馬鹿みたいに落ち着いてきた。

 「……見てたのか」

 ゆっくりと目を閉じて、わずかに縦に首を振った。
 真っ先に気が付かなくてはならなかった。見覚えがある行為だと分かっていながら、彼がその行為を模倣できた理由まで思考が至らなかった。ついさっきまでの慌てっぷりから言えば、仕方ないとは思うが、気付いてなかったのに慌てていたのだから、全くおかしな話だ。

 「何がしたいんだよ」
 「……なんでもない、ちょっとふざけただけ。そんなに怒ることないだろ」

 彼はゆっくりと指を広げた。ずるり、と俺の腕が重力に負けて落ちる。指と指の間の薄い皮膚がぴりぴりと熱かった。彼の指が離れたそばから熱くなっていた。この熱の持ち方を俺は知っていた。ヘルメスの頬を撫でたあとの指の腹だとか、くちづけてしまったあとのくちびるだとか。
 その熱は、描きたいという欲求に変わることが多い。そもそも、その欲求がそうさせるのかもしれないから、卵が先か鶏が先か、という話だ。
 彼は、今日はもう帰る、と床に置いたリュックに手を伸ばした。上体を傾かせた拍子に、彼の首筋が照明のもとにあらわになった。ついさっき見えたものが、今は目の前に、手の届く範囲にあった。ぴん、と張った筋と首の付け根に現れた小さくて、穏やかないくつかの隆起。照明が影を作り、薄い皮膚に覆われた骨が丸みを主張した。シャツを脱がせれば、もっと穏やかな骨の丘が規則正しく腰まで続いているのだろう。
 描きたい、と感じた。

 「つめたっ」
 「え、あ……ごめん」

 彼が目を丸くして勢い良く振り返った。その声の大きさに慌てて引っ込めた手が行き場をなくして、気まずい。
 というか、俺はなにをしているんだろうか。ほぼ無意識に触れてしまった。
 描きたい、に触れたいという思いが含まれていた。それは相手が石膏だから、許されていたのだ。
 顔には出ていないと信じているが、内心、とてつもない衝撃を受けていた。

 「なんか付いてた?」

 なんと言えばいいのか、視線をさまよわせた。そうして、俺が答える前に耐えかねたように彼が答えてしまった。

 「違うよね」

 何も返せないでいると、「そうだろ?」と追い討ちを掛けてきた。ひどく冷たい声色だった。下心のようなものを見透かされてしまったみたいだった。
 彼が口を開いたとき、思わずびくり、と肩を跳ねさせてしまった。如何にも後ろめたいことがあるみたいではないか。いや、実際に後ろ暗い思いがあるのだから、間違いではないのだが。

 「もう少し考えてくれると、オレとしては助かるんだけどなぁ。じゃあな、また遊びに来るよ」
 「ああ、うん。じゃあ、また……」

 爽やかと形容するのが一番しっくりくるが、どこか憂いを帯びた、大人っぽい笑みを浮かべて美術室をあとにした。彼がひらひらと振っていた指先だけが扉の向こうに見えていた。いつも、あの指先を見送っていたが、触れたのは今日が初めてだった。
 そして、俺の頭の中にたくさんの疑問が残されてしまったわけである。
 彼がしたことは、今まで俺がしてきたことと寸部の狂いのなく再現されていた。彼は俺がヘルメスにキスをしていたところを見ていたのだろう。いつ、と考えるのは不毛だ。大抵、扉は開けっ放しだったのだから。
たまに美術教師が入ってくることもあった。そういう時は慌てて、ほこりをはたいている振りをして誤魔化してきた。校舎の最上階で端っこ、そうそう誰も来ないだろうとたかを括っていた俺が悪かったのだ。
 考えても、答えなんてものは見えてこなかった。
 見当もつかないのだ。
彼は俺に何を考えろというのだろう。何についてかさえ、分からないのにどうしたらいいのか。
彼が帰った後も、俺はデッサンを続けた。彼のよく分からない言動の中で、混乱していた時、思っていたことは「描きたい」。ただそれだけだったのだから、当然である。
 筆の速さが早いのか遅いのか、客観的なことは知らないが、いつになく乱暴に急ぐようにして描いた。
 溜め込んだものを発散する術は主に、何かを描くことなのだ。ちょうど、形も色も見えはしないが、ただ気持ち悪いと感じるほどに胸の中に渦巻いた、感情を吐き出してしまいたかった。
 無理やり描き上げたヘルメスは見るに堪えないもので、即座にゴミ箱行きだ。
 ゴミ箱から、椅子に戻ってきて、何も乗っていないイーゼルをぼんやり見る。頬が火照って熱い。暖房の弊害だ。足も手も指先は痛いほどに冷えているのに、顔だけが熱い。冷たい指先で、両頬を包む。冷え性が役に立つ時なんて、このくらいしかない。
 これがスランプっていうやつなのか。
暮れていく夕陽をぼんやりと見ながら、俺は途方に暮れた。
  


 それから数日は、石膏を描くことだけではなく、何を描くにも身が入らなかった。
ヘルメス以外にもブルータスなんかも描いたのだが、すぐに飽きてしまった。
 そもそも飽き性であることが原因のひとつなのだが、ひとつの石膏が描き上がるくらいまでは、さすがに飽きないでいられるはずだった。
 描きたい、という思いはむしろ強くなった。
描くことは一度諦めた。
広い教室でひとり数学をやっていたって、世界史をやっていたって、指が疼くほどに描きたくて仕方がなかった。
 シャープペンシルの金属の硬さではなく、冬の冷気を伝導しないえんぴつを握りたくなる。えんぴつをカッターで無心に削りたくなる。芯の軟らかさを紙に押し付けたいし、黒鉛が紙の凹凸にこべりついていく様を見たい。
その思いに反して、実際にえんぴつを握ると腕は動かない。
 五時のチャイムが鳴って、これから新しく何か、という気分にはならなかったので、放ってあったイーゼルを片付ける。
 ヘルメスで物足りない、と感じてしまっては、もはや何でも満足できないんじゃないだろうか。それは困る。
 誰が使うのか知らないが、きっとひとクラス分はあるのだろう、バラされたイーゼルがたくさん立てられている段ボールにねじ込む。音もなく、もはや柔らかい段ボールが歪んだ。そろそろ壊れそうだ。腐っていると言われても納得するくらいには脆そうである。
 ヘルメスを描き殴っている間に、すっかり彼のことは忘れた。忘れた、というよりかはとりあえず考えるのを辞めた。問題を後回しにしただけである。
 ヘルメスを抱えて、棚に戻す。もうキスをしようという元気はない。ひと通り、熱は放出したのだ。描きたい、触れたい気持ちは、ひとまず沈静化されていた。
 俺は、壁から美術室の鍵を取って、美術準備室の扉を開けた。
 たまに入るが、常に雑然としている。ただ、水道と、その近くの机の上だけは整理されていて、そのスペースだけが水越の使う場所なのだろう。あとは物置きだ。
 埃っぽい部屋の中ぐるりと見渡す。広い訳ではない。うっかり足を踏み出すと、ちょっとした衝撃でなにが崩れ落ちてもおかしくないから、身動きが取れないだけだ。
 分厚い百科事典のような本が何冊か積み上げられているのを見つける。求めているのはこれではない。中世や近代の有名作家のフルカラーの画集、作品集には埃が積もって、黒い表紙の色を変えている。
 エプロンは付けているし、手ははじめから黒鉛と石膏の埃で乾燥していてザラザラしている。今更、埃をかぶった本を退かすくらい躊躇はない。
 フルカラーの何冊かを、床に置くのは躊躇われたので、水越の管理地である机の上に積み直す。一番下から、ハードカバーであることには変わりないが、表紙がもう一枚、別紙でかけられているものではなく、表紙自体が布で装丁された三〇cm近いの高さ、厚さは一〇センチあるかないかというほどの本を引っ張り出す。ほこりが舞って、思わず咳き込んだ。
 水越は、前任者から引き継いだ時のままだと言っていたが、それはもはや責任逃れにはならないだろう。私物ならいざ知らず、学校のものをこうも雑に扱うのはどうなのか。
 とにかく、男の俺でも重いと感じる大判サイズの本を持って、準備室から出た。出てすぐの机に置くと、ぼふん、と鈍い音がした。布でくるまれているため、ほこりを拭くことができない。せめて、つるっとした表紙であったならば、と思いながら、とりあえず、表紙を開ける。
 古い紙とほこりの、甘い匂いがした。
 適当にめくっていく。見開いて、左側のページに作者やタイトル、所蔵している美術館の名前などが書かれていた。少し驚いたのは、用いられた画材や紙の質まで書かれていたことだ。そして、右側に作品である。
 キリスト教関連の素描が多いようだ。いわゆる写生もたくさんあるが。
 素描がフランス語でデッサンなのは知っていたが、実際、素描とはなんなのかはよく分からないでいた。『世界素描大系』と銘打たれているのだから、当然、掲載されているものはすべて、「素描」なのだろう。そこから見るに、あくまで、下描きで、メモといったところなんだろう。
 数をこなして答えを出すことが一番はやい。なんだっけ、帰納法か。
 十分それだけで見応えのあるものばかりだった。
たまに解説も読みつつ、めくっていくうちに最後まできてしまった。もう1冊引っ張り出したいような気持ちもあったけれど、そろそろ最終下校のチャイムが鳴るだろう。
 まだヘルメスを棚に戻してもいないのだ。
 分厚い本を閉じて、準備室の一角の山の頂点にそっと積む。これだけ重くて大判な本が地盤を固めているのだから、小さな地震程度では崩れることはないだろう。
鍵を閉めて、ポケットに入れる。手早くヘルメスを抱えて棚に戻す。抱えた腕のの中のヘルメスの上から見る。
 エプロンとシャツを越えて、ひんやりとした石膏の冷たさが伝わってきた。
 彼とヘルメスを描いた、この間のやつを引っ張り出してきて、わざわざ水越がひとこと「へたくそ」と言ってきたことを思い出した。むかついたが、どうしようもないほどに事実なので反論はできなかった。そして、自分でもよく理解しているし、痛感しているので、別口での嫌味すら出てこない。なにも言ってこないことに少し驚いたらしい。俺の返答待ちだった水越が妙な間を空けるはめになって、「人物のデッサンって大事だろ」と苦笑いにも似た表情で俺にヘルメスと人間味のない彼が描かれたそれを寄越してきた。
 渡されても困るのだが。
 それはきっと向こうも同じなのだろう。面倒くさくて、スケッチブックだのちゃんとした紙(えんぴつでのデッサンに向いているらしいA2サイズのなんだか特別な画用紙だ)だのは全部、準備室に置いていっている。
あの部屋が汚い原因の一端は俺にもあったのだ。



 扉の向こうを見るためにそっと椅子から身を乗り出す。耳をすませば階下に雑音。
 目の前のにんじんに意識を集中させる。スケッチブックには、黒鉛色のにんじんがある。ふと、ページを遡ってみる。
 彼の素描があった。
 彼は、今週はまだ来ていない。
 いつ来るとも知れないので、俺は一応、彼が言った言葉を考えなくてはいけないのである。今まで、よくもまあ目を逸らし続けてきたものだ。先に彼がやって来てしまったらどうするつもりだったのだろう。
 考えて欲しい、とは。
 彼がした行為の意味? 悪ふざけだと言っていた。とはいえ、実は見てたということを伝えるものだったことは確かだろう。
 俺が触った原因? あの時、彼は、不審そうにしていた。突然、首筋を意味もなく触られたら誰でもおかしく思うだろうけれど。彼は、俺の中の原因に心当たりがあるんだろうか。そんな口ぶりだった気がする。ただ、自分自身でも驚くような突発的すぎる行動の理由をどうして彼が分かると言うのだ。
それに関して落ち着いて思い起こせば、答えは出ていた。
 人間が描いてみたいのだ。
 初めてまともに描いた人間が彼で、俺は惨敗した。勝ち負けで言うのも少々違和感があるが、負けたもんは負けなのだ。リベンジしたい。
 上手く描けないのは気持ちが悪いが、それは練習しなければ絶対に乗り越えられないものだ。
 紙の上に熱を表したかった。俺の見ている彼を、きちんと描きたい。触れた通りの柔らかさと温かさが、描けないことが悔しかった。
描きたいから触れるし、触れて描きたくなるのだ。この循環が俺のサイクルのひとつだ。
 彼を描いて、彼に触れたくなった。彼に触れたから、彼を描きたくなった。
 それだけである。
 しかも、人物デッサンの大切さもなんとなくだが感じてきた。
 水越にも言われたし、知識として優れた芸術家が素描に手を抜かないどころか、むしろそこに力を入れているのは、知っていた。美術の基礎の基礎でおろそかに出来ない土台らしい。
 向上心のなさは、どうにも、彼を描いたことによって改善されたようだ。あまりにも下手過ぎて、どうにかしなくては思った。向上心というよりかは、赤点回避したい気持ちに似ている気もする。とにもかくにも、人間が描きたい。
 極論かもしれないが、今まで俺が描いてきた石膏は偽物だったんじゃないだろうか。石膏だってモデルがいて、ベースは人間であるはずなのに、人間と石膏を別のものとして描くのはおかしなことだったのかもしれない。石膏は人間を内包している。
 彼が来たら、そう言おう。
 身支度を整え、美術室を出る。なかなか閉まらない鍵に、いつも通り悪戦苦闘して、その間に、あっという間に足先から冬の冷気にまとわりつかれてしまう。
 寒いなぁ、とほかの部活が片付けている雑多な音を聞きながら、職員室へ向かった。



2016/01/20 11:03:31


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