Initium sapientiae cognitio sui ipsius.01




飴がズボンのポケットから出てきた。見覚えがなく、数分間、じっと眺めていたがやはり思い出せることはなにもない。
中心に飴を包んで、左右をきゅっと捻ってある。その両端を親指と人差し指で引っ張る。水色の砂糖のかたまりがそこにあった。細かい粉がまぶしてあって、全体的に白っぽい。粉の下の飴自身は、晴れ空の青さではなく、グレーがかってすらいて、灰色と水色を混ぜたような色をしていた。
つまみ上げて、小さい粒を口に入れる。
しょっぱかった。
ソーダ味じゃない。
数秒、口内を転がしていると、甘くなってきた。とても細かい塩がまぶしてあったのだと判断する。粉は塩だったのだ。味は爽やかだった。ただし、色に反した味だ。レモンだ、と気が付く。甘ったるくて、酸っぱさはどこにもないのに、レモンだと思うのはなぜなのだろう。
レモンの特徴が純粋な酸味だけな訳がないのだから、当然なのだが。自問自答しながら、この飴に心当たりがあるだろうやつへ思いを馳せる。
今頃は仕事中か……。
かり、と軽い食感と共に砂糖が砕け散って、すぐに溶けていく。口内が甘さに支配されてしまった。
こういう気遣いができるから、あいつにはいつも彼女がいるのだろうかとどうでもいい上に詮無いことを考えながら、くしゃり、と包み紙を握り込んだ。
甘いものは好きじゃない、とちらっと言った記憶はある。そして、この味が、その言葉の結果だということも分かる。これはあいつの気遣いの形だろう。ただし、外れだったが。
明日の仕事の時に、礼でも言っておこう。
礼を言っても謝っても、笑ってもあいつは変な顔をする。人を機械か何かだと思っているのだろうか。今どき、アンドロイドだって笑うというのに。
ふと、あいつの好みなどひとつも分かっていないことに思い至る。なんだか不公平だな、と感じなくもなかったが、それで困ることなどなにもない。
好きな食べ物も好きなアイドルの話も特にした覚えはなかった。あいつとだけではない。同じ班のやつらとは、大袈裟でなく命を預け合うような付き合いをしてきたのだ。趣味を互いに知らなくとも、付き合いが薄いということはないだろう。
何を知らなくとも互いに自分の背中を任せるのには十分だということはよく知っていた。


予習復習を済ませ、課題のプリントをファイルに仕舞う。机の上にそれらを積んで、伸びをした。
私立高校、特に任務に関しての手続き、管理の下手な学校に通っているせいで任務の度に面倒な思いをさせられる。手続きなぞ、やらなくとも事後報告でもどうにかなることはよく分かっていた。毎回、学校側に甘えるのはどうかと思っている。
事後報告よりも、今ここで自分が少々煩わしい程度の書類を揃える方が、結果として、自分含め誰かが費やす時間も手間も確実に少なくすることが出来る。お決まりの記入事項、空欄を埋めていく。宮藤の通う学校は、オス対策は出来ていなければ、任務に駆り出される生徒の扱いにも未だに慣れていない。
つい数年前まではこの地区が、警告範囲外だったのだから、未だにシステムが整っていないことは理解できるが、範囲内の公立高校にはとっくのとうにシステムその他諸々がしっかり整備されているわけで、それをそのまま転用すればいいのでは、と思う。公立であれば、一括で国から同じものを適用するのであろうが、私立はそうでないらしい。同じ学校と言えど、所詮は個人経営ということなのだろうか。
誰もいない部屋は静かだった。何か音楽でもかけようかとも考えたが、やめた。もう寝てしまおう。
宮藤は一人暮らしだった。自ら申し出て、結局、実際に暮らせるようになってまだ一年も絶たない。元々、各地を飛び回って仕事をしていた両親だが、父親の転勤が決まったのだ。もちろん、ついてこいと言われた。しかし、実際に引っ越すその時には、既に地区内にオスが現れていたのだ。
結果として、宮藤は一人暮らしを余儀なくされたのだった。
高校に入る前から、入隊している宮藤だったが、そんな稀有な存在はやはり、同じ学年にはいないようだった。関わらないで生きていけるのならそれが一番。そう考えない人間はいないだろう。
宮藤にとって、入隊というのは親への反抗のひとつだった。そもそも運動神経は良く、どんなスポーツをやってもそこそこの成績が出せた。もちろん、対オス戦闘の技能の数値も、それなりの成績だった。部活を始めても、高校に入れば、専念できなくなる。どうせ、やりたいものもない。
だったら初めから。
そう思った。反対されるだろうな、といっそやる気になった。
親が反対するのは当然であり、もちろん親だから、宮藤が正義などから言い出している訳ではないことはすぐに分かっただろう。だからこそ、なぜ、と聞かれた。宮藤は何も答えず、黙々と粘った。そして、親の署名を勝ち得た。
入隊の理由が小さな反抗心だということに親が気が付いているかは知ったことではないが、気まぐれに受けた狙撃手訓練で、才能があると言われ、今や地区外にまでも宮藤の名が知れられていた。
近隣地区へと訓練、任務に出掛ける日々は、宮藤にとって部活と変わらなかった。中には、たまたまこの地区に生まれてしまっただけの人間がいて、どうして好んでこんなところへ、と言われることもあった。
半分くらいの高校生は見たこともなければ襲われたこともない。それがオスなのだと宮藤は把握していた。
だから、安城という存在を知った時には困惑した。
安城と同じ境遇の人間もたくさんいる。兄弟姉妹、友人を食われた。それはそれで特別珍しいわけではなかった。ただ、あまりにもオスへの憎悪が強かった。こんなにも怒りや悲しみといった感情に取り憑かれた人間を見たのは初めてだった。
そして、その反動なのか、オスに関しさえしなければ、明るい年相応の少年でしかない。
気持ち悪く思えるほどの落差を内側に秘めた男だった。
立場が全く異なるとはいえ、そういう人間に会おうが話を聞こうが共感も同情もできなかった宮藤が、安城に対してだけは同情の念を抱いた。純粋に可愛そうだと思ったのだった。第一印象はそれにほかならない。
安城と知り合って少しして、安城の印象が「可愛そうなやつ」から「変なやつ」になった。
自分に構ってくれなかった 親へのあてつけ如きで人を救う機関へ関わった自分の小ささを嫌悪したこともあったが、それでも安城のようになりたいとは思わなかった。
目的を持って任務に就きたいとは常々周りを見ながら考えていたが、安城に出会って、その思いも消えた。果たしてそれが吉と出ているのかは未だに判断はついていない。
宮藤にとって、安城との出会いは運命の岐路のひとつだったのかもしれない。一緒に隊を組まないかと声をかけられた、その時に違いない。


耳元で鈍い音がした。携帯電話のバイブレーションだった。
まだ朝早い。とりあえず、枕元の目覚まし時計に手を伸ばして時刻を見る。まだ5時だ。
目覚まし時計を置いてから、携帯電話を開く。はじめから携帯電話だけ開けばよかったと気付いた。メールのアイコンがぴこぴこと動いていた。
安城からのメールだった。
『3丁目の公園で待ってる』
なんて一方的な。時間も書いていないところ見ると、もういたっておかしくはない。そして、返事を聞いてないというのはどういうことなんだ。
宮藤は短いため息をついた。
携帯電話はベッドの上に放り投げて、着替えに取り掛かった。朝食のために片手で湯を沸かしながら、もう片手でワイシャツのボタンを閉める。湯が沸くまでの数分の間に準備を整える。顔を洗って、かばんの中身を揃えて、玄関に置いた。あとは食事を取って、歯を磨くだけだ。沸騰した湯を茶碗に注ぐ。お茶漬けの素を振りかけて、勢いだけで喉の奥へ押しやる。喉元過ぎれば暑さもなんとやらだ。最後に冷えた麦茶で蓋をするかのように上から流し込めば完璧だ。食器類を重ねて流しに置き、水に漬ける。窓、火の元を指さし確認してから、リビングを後にした。
歯磨き粉が切れかけていて、遠心力を利用して無理やりにひねり出す。帰りに買ってこようと思いながら、歯ブラシを進めていく。歯医者に定期検診に行くたびに、歯磨き上手ですね、と言われるが、宮藤は歯磨きがあまり好きではなかった。たまに歯磨きをした後にお腹が減って、思わず何かを食べてしまい、歯をもう一度磨かなければいけないが、もう眠ってしまいたいという、その瞬間が嫌いだった。大抵、妥協してうがいで済ませてしまう。
歯磨きタイマーがピピッと鳴った。昨年の暮れに商店街のくじ引きでもらったものである。身に染みた習慣とは恐ろしいもので、タイマーとぴったりに磨き終わる。うがいをして、襟元を整える。腕時計を確認して、玄関へ向かった。


公園に行くと、ひとりでブランコを揺らしている安城がいた。
おい、と呼ぶと顔を上げて手を振った。

「はは、もう制服かよ」
「俺も思ったけど、面倒だし、これでいい」
「宮藤らしー」

そう言う安城も制服姿だった。
空いたブランコに腰掛けて、じっと安城を見た。どうした、と問うまでもなく、何か言いたいことがあるから呼び出されたのだ。

「カノジョ、食べられちった」
「前の基地にいた?」
「そう、まゆみね。あれ、射撃班で一緒だったろ?」
「たぶんな」
「お前が覚えてるわけないか」

安城は呆れているようでも責めているようでもなく、無感情に言った。ギィ、とブランコの錆び付いた鎖が鳴らされた。

「で?」
「慰めろよ、他になんだと思うの、こんな朝っぱらから」
「こっちの台詞だ。俺から言うことは何もないんだけど」
「さすが、宮藤! 分かってるよ! ひとりで落ち込んでろ、だろ?」

その通りだ、全く。
頷く宮藤に、安城は口をへの字に曲げて笑った。変な顔だと思いながら、そこに複雑な心境を、一応読み取った。

「午後の巡回さ、俺のこと守ってよ」
「いつも守ってますけど」

宮藤には安城がどうしたいのかよく分からなかった。ただ、死にたいと一瞬でも思ってしまったのだろうことは、想像がついた。付き合っていた恋人がオスに殺されたのは、宮藤が知る限りでも3人目だった。3人はさすがに多い。オスが現れて数年目ならいざ知らず、今や交通事故の死亡者数の3倍程度で収まっている。その中で、3人だ。
安城の恋人の数が多い訳では無い。安城は誠実な男だという評価は自他ともに。恋人が死んですぐに新たな恋人がいるのは、来るものを拒まず、そして、誰でも愛せる安城のおかしな性格のせいだ。博愛主義なのかもしれない。

「もう誰かと付き合うのはやめようかな」
「あと、2年もないんだし」
「だよなぁ。宮藤は……誰もいないんだっけ?」
「何が」
「友達とか彼女とか、で殺されたの」

ああ、と頷きながら、友達も恋人もいませんとは言えない空気に黙るしかなかった。
彼女は置いておくにしろ、友達と呼べる人間がいないことは仕方の無いことだった。班員や、上司に対する「仲間意識」はあったが、それは「仲間」であって「友達」ではない。
そして、この時勢、友達に成りうる同級生とは皆、仲間にしかなれない。友達であったとしても、それはオスの出現と同時に「仲間」になる。だからと言って、地区中の、世界中の隊員を仲間と思う訳では無いが。
自分がいつ死んでもかしくない、と思っているからだろうか。他の誰もが同じように思っていると、勝手に信じ込んでいるから、仲間が死んでも「そういうものだ」としか捉えられなかった。

「一番はじめに配属された班では三人。次の班で一人、射撃班では前の基地で一人、今の基地で二人」

目の前で殺された数だった。入隊してからが、平均より長いのだから、その数だって多くて当然のはずだ。

「うわー結構、やられてるんだな」
「誰でも、このくらいの数はいるだろ」
「……親しかったひとの死しか悼めない自分に嫌気がさすのは間違いかな?」
「普通じゃないか? 真面目そうなこというと、バカが強調されるぞ」
「宮藤のそういう平等っぽいところは憧れるし、好きだよ」
「道徳観みたいなものが欠けてるとは思うけど」

社会主義的なんだよ、宮藤は。
安城が小馬鹿にするように笑った。ヘの字ではなくなった口が、宮藤の悪口をつらつらと紡いでいった。

「怒らないよなー、宮藤は」
「事実に怒ってもな」
「懐が深くていらっしゃる」
「懐に穴があいてて、ぜんぶ下に落っこちてるんだな」
「お前の例え、変」
「安城の髪の色の方が変だ」

安城は髪をよく染める。額を出した全体的にすっきした髪型は常に変わりはないが、金髪にしたり、黒髪にしたり、たまにピンク混じっていたり、銀色になっていたりする。
確か、元の色は明るい茶色だ。染めていなくても、よく「ガキのくせにいっちょ前に染めてんのか」と基地内で絡まれているのを見たことがある。
今は、銀髪に毛先が水色だった。

「いいじゃん、若いあいだしかできねーもん」
「社会人になる頃にはハゲだな」
「かもな、いいよ、ハゲでも」
「オトナになれるなら、だろ?」
「そう、それ」

宮藤を指差して、けらけらと声を上げて笑う。表情は豊かだが、感情の起伏は激しくない。ずっと笑っている。いつ見ても笑っている男だった。笑顔以外でいることが珍しいほどに、感情は「喜」と「楽」しかない。

「安城がハゲる前に俺がハゲそうだ」
「お前はハゲないよ、毛根が強そう」
「あっそ。で、今から戻るの、家?」

安城は二つ隣の地区に住んでいる。自転車で一時間はかかるはずだ。

「宮藤んちで時間潰してから、行く」
「……勝手に決めんな」
「朝めしは納豆あればいいから」
「どうして、うちがご飯派だって知ってる」
「パン食べなさそうな顔してるから」

諦めのため息を吐くと、安城はちゃんと手伝うから! と的外れなフォローを入れた。


宮藤は息苦しさに目を覚ました。Tシャツがびっしょりと汗に湿っている。暑い、と思ったのは一瞬で、すぐに汗が空気に当たり、寒くなった。しかし、体の内側には熱気が立ち込めているような感覚がいつまで経っても消えない。唾を飲み込むと、喉が引き攣るように張り付いた。痛めたか。
身を起こして、キッチンへ向かう。洗ったあと、裏返しにして乾燥させてあったコップを手に取り、麦茶を注いだ。喉を通過していく冷たいものに意識がはっきりする。目を閉じれば、ついさっきまで夢の中で見ていた光景が鮮明に蘇る。音も感触もすべてが、体験した通りに再生されていた。
スコープを覗いた先にオスがいて、引き金を引こうとした瞬間に耳に届いた肉を切り裂く音、聞こえるわけもないはずなのにそれが聞こえてきて、すぐ後には、墨のように黒く噴き出す血液が視界に入る。
いつの間にかグローブの中は手汗で湿り気を帯びていて、妙に指先は冷たくなっていた。それでいて、感覚はいつもよりもはっきりと伝わってくる。まるで素手で、手袋もしないで寒空の下でトリガーに指をかけているかのような、明瞭さだった。
素早く、スコープの角度、焦点を絞り直す。ものの数秒のはずなのに突然、景色がゆっくりとしか動かなくなり、もどかしさにどうしていいか分からないまま、ようやっとレンズに映った安城の姿。
遠くで銃声。
白い爪が開く。
安城は膝をついて、腹と胸から黒い液体を不規則に流れ出している。その腕から、安城のアサルトライフルが落ちる。後を追うように安城の体が倒れた。
宮藤は今にでも叫び出したい衝動に駆られているのに、喉の奥はひりひりと焼き付くようにその道を狭めていて、その微かな隙間を縫うように、こじあけるように空気を送り出すことしかできない。耳に入ってきた銃声によって世界は元の速度を取り戻す。宮藤の指は思考よりも先に引き金を引いた。最後に聞いたのは自分の撃った弾丸の音だった。
おかしい。
脳裏で記憶をなぞりながら、ひとつの疑問が浮かぶ。
安城の体にオスの細い棒のような腕と鋭い爪が振りかぶられる寸前の表情を確かに宮藤はその目で見ていたのに、全く思い出すことができなかった。
それこそ安城の表情以外の全ては、今まさにこの場で行われいるかのようにはっきりと脳裏に、全細胞が覚えていると言わんばかりに再現を可能にするだろう。
麦茶を一気に飲み干して、息をついた。ふと触れた首筋はぬる、と汗で滑った。壁に掛けてある時計を見ると、短い針はまだ3を指している。
Tシャツを脱ぎながら、洗面所へ。こんな状態で再度、布団に入ろうなどとは思えなかった。シャワーを浴びようと、着ていた服を洗面所の床に脱ぎ捨てて、乱暴に浴室のドアを開ける。シャワーの蛇口を思い切り捻ると、冷水が勢い良く降ってきた。
「っ……?!」
思いのほか、まだ寝ぼけていたようである。お湯が初めから出ないことなど、考えるまでもなく分かっていたはずなのに、この様だ。水流が強過ぎるのか、水滴のひとつひとつがチクチクと刺さるようだった。前髪が水気を帯びて、額に張り付くので、手でかき上げる。目の縁を流れていたはずの水滴が、目の中へ入ってきて、眼球の粘膜が薄められいく。瞬きに痛みを伴い出した。いつからかお湯になっていたシャワーの水流を弱めた。


(2016/02/09 20:11:11)


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