03






 忙しいから少しの間は行けない、と彼に言われてから、一週間が経っていた。ひとりで石膏を出し入れするのも、随分と久しぶりに感じられた。しかし、彼は部活の度に訪れていたわけではない。彼が来ていない日は確実にあって、その日は、ここ数日と同じようにひとりで描いていたはずなのだ。
 たかだか数回、彼が訪れていないだけでこんな風に感じるとは思わなかった。
 たまには石膏以外も描けよ、と余計なお世話なのだが、顧問でもない美術教師が、色々なものを置いていった。モチーフになりそうなものはすでにたくさんあるというのに。
 果てには、首にかけるための紐のついた画板をどこからか引っ張り出してきて「景色とか描いてみたらどうだ」である。放っておいてくれ、としか言いようがない。
 楽を覚えてしまったのか、彼が来ないと石膏を引っ張りだそうという気力があまり起きなかった。ヘルメスをついこの間描き上げてしまったということが大きいのだろう。
 すぐに自分の部活に戻っていった美術教師の足音が階段の下から聞こえなくなってから、俺は画板を持って外へ向かうことにした。
 寒いことは、廊下に出た段階でよく分かっているので、マフラーとコートを右脇に、画板を左脇に抱えて靴箱へ。
 歩きながら、もぞもぞと防寒着を着込む。吹奏楽部や軽音楽部の楽器の音がどこもかしこも響いていて、自分の足音なんてほとんど聞こえなかった。そうっと抜き足で歩いていたことが馬鹿らしかった。
 上履きのまま、中庭に出てきた。
 どこへ行っても運動部がトレーニングをしていて、気まずかった(加えて珍しいものを見つけたかのような顔をされる)ので、ふらふらと移動を繰り返しているうちに、屋上へ繋がっている校舎の外付け階段にたどり着いた。
 屋上へ繋がっていると言っても施錠されているので入ることはできない。階段の途中に腰を降ろして、景色を見た。
 まだ五時のチャイムも鳴っていないのに、空は深い橙色で満たされており、下に見えたテニスコートの表面を同じ色に照らしていた。コートの中をせわしなく動くテニス部の生徒達もその色だ。
 階数としては、四階に当たる。高さは十分で、街並みを見渡すことが出来た。
 住宅街と、ところどころに小さな山のような木が密集した箇所があって、そのどれもが橙色の光を浴びていた。
 マフラーに顔を半分ほど埋めていても寒かった。外気に触れる部分が軒並み冷たい。鼻で息をすれば、奥がつんと痛くなり、口で呼吸をすれば、白く息が舞う。そして、吸い込んだ空気に喉がヒュッと音を立て、咳き込む羽目になる。
 まだ冬は始まったばかりだ。12月に入ったばかり。
 コンクリートの壁に画板を立て掛け、コートのポケットに手を突っ込む。感覚を放棄し始めていた指先には、布が擦れたような感触がぼんやり感じられる程度だった。
 ポケットに振るタイプのカイロがあった。朝、封を切ったのだ。もう熱を発しはしなかったが、一日中ずっとポケットに入っていたので、自分の体温で薄ら温かい。冷え切った指先には、十分だった。
 カイロを握って、開いてを繰り返し、自分の首筋などを触って、温めた。指先はじんじんと熱を持ち始めた。痛みに近い感覚が、血の巡り始めた証拠だった。
 長くいればいるほど寒くなることは目に見えていたし、指の状態がこれ以上よくなることはないだろう。そうなれば、さっさと描いて戻った方がいい。
 画板を膝の上に乗せて、ざっと見える風景を描いた。
 しっかりとえんぴつを握ることも出来ず、辛うじて震えていないような腕では大したものは描けず、それよりも寒さに耐えられなさそうだった。適当なところで切りをつけて、美術室に戻ることにした。

   

 暖房を付けたまま出ていったので、美術室の中は暖かかった。扉を開けると、暖かい空気の見えない壁にぶつかったようだった。

 「描いてきた? 見せて」
 「うわっ、いたんですか……先生」

 美術教師が黒板の前に立っていた。真横から、声がかけられた。ついでに寄越せと言わんばかりに腕が伸びてきた。
 脇に抱えていた画板を自然と後ろへ隠すようにしてしまい、美術教師の水越がにやっと笑った。

 「見せたくないようなもの描いてきたのか?」
 「うるさいなぁ、景色しか描いてませんよ。ただ、雑な下描きなんで……」

 見せたくない、というよりかは見ても面白くない、という意味を込めて睨み付けてみるが効果はなさそうだ。
 この水越という教師は見せろ見せろと言う割に、見たあとは何も言わない。ここを直した方がいい、というアドバイスだって言わないし、特に褒めたりもしない。授業ではないし、顧問でもないのだから、俺がそれらを求めるのも筋違いで、その逆も然りだ。だから、俺には水越に見せる義務も必要もない。
 もちろん、そんな主張は通らないのだけど。
 渋々ながら、画板ごと水越に渡して、思いのほか長く眺められてしまい、手持ち無沙汰に窓の外を見る。
 まだ、コートも脱いでいなければ、マフラーも取っていなかったことに気が付いて、それらを外しにかかった。
 水越が画板から目を上げた。

 「で、明日はヘルメスのデッサンをする訳か」

 は? とうっかり声を出してしまった。

 「明日は部活じゃないので」
 「じゃあ、次はヘルメスか、って聞けばいい?」
 「まだ決めてませんけど……」
 「ヘルメスのどこが好きなんだ? 学生の頃とか、ヘルメスは苦手だったんだよ」
 「どこって言われても、なんとなくですかね」

 そうか、と応えた水越。何か考えている風ではあったが、俺に画板を返して、机の上の片付けを始めた。鼻歌を歌いながら、転がっていた美術選択の授業で使っただろう静物画のモチーフを段ボールに収めていく。段ボールは持ち上げた時には底が抜けるのではないか、というほどのボロボロ加減だった。

 「あ、そういえば。進路はどんな感じ?」
 「私立文系です」

 丸めてしまったコートのポケットからえんぴつを出した。机の上に置くと、ころころと転がって、机のまん中で止まった。
 それ以上は何も言わなかった俺を一瞥して、「つれないなー」と水越が呟いた。面倒くさい教師だ。
 こんなだが、生徒からの人気は高い。特に女子。若くて運動もできて(学生時代に高校生サッカーで活躍したとかでサッカー部の顧問を務めるくらいだ)、この鬱陶しいほどの気さくさである。俺は何かを相談しようとは全く思えないけれど、友達感覚で話す女子たちの気持ちが分からないわけではない。距離が近いのだ。鬱陶しい。
 水越が教室の前で作業しているので、一番前の机を使うのは躊躇われて、そのひとつ後ろの机に画板から外した用紙を置いて、椅子に座る前に上から眺めた。窓の外はもう、橙色ではない。しかし、脳裏にはしっかりと鮮やかな夕日の色が焼き付いていた。

 「石膏以外で最近、何を描いた?」
 「だから、石膏が好きなんですってば」
 「それは知ってる。美術解剖学とか知らない? 人体のクロッキーとかさ」
 「……見よう見真似で描いてきただけなんで」

 薄くてガタついたビルの輪郭線をゆっくりなぞりながら、ちらりと水越を見る。一通り片づいたのか、段ボールの上を軽く閉じていた。ふたが浮いてこないように図鑑か何かが置かれている。

 「そういう資料もどこかにあったような気がしなくもない……」
 「いや、いいです。別に今以上にどうこうっていうのないんで」
 「向上心のないやつ。あ、そうだ、あいつに脱いでもらえば?」
 「あいつって誰ですか」
 「最近、よく来てるじゃないか」
 「知ってたんですか」

 まあね、さっきのは冗談だからな、と片手でダンボールを抱えて、もう片方の手で美術準備室の鍵を開けた。膝で扉を押し開け、「セクハラで訴えられるから、今のは誰にも言うなよ」と念を押して、クリーム色に塗装された金属のドアの向こうへ消えた。
 十分もしないうちに、廊下でドアの開く音がしたので、水越は帰ったのだろう。または部活へ行ったのだ。
 準備室からも廊下からも何の音もしなくなり、北風が窓のガラスを時折、鳴らすのと暖房の機動する音だけがしていた。
 今日はもう誰も来ない。
 そもそも水越が来ていたことがイレギュラーだったのだ。
 えんぴつを置いた。
 普段は何かと横着して、面倒くさがりもここまでくるとまずいかなぁ、なんて思う日もあるくらいだったが、どうにもヘルメスのこととなると、その性格も適用されないらしい。
 ヘルメスを今から描こうという訳ではない。
 ただ、見たかった。
 この間まで描いていたのはなんだ、と聞かれそうだが、毎日見ても飽きない。きっと、美術品とは得てしてそういうものであるはずだ。これはレプリカだから、特別気に入っているヘルメスだけ、飽きないのだろう。マルスは三日で飽きる。
 よいしょ、と棚からヘルメスを取り出し、ついさっき水越が掃除していった机に運ぶ。
 そういえば、エプロンをしていなかった。こげ茶色のセーターがうっすら白くなっている。この間も出していたし、しょっちゅう自分でほこりを払うことのあるヘルメスだったから、この程度で済んだのだ。他の石膏だったら、セーターは真っ白だっただろう。
 少しだけ首を上へ向けて、ヘルメスを見ることが好きだった。
 しなくてはならないことは何もなく、やりたいことができる。それだけでも、部活の時間は、とても重要な時間であった。そんな中でも、美術室でひとり、ヘルメスを眺めている今を、際立って贅沢だと思う。どこで何をやっている時よりも、だ。
 この瞬間がどれほど大切で、何にも代え難い時間であるか。
 自ずと、手が伸びる。
 冷たいと思う瞬間が好きだった。
 ヘルメスの肩に触れた。ただヘルメスを見ていた時に感じられた、自分の中の一種、高潔でさえあると思える満足感はなりをひそめる。
 触れてしまったら、最後、心の片隅で自分自身を気持ち悪いと非難しながら、どうしてか止まらない触れたい、という気持ちに従い動く。
 自分よりも冷たいものに触りたい。冬は、何に触れても、自分よりも温かい。温かいものはじんじんと指先に痛みを与えるばかりだ。
 冬、ヘルメスの冷たさは卓越しているように思われた。
 俺はそれを求めている。
 背伸びをして、顔を近付ける。石膏の、目の粗さがよく見える。遠目には、つるりと陶磁器のような滑らかさを持っているように見えるのだが、実際は、小さな気泡が入ったただのセメントの塊なのだ。
 そんなセメントに俺は何を、そう戸惑う気持ちは未だに残っていた。
 くちびるに冷ややかな空気を感じて、すぐに冷気を発しているそのものに触れて、馬鹿みたいだと思うが、自分のくちびるの柔らかさを知らされる。俺が感じているのは、ヘルメスのくちびるの硬さと冷たさであるはずなのに、自分は温かいのだ、と思う。
 ひとは他人がいて初めて、自分を認識する。
 俺は、きっと、自分よりも冷たいもので、自分の温度を認識するのだ。
 どうしてそれがヘルメスなのか。それに理由を付けることは出来ないままでいた。
 ガタンっ
 音がした。
 ほとんど反射でヘルメスから体を離して、扉の方を見る。全開ではないが、半分ほど開いていた。
 不用意だっただろうか。今までは全開だったことを思うと、半開というのは、自分の警戒心が下がるうえに、覗くことも容易になったということなのかもしれない。
 美術室というのは、縁がなければ入りづらいものだろう。しかも無人または、生徒がひとるだけいるという状況なら尚更。どの教室でも、自分のクラス以外は大抵、入りづらい。そして、そういう時は、ちらっと中を覗いて確認する。普通の行動だ。
 不可抗力なんだよ、という言い訳が喉まで登ってきていた。いやもちろん、どこも不可抗力ではない。俺が加害者である。
 その言葉は、きっと、うっかり見てしまった見知らぬ人から俺へ向けて発せられるべき言葉だ。
 どうしよう、と呟きながら、全く焦っていない自分がいた。
 バレたら、色々とまずそうな気がする。しかし、そのうっかり見てしまったひとが、変な気を起こして、水越にでも美術部員の名前を尋ねない限り、俺の名前は出てこない。
 うちの学校に美術部があることを誰が知っているだろう。そのうちに、俺が美術部員であること知っているのなんて、俺の友達くらいじゃないだろうか。
 萎えた、というのがぴったりだろう。これ以上、ヘルメスに触れようという気にも、元々やる気のなかった風景画の続きを描く気持ちも失せていた。
 今日は、少し早く帰ってしまおう。
 暖房をまず消した。



 久しぶり、と彼はやってきた。
 三学期も、つまりこの学年もそろそろ終わりが見えてきた。年度末に向けて、年末とはわずかに違った忙しさが世間にはあった。
 来年度の履修登録を見ながら、受験生なんだなぁとぼんやり考える。

 「それ。来年の履修?」
 「ああ、今日が面談だったんだ」

 描いていないのも、石膏の準備をしていないのも珍しかったのだろう。ただ、机に向かって、えんぴつではなくシャープペンシルを握っている俺の向かいに彼は立った。見てもいい、という意味で頷くと、彼は机に腕をついて紙を覗き込んだ。照明が遮られて、暗くなる。

 「文系かー、オレと真逆」
 「君は理系なんだ?」
 「しかも、国立狙ってるから。な、真逆だろ」
 「そうだな、国立ってことは……五教科か」
 「そ、五教科七科目」

 履修は組めているのだが、志望校が書けないでいた。現段階で、何を決めろというのだろう。夏休みにオープンキャンパスに行っておけ、と言われたが、結局どこにも行かなかった。言っていたとしても、現状に変化はなかっただろう。

 「志望校決まらないの?」
 「……特にやりたいことなくて」
 「美術系は、って、もう同じこと言われてきたから、きみが今こんなことしてるわけだ」
 「まあ、そんな感じ」

 君は、と聞く。理工学部行きたいんだ、と返ってきた。

 「すごいな、よく分かんないけど。俺、物理苦手だから、それ専攻しようって、想像つかない」
 「確かにきみ、苦手そうだ。機械の内側が知りたいって漠然と思ったんだよなぁ……自走式掃除機が動いてるの見て」
 「ジソウシキ掃除機? って、ひとりで動き回る?」
 「ん、あれ。あいつさ、障害物にぶつかる寸前でぴたっと止まるし、Uターンもするだろ、ちょっと下がって少しずつ角度変えて、縦列駐車みたいな動きもするんだぜ。それが、あれっぽっちの大きさの中におさまってて、しかも、操作は電源入れるだけって、すごくない?」

 興奮気味に話す彼。
 初めて、こんな話をした。自分の話をしたし、聞いた。

 「あ、なんか熱弁しちゃった」
 「いや、参考になったよ」
 「それは最近の話で、本当のきっかけはガンダムなんだけどね、兄貴が好きで」

 お兄さんがいるんだ、と続けようとして辞めた。
 いくら考えたって、堂々巡りにしかならない。こんなものはあとでどうにかしよう。
 さっさと描きたい。無心で描きたい。

 「今日は、ヘルメス描く」

 紙を折り畳んで、傍らのかばんに突っ込んだ。
 彼が来たのだし、石膏を出すのを手伝ってもらおう。
 言った瞬間、またかよって言われるな、不意に思った。

 「またヘルメ」
 「また、じゃない。君が来ていない間には描いてないんだから、久しぶりなんだ」

 石膏の収まっている棚に目を向けると、彼が笑った。
 椅子から立ち上がって、彼はリュックを隣の机の上に下ろして、ヘルメスを運びにかかった。
 ヘルメスを設置するまで、彼は黙っていた。いつもひとこと、ふたこと話すのだが、今日は何も言わなかった。それは特に気にするほどのことではないように思えた。
 それよりも、ずっと気になっていることがある。
 彼は、ヘルメスを見ていた。持ち上げた時、顔の近くまでやってくる、俯いたヘルメスの横顔をじっと睨みつけている。俺に何かを言っている時でも、決して目を逸らさない。
 そして、もうひとつ気になること。それは、ヘルメスに触る時に、一瞬動きが止まることだ。躊躇する、という感じだろうか。持ち上げよう、という時に俺をちらっと見てから、一拍置いて、ヘルメスに手を掛ける。
 ヘルメスを棚から出す時も戻す時も常にそうだった。
 今日も全く一緒だ。ヘルメスに触れる際、視線で俺を捉えてから、持ち上げる。そして、ヘルメスだけに目を向けて運ぶ。
 彼にとって、ヘルメスがなんなのか。俺はそれが知りたかった。
 水越はあまり好きじゃないと言っていた。俺は、好きだった。描きやすい、とは決して思わない。
 では、何をもってして好きなんだろうか。 
 俺にとってヘルメスがなんなのか知りたくて、けれど、その答えは絶対に自分ひとりでは出ない。
 それは比較対象がないからだ。やはり俺は普通じゃないのか。ヘルメスに触れたいという衝動はどれだけおかしいのだろうか。
 石膏の話なんて、もちろん誰ともできなくい(あの美術教師は話し相手として論外だ)。そもそもヘルメスを知っているかどうかも怪しい。そこで、彼はヘルメスをギリシャ神の姿も石膏としての存在も知っている。加えて、ただの石膏へ向ける思いではない何かを抱えている。
 彼の言葉を聞けば、答えが出るかもしれない。
 ヘルメスの話がしたい。
 結論はそこだ。どんなに言い繕ってみても、きっと、俺はただ、好きなものの話がしたいのだ。

 「どうかした? なんか変?」
 「えっ、ああ、いやなんでもない」
 「険しい顔、してたけど」

 悩みとかあるなら聞くぜ? 茶化すように彼は言った。首を横に振ろうとして、止めた。
 あまりにもいいタイミングだ。

「君にとって、ヘルメスってなに?」

 声は出さなかったけれど、えっ、と口を半分開けた。彼は、数秒間、そんな表情だった。すぐに、首を傾げて手を顎に当てて、なんだろう、と唸るように呟いた。
 答えてくれるのか。ほっとしたような、逆に怖いような。
 悩む彼が、どうして? と至極真っ当な質問を、少し遅れてからした。
 おかしな質問だという自覚が俺には足りていなかった。ヘルメスはヘルメスでしかないのだから、彼が困ってしまうのも納得だ。

 「君は、ヘルメスをよく睨んでる、から……」
 「睨んでる? そうかぁ、気付かなかった」

 訳分からないことを言ったはずだ。それなのに、どうしてか、彼は楽しそうだ。にんまり、と心底愉快そうにしている。呆れるとか、意味が分からないと非難すべきなのでは、そう自分でも判断できるだけに彼の笑顔が理解出来なくて、うっすらと怖さを感じた。

 「嫌い……なんだ。嫌いっていうか、苦手っていうか。ヘルメス自体が嫌いなわけじゃなくて、『このヘルメス』と、なんて言うんだろう、たぶん反りが合わないんだ」
 「このヘルメスと反りが合わない……? 君は変だな」
 「自分のことを棚に上げてる気がしない、きみ?」
 「する、けど……君の方が、変だと思う」
 「どっちもどっちだ」

 やはり、彼は楽しそうだ。今に鼻歌でも歌い始めそうなほどに。
 どこにそんな要素があったのだろうか。何が楽しいのか見当もつかない。
 けれど、嫌いだ、反りが合わない、このふたつは、答えだろう。睨み付ける理由にも触るのに躊躇する理由にも、なり得る。
 俺が、好きだから触るのなら、彼が、嫌いだから触らない。
 石膏に「好き」だとか「嫌い」という感情を抱くあたり、もしかしたら彼と俺の価値観は近いところがあるのかもしれない。
 俺と彼が似ているとしたら、思ったより俺はおかしくないのか。それとも、オレも彼もやはりおかしいのか。どちらなのかは、やはり判断しかねる。
 それでも、彼にとってヘルメスがなんなのか、それは知ることが出来た。
 俺なんかと似ていると言われたら、きっと迷惑だろうけれど、彼の「嫌い」は確実に水越の「苦手」とは、ベクトルが違う。

 「きみはヘルメスが好き。どうしようもないほどに」

 机の上のヘルメスの肩に腕を回し、内緒話をする時に肩を寄せるようにした。ぐっと彼とヘルメスの距離が縮まる。
 彼の表情は、いっそ読み取ることが難しいくらいに豊かで、微細な違いがその笑みにはある。ひとの表情なんて、実際はそんなものなのかもしれないけれど、俺は、誰かの表情をこんなにも真面目に読み取ろうとしたことはないから、それは分からない。
 彼は、言葉が少ないわけじゃない。ただ、彼の言葉は、核心をつかないし、回りくどいのだ。言わないことをわざわざ聞きたいとは思わないけれど、でも、彼の表情は、言っている気がしてならなかった。
 全部、勝手な妄想かもしれない。

 「君の言葉は難しい」
 「ヘルメスが好きだから、またヘルメスを描くんだ」
 「ああ、そうだよ」

 俺が頷くと、彼はこっちを向いた。肯定するとは思わなかったのだろうか。
 若干大きく開かれた茶色い目がお前は変だ、と言っていた。きっと、そうだ。言葉にされなくとも、彼の表情はどこまでも雄弁だった。俺にその多くの言外の言葉を読み解く力がないだけだ。
 俺のヘルメスへの思いは、普通じゃない。
 欲しい答えが得られた。

 「反りが合わない、なら来なければいい。君は変だよ、やっぱり」

 満足するとともに、どこか拍子抜けした。納得と落胆が一度に押し寄せた。喉の奥に小さく湧いた原因不明の笑いをごくん、と飲み込む。
 椅子を引き寄せて、机の上にばらまいたえんぴつも手でかき集めるようにする。そのうちの一本を手に取って、先に組み立てておいたイーゼルに乗せられた真っ白な紙を見る。
 彼は、足元を見ていて、ヘルメスと肩を組んだままだった。
 何も言わない彼。何を思っているのだろう。
 彼がぴたり、と静止して、たぶん、数十秒もなかったはずだが、俺にはそれが随分長く感じられて、彼が顔を上げようと、首がわずかに動いた時「待って欲しい」と感じた。
 ヘルメスと密着し、動かない彼はまるでそれがひとつの作品のようだった。
 待って、動かないで、と声をかける。彼が、えっ、と言おうとした口を急いで閉じて、本当に小さな小さな頷きとこちらへ流した目線で応えた。

 「時間あるんだったら、そのままでいて欲しい」

 そういえば、水越が彼のことを知っていた。ふと思い出す。
 よく通る声で平気、とだけ彼は呟いた。耳がはっきり見える。ほぼ正面向きに近いヘルメスに対する彼は、俺から見ると斜め後ろ向きだった。
 自分で言ったのに、わざわざ姿勢を戻してくれた彼に少し笑ってしまいそうになった。頑張ってその首の角度を変えないように、指の先までぴしっと動かないように気を遣っているのがありありと分かった。
 この緊張感を、俺は紙に写すことができるのだろうか。
 微動だにしない石膏の硬さには随分慣れたが、ひとを描くのは初めてに等しかった。
 ヘルメスとすぐ隣の彼は、素材が違う。熱を持ち、弾力を持ち、動きがある。
 急に不安になった。知らないものを描くのは、怖い。描けない、と感じた。こんなところで、美術教師の言葉を何度も思い出すのは本当に癪だけれど、ひとを描くことに意味がある、そのことはこの一瞬で認識出来てしまった。
 自分の中に向上心に近いものがあることを知る。描けないから描きたい。出来ないことを出来るようになりたいという気持ち。
 ここは割り切るしかないのだ。成るように成るだろう、そう思いながらえんぴつを滑らせ始める。
 あまり時間をかけるのは彼に申し訳ない。
 はじめはそんなつもりだったが、描きはじめると筆が乗った。描くものの数自体が増えているので、時間は倍かかってもおかしくない。ちょっとくらい雑でもいいや、とにかく描き上げたい。
 ヘルメスの冷たさと彼の熱さ。その落差、ふたりの間で交ざるぬるい空気が、俺の手では表されない。悔しい。久しぶりの感情に、若干の苛立ちを覚えながら、この苛立ちが腕を動かしているのだ。
 描かなければ、筆を進めなければ、紙上に俺の見せたいものが現れることはないのだから。
 気が付いたら、外が真っ暗で、視界がぼやけてきた。

 「電気点ける」
 「オレ付けるよ。あ、動かない方がいい?」
 「……明日、続きを描かせて欲しい」
 「明日? いいよ、どうせ来るつもりだったし」

 照明を点けながら、うーんと大きく伸びをして、彼は当たり前のように頷いた。
 まさか、彼を、ひとを描くことがあろうとは。
 自分でも驚きしかなかった。

 「見てもいい?」
 「え、あ、やだ。……まだ」

 慌てて立ち上がって、イーゼルを背で隠すようにする。彼が、ごめん、と謝った。いつもの苦笑いだった。
 彼を勝手に描かせてもらっておいて、それはないだろ、俺。思うより先に体が動いてしまったのだ。

 「終わったら、見せるから」
 「うん、待ってる、オレもう帰るね」
 「ああ、うん、ありがとう」

 どういたしまして、とリュックを背負う。
 紙の上の彼は、石のように硬そうで、まるでゴルゴーンに魅入られてしまったみたいだ。ドアの前で、嬉しそうに見える彼の頬はあたたかい赤みを帯びていて、指で押したら、沈みそうな柔らかさがきっとある。

 「あいつとは反りが合わないけど、きみとはそうじゃないと思ってるから、来るよ」

 一瞬なんのことかと思った。
 ばいばい、と手を振って出ていった。釣られて、ばいばい、と応えて、やはり彼の言葉は難しいと思った。


(2015/12/23 15:36:58)
(2017/10/01 20:33:08)







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