02






 彼はそれからよく美術室に訪ねてくるようになった。大抵、学校指定のものではないジャージ姿で、リュックを片方の肩だけに引っ掛けて「今日もきみだけ?」と美術室の扉から半分だけ体をそうっと覗かせていた。
 俺は毎回、そうだ、と答えた。彼はほっとしたように頷く。そして、適当な机の下から椅子を引っ張り出す。振り返ると視界に入るあたりに椅子を置いて腰を降ろしていた。
 そうして、何をするかといえば黙って俺が描いてるのを見ていた。
 楽しいかと問うと、駐輪場で話しかけてきた時と同じように僅かに眉を寄せて薄く微笑んで、頷いた。そして、歯切れ悪く「気が散るなら、帰るけど」と言った。
 うるさくするわけでもないし、邪魔をしてくるわけでもない。いてもいなくても特に気にならなかった。
 ネックウォーマーはその夜に洗って、きちんと次の日に返した。
 あの日、なにを忘れたのか聞こうとしたこともあったが、彼との間に大した会話はなかった。どうでもいいようなことをぽつりぽつりと交わす程度。
 聞くきっかけがなかったこともあって、きっと聞く日は来ないだろうと思った。どちらにせよ、特別気になるわけではなかった。



 大した量もない画材を机の上に転がして、石膏を取りに教室の後方で作業していた時に彼が声をかけてきた。
 彼が来るのは毎日ではない。週に一回来るか来ないか、という程度である。美術部の活動自体が週に三回だ、そう思えば多い方なのだろうか。
 回数を重ねるうちに、彼との会話が僅かに増えていった。天気の話であったり、朝のニュースについてだった。当たり障りのない、初めて会った誰とでもできるような言葉を交わしていただけだった。 
 しかし、彼との会話は内容の割に薄っぺらさを感じない、きちんと実のあることを話したような気になった。ひとと話しをした、という充実感を俺に与えた。なんでもないことを彼が、とても上手に話すからかもしれない。
 それ以外に彼が来るようになって変わったことと言えば、石膏の出し入れが楽になった、ということぐらいだろう。
 その日は、前のヘルメスと同じように教師用の机の上にマルスを置いていた。どの角度で描こうか、とマルスの周りをぐるぐると歩く。その度にそれの角度をずらしては唸っていた。まあ、これでいいか。悩むこと自体、面倒臭くなり角度を決める。

 「やっぱり、きみだけ?」

 美術室の入口から声がかけられた。振り向かなくとも、彼が扉の縁に手をかけて、半身だけを覗かせているだろうことは分かっていた。
 マルスから目を離すことなく答えた。

 「ああ。もちろん」

 俺しかこの部にはいないのだから当然だろうと、付け加えて少し後悔する。なんだかやけに偉そうな響きになった。しかし、彼は特にきにすることもなく、あっ、と声を上げマルスを指差していた。

 「今日はヘルメスじゃないんだ」
 「前のがヘルメスだって知ってたのか?」
 「なんかで見たことあったなぁとは思ってたんだよな。ホンモノは足までしっかるあるだろ? だから、最初見たときは分からなかった」

 彼はひょい、といつの間に教卓に腰掛けてマルスの隣に並んだ。マルスの肩に軽く頬杖をついて、俺を見た。彼は俺を見下ろす形に、俺は彼を見上げる形になった。まっすぐ目が合ったのはほんのわずかな間のことで、彼はすぐにマルスの首や兜をまじまじと見ていた。そんなに顔を近づけると埃でくしゃみでも出るんじゃないかと心配なほど近い。彼のツンと通った細い鼻先がマルスの青白い石灰の肌に掠りそうだった。
 ふと怪訝そうに目線を上げた。黒いジャージのジッパーを下げて、Tシャツの襟ぐりを掴んで仰いでいた。暑いのだろうか。
 俺自身、ジャケットもセーターも脱いで、シャツの上からエプロンをしているだけの軽装だし、この部屋は暖房が効き過ぎているのだろう。
 軽そうだが、熱が逃げなくて暖かそうなウィンドブレーカー。それを脱いで、彼は長袖のTシャツ姿になった。運動部らしい、というのか、スポーツをしているひとらしい、しっかりとした体つきだった。

 「どうかした?」
 「あ、いや……暖房が強いかなって」
 「オレ、暑がりだから」
 「下げようか?」

 暖房のスイッチを目線で指す。彼は首を横に振った。そして、一瞬、ぱちりと目が合った。すぐに逸らされ、互いにマルスを見た。

 「いいよ、気にしないで描いて」

 さっきの俺みたいにマルスだけを見ながら答えた。
 彼の目はまっすぐにマルスを捉え、それだけが映っている。
 ぼんやりと彼の横顔を見ながら、鉛筆へ手を伸ばした。
 彼の横顔は整っていた。

 「オレが邪魔って、言えよ、きみ」

 彼は小さく吐息だけで笑った。苦笑いだった。つま先を鳴らして、机から降りた。すぐ近くの椅子を抱えて、俺の視界に入らない位置へ。
 何も答えられず、背後に移動していく彼を追うこともできず、鉛筆を握りしめた手にだけ力が入っていく。早く、早く何か描き始めないと、そう思えば思うほど最初の一筆がためらわれた。そっと深呼吸をして、描き始めた。
 いつも通り筆が乗ってきて少しした時、ちらっと後ろを見てみた。
 彼はまたマルスへ視線をやっていた。


 一時間も描いた頃だろうか、後ろからごくごく小さな寝息が聞こえてきた。
 彼が寝たのは、今までで初めてだった。
 ただ黙々と他人が描いているのを見るなんて、描くことが好きでもなければ、つまらないだろう。そもそも観察対象が俺では、さらに面白くもなんともないだろう。ヘルメスは知っていたようだが、特に彼は美術に興味があるようには見えなかった。
 よく、一度も寝ることもなくこんなところで黙っていたものだと改めて感心した。
 首を後ろへ回すと、彼のつむじが見えた。背もたれのない椅子だ、寝心地は良くないだろう。足の間に置いた両手を突っ張って、舟を漕いでいた。
 こっくりこっくり、と規則正しく頭を揺らすさまをぼうっと見ていた。たまに肘がかく、と曲がりそうになるが、起きる気配は一向にない。どうしてか、ずっと見ていても飽きが来ない。寝ているひとをこうもまじまじと見る機会はないからだろうか。
 窓から入る日暮れ前の光はまだ明るい色だ。あと少ししたら、ねっとりした濃い色になる。照らされた彼の髪は陽の光だけではない赤みを帯びた焦げ茶色をしていた。
 寝ている顔には表情がない。眉にも口角にも感情はなく、そこに喜怒哀楽のなにも存在しないのに、確かにそこには安らぎはあった。目を閉じる、というたったひとつの動作にそれが現れるのだろうか。不思議なものだ。
 あ、と思ったときには遅かった。もう何度目かになる、肘がわずかに震えて戻る、という一連の動きが崩れた。今度こそ、がっくん、と唯一の支えだった肘が緩んだのである。
 頭からぐらりと上半身が傾いた。落ちる! と、思ったら、両足が連続して踏み出された。だだんっ、と足裏が鳴る。そして、勢いよく体を起き上がらせた。
 着地を成功させた体操選手か、と言いたくなるような真っ直ぐに挙げられた両手で体勢を保ったのは明白だった。
 彼は万歳のまま、ぱちくりと目を丸くしていた。
 全てが刹那のうちに騒々しく終わっていた。本当に一瞬のことだった。むしろ目を丸くしたいのは俺だ。

 「……?」
 「大丈夫?」

 目の前の俺を捉えると、動きが止まった。寝ぼけているのだろうか。あんなに前傾した体勢を寝ぼけていても反射で持ち直せるような体には恐れ入る。反射神経なのか筋力なのか、その両方なのか。

 「オレ寝てた?!」

 言い切る前に持ち直した上半身の勢いそのまま立ち上がった彼の後ろで派手な音を立てて、椅子が倒れた。 
 と、同時に彼も倒れた。
 あっ、と俺が声を漏らすよりも早く、倒れそうになった椅子を、引き戻そうと体をひねり腕を伸ばした彼。椅子が倒れる前に止めようと思ったのだろう。しかし、間に合わずに椅子もろとも床に倒れ込んだわけである。
 どんがらがっしゃーん、という派手な音にも驚いたが、前転から受け身を取理、椅子を避けるように転がった彼にも驚いた。さらに、間髪入れずに起き上がったことにも。
 猫みたいだ、なんて思ったのは少々のんきすぎかもしれないが、身軽さやしなやかさはまさに、といったところだ。

 「ごめん!」

 椅子を起こして、ぱしっ、と両手を合わせた。
 全く、せわしないひとだ。
 俺に謝る必要はなのでは、と思ったが、彼は俺の邪魔をしてしまったと考えたのだろう。

 「いや、べつに。それよりも、いろいろと平気か……?」

 見間違いでなければ、彼は、後ろにあった机に腕と頭をぶつけていたようだった。椅子の音が大きくて、どの程度の強さで打ったのかは分からないけれど、それなりに痛めているだろう。
 いつの間に椅子を起こしたのか、椅子にきちんと座り直している彼。俺は彼の正面に向き直す。そして、その腕を引っ張る。Tシャツの袖をそっとまくって、傷の有無を確認した。
 ぶつけたのは右腕ではないようだ。袖を戻して、左腕も同じようにする。袖の下、手の甲から肘下あたりまでが、ぼんやりと赤くなっていた。
 何も考えずに痛そう、と呟いてしまった。

 「……痛く、ない」
 「なら、よかった」

 ちら、と視線を上げると、彼の口は何か言いたそうに半開きだった。
 突然触ったから、驚かせてしまっただろうか。
 短い前髪の下、額の上の方も赤かったのを見つけ、じっと、彼の顔を覗き込む。打ったのは後頭部だったと思うのだが、額もぶつけていたのだろうか。

 「でも、ここも……」

 赤くなってる、と続けようとして彼の額へ指を伸ばした。すぐさま、彼が慌てて、額を手のひらで隠す。
 俺の手が触れたのは彼の額ではなく手の甲だった。

 「ほっとけば、引くからっ。 気にしないでいいっ!」

 強い語調に反して俺の手を優しくやんわりと押し戻して、彼は椅子を一歩後ろへ引いた。本人が言うのだから平気なのだろう。
 頷いてから、俺は鉛筆を握り直し、マルスを見た。
 悪いことをしてしまっただろうか。急に赤の他人に触られたら気色悪いだろう。
 謝るタイミングを逃してしまったことを、若干悔いながら、えんぴつを滑らせることに集中した。



 「やっぱり、ひとりだ」

 と、どこか上機嫌そうに彼はやってきた。
 仕舞うのは手伝えないんだ、と言いながら彼はマルスを棚から取り出すのを手伝ってくれた。先日の続きのマルスである。実は、飽きてしまって、別の石膏を昨日は描いていた。昨日、彼はここへは訪れていないので、もちろんそんなことは知らない。
 遠慮がちに「もしかして、進んでない?」と問われた時は驚いてしまった。
 初めて、彼が「見ているのだ」ということを実感した。
 はじめから他に何をしていたわけではなかったし、彼は常にこちらを向いていたのだから、当然ではあった。そもそも彼は俺が描いているのをに見に来ているのである。特別強く意識するというわけでもないが、そう思うと僅かに背筋が伸びるような緊張を感じた。
 触ってもいいのかな、と彼が呟いた。
 そのつぶやきは突然だった。
 振り返って、見る。
 彼は椅子をがた、と鳴らして、俺の隣に並んだ。椅子を持ったまま神妙な顔つきだ。座っている俺は、彼を斜め下から仰ぎ見る形になった。

 「運ぶときとか触ってるじゃないか」

 いまさら何を言っているのだろうか。そんな思いが顔に出てしまったのか、隣に立った彼が、首を少し傾げて苦笑いして見せた。

 「なんかこう、違う気がするんだよな。こいつって、いま、きみに描かれるためにここにいるわけで、運ぶときみたいに触
らざるを得ない状況じゃない」

 言いたいことはなんとなく想像がついた。しかし、本当にその想像が彼の思っていることと同じかどうかは自信がない。
 どの石膏も、どこにでもあるレプリカであれど、原型はきちんとした美術品にほかならない。
 それらは本来は絶対に触れることのかなわないものだ。
 触れられないはずのものに、触れる。
 不必要に、無駄に、意味もなく触れる。
 それは、おかしなことだ。
 悪いことをしているわけではないのに、いつだって心の底に罪悪感のようなものがあった。
 俺と同じであると仮定するならば、そういう意味ということになる。
 損も益もないことをする、その根本にはきっと、本能が潜む。全てを突き詰めて、説明ができなくなったそこは、どうしようもない本能だ。
 科学的な探求心さえも「どうしようもない」本能からくる欲求だ。そんな内容の本をついこの間読んだことを思い出す。
 俺がなにも答えなかったからか、彼は気まずそうな表情をした。ごめん、と彼はなにも悪くないのに、そう口を動かした。聞こえなかったけれど、そう言おうとしたのだろう。遮るように「そうだな、俺も違うと思うよ」と遅れて同意を示す。

 「きみは? 触ったことは?」

 抱えていた椅子を脇に置いて、彼は身を乗り出すように俺の方へ顔を寄せた。

 「……あるよ」
 「それって、ヘルメス?」

 するり、と俺の手からえんぴつを抜き取って、マルスの斜め前に立つ。彼とマルスがちょうど視界に収まっていた。
 ぺちぺち、とマルスの背を軽く叩き、人差し指と中指をぴたりとくっつけ、その腹で途中までしかない二の腕の筋肉のラインをゆっくりと辿った。

 「どうして?」
 「この間描いてたのがヘルメスだったから」
 「はは、なにそれ。マルスも触ったことあるよ。触ったって上手くなるわけじゃないけど」

 彼はどうしてか、まっすぐにこちらを見ていた。ぴたり、と動きを止めて、焦げ茶色の眼も動かなかった。
 もはや凝視に近い視線は、不快に感じられなくもない。

 「オレにはとても上手に見える、けど?」
 「え、俺が? もっと上手い人、いるよ。むしろ、下手だ」

 少しむっ、とした。
 ふうん、と興味なさげに流されたからだ。話を振ったのは彼であるはずなのに。下手だと言ったのは自分なのだから、勝手なのも、そして事実なのも重々承知だが。

 「マルスもギリシャ神話の神さまだっけ?」

 たぶん、と答える。
 マルス「も」というのは、ヘルメスがギリシャ神話の神であることを受けての「も」なのか。
 彼の手がたまにつっかえながら、マルスの脇腹を下っていって、台座まで降りてきた。そういえば、と言わんばかりに握ったえんぴつを顔の前まで持ってきて、腕を水平に伸ばした。そして、片目をつむって、微笑んだ。

 「実際にやるんだな、こういうの」

 この間きみがやってるの見て、本当なんだなって。
 ぴん、と伸ばされた彼の腕には綺麗で滑らかな凹凸があった。布に覆われていても、影がそれを顕していた。
 彼は、えんぴつを「はい」とこちらへ差し出して、もう一度引っ込めた。

 「邪魔してごめん。追い出してもいいよ」
 「追い出さないけど、えんぴつは持っていかないで欲しい」
 「あはは、きみは優しいね」

 このくらいで怒るほど、神経質で狭量な人間だと思われていたのだろうか。
 返ってきたえんぴつはわずかに温かい。木のぬくもりと彼の体温なのだろうか。
 冷え性のせいで指先が常時冷たい俺には縁のない温かさだと思いながら、それを握り直す。
 彼は、もう一度、ごめんとこぼすように言って、美術室を後にした。
 今日中にマルスは終わらせてしまいたかった。
 嫌い、というわけではなかったが、何日もにらめっこしていられるほど、好きなわけでもない。ヘルメスであれば、何日でもにらめっこできるかもしれないが。
 次は、石膏じゃなくてガラス瓶でも描こうかな、と考えていた。
 色々なモチーフが、教師の机の上には無造作に転がされていた。
 たまには石膏以外も描きたくなる。


 マルスを終わらせた次の日。ガラス瓶をぼんやり描いた。その次の部活には珍しく美術教師がやってきて、小さなかぼちゃを置いていった。それを描いて、またすぐに石膏が描きたくなった。
 やはりここはヘルメスだろうか。
 石膏が並んだ棚の前でぼうっと悩む。

 「ひとり? あ、今日こそヘルメスの日だろ?」

 決め付けたような言い方をする。
 首だけ回して、彼を見た。にやり、と意地の悪い笑みがそこにはあった。
 悩んでいるようで、はじめから心はヘルメス一択だったような気もする。彼の言葉が図星だったので、なんだか悔しかったが大人しく頷いた。
 はじめて、こんな中途半端な時間にやってきた彼。
 リュックを放り出して、「手伝う」と小走りで机の間を抜けてきた。すぐ隣でヘルメスを見つめた。その視線がやけに熱っぽく見えた。気のせいかもしれないけど。
 台座に手をかけた彼がせーの、と声をかけた。ずっしりと腕にヘルメスの重さを感じる。目の前は明るい灰色だ。ほこりの微かに甘いような匂いが鼻先をかすめた。
 気付くと、彼はすぐに自分の方へと重さをかける。挙句の果てには、

 「オレがひとりで運んでもいいのに」

 と言う。
 確かにそうしてもらえば助かるのだが、描く人間として運びたい、と思うのだ。彼の方が力があるのも事実ではあるが、女子でもないのにそこまで甘えるのもおかしい。そもそも、俺ひとりで運べるのだから。
 沈黙から何を読み取ったのか、彼は、「一緒に運ぶのが嫌なわけじゃないから」と少々、見当違いの返答をした。
 もう一度のせーの、でヘルメスを机の上に置いた。
 どの角度にしよう、と考えているうちに、いつの間にか、彼が教室の後ろからイーゼルを持ってきて、組み立てていた。

 「三脚、これでいい?」
 「ああ、ありがとう」

 彼は「三脚じゃなくてイーゼル……?」と極々小さな声で漏らし、首を傾げた。木の椅子を鳴らして、定位置に大人しく座ったようだった。
 久しぶりのヘルメスは楽しくて、筆が進んだ。どのくらい描いていたのだろうか。
 ふと、彼を振り返ってみた。
 彼は真面目な表情で紙上の描きかけのヘルメスを見ていて、俺が振り返ったのに気が付くと爽やかに笑って見せた。
 俺が背を向けている間に彼は、あんな表情をしていたのだ。知らなかった。
 彼は、俺には決して真似のできないような屈託なく、心から笑っているということが伝わってくる笑顔をよくする。その表情が印象深くて意識することは少なかったが、彼の目はどちらかといえばつん、と少し吊っていて、決して鋭い目つきというほどではないが、穏やかな顔つきはしていない。
 特に、ヘルメスを見る時は、その目を細める。笑いかける時のような優しい雰囲気ではなく、何かを我慢しているかのような、険しい目線を送る。
 その目を盗み見る時、ぞくっと何かが体を走る。言いようのない思いに駆られるのだ。
 あの目が、ついさっきまで自分の背に向けられていたのだろうか。
 なあ、と呼ばれた。
 驚いた。そして、返事をし損ねた。しかし、彼は普通に言葉を続けた。

 「きみはヘルメスが好きなの?」
 「……石膏の中だと一番好き、だな」
 「描いてる時の顔がなんか違う」
 「え、違う?」

 頷いて彼は、「本当に好きなんだな」としみじみ呟くように言った。そして、たまに考え込みながら、ヘルメスについて少し語った。途中で、目が合うと、照れたようにはにかんだ。
 ヘルメスは、ゼウスの子であり、生まれたばかりから嘘をつき、アポロンを謀った。泥棒の才能を持ち、神々の伝令係をやった、商人や旅人の守護神でもある。
 生まれて早々嘘を吐いたことなど、有名な逸話を話した。

 「……って、感じで合ってる?」

 まるで、暗唱テストを受けているかのようで、詰め込んだものを、なんとか引っ張り出しているようだった。時折、宙をさまよう視線とつっかえながらの物言いに、これは付け焼刃だな、と思う。

 「どうして、俺がそんなことを知ってると思うんだよ。まあ、うん、合ってるけど……」
 「あ……! なんだろう、知ってるって決めつけてた。ごめん!」

 目をまん丸く開いて、しっぽを踏まれた猫のような驚きっぷりだった。むしろ、そんな彼の表情にびっくりだ。
 自分の中だけで疑う余地もなく半ば常識的になってしまっていることは、たまにある。
 彼にとって俺はそういうものだったのだ。ギリシャ神話に詳しそうな人間に見えていたのだろう。
 ヘルメスについてもギリシャ神話についても話した覚えはないのだが、そんな印象がつくようなことを言っただろうか。

 「ああ、いや、気にしないで」

 しかし、彼よりも詳しいのは、どうも事実のようだった。あながち間違いでもないとなれば、彼は謝り損だ。

 「他にも、あんまり有名じゃないのかもしれないけど、目が百個ある怪物を倒したり、かっこいいことも割としてる」
 「ああ……そうだ、イオを助けたんだっけ、忘れてた」

 やはり、何のためかは分からないが、ヘルメスについての知識を頭に詰めてきたようだ。
 彼は、ヘルメスの頭に手を置いていた。教室の照明を受ける白いうなじに指を這わせる。その指先にひきずられるように俺は視線を移し、彼の手を追った。
 彼は石膏をよく触る。
 ほこりっぽくなったのか、手を軽くはたき、ヘルメスに背を向けた。結果的に彼は俺の正面に向く。その目は更に後ろへ遣られていた。

 「君も、ヘルメスが好きなのか?」

 ぽろ、とこぼれた。ずっと喉の奥に引っかかっていたもやもやが形を確かにした瞬間だった。そして、形を得ると同時にうっかり出てしまった疑問。
 反応に困るようなことを言ってしまったか。
 気になっていた。
 彼にとって、ヘルメスは特別なように思えてならなかった。
 ヘルメスを知っていたのも、ヘルメスの話を振ってくるのも、彼がヘルメスに何か思うところがあるからではないのか。あってもおかしくない。それが、好きという思いかどうかは分からないが。
 彼は、頬をかきながら、目を瞑った。長い瞬きだった。
 茶色い瞳はこちらを向かず、足元に置かれたリュックに手を伸ばして、上半身を倒した姿勢で止まってしまった。いや、あの、と言葉を撤回しようと口を開いたところで、彼は首だけでこちらを見た。
 やけに穏やかな表情で、困ったように眉を寄せていた。少し頬が赤くて、照れているようにも見えた。

 「ヘルメスって頭いいんだろうな」

 リュックを片方の肩に引っ掛けた。側面にぶら下がったカラビナががちゃ、と鳴った。
 はぐらかされてしまった。深く追求しようという気持ちにはならなかった。答えづらいだけなのか、言いたくないのか、どんな理由であれ、彼に答える義務はない。

 「それはまあ、そうだろうな……。機転がよくきくし、嘘をつくのは簡単だけど、そっから騙し通すとなれば、やっぱり頭が切れてないと難しいと思う」

 だよなぁ、と彼は呟いて、俺の横を通り抜けた。最後に「また来る」とひらひらと振られた手の先だけが、ドア枠の向こうに見えていた。









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