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   君たちの恋人が、遠くへ去ったために、不実のために、あるいは死んだために失われたとして、もし、君たちがそのひとのために悲しんでいるだけなら、君たちに進歩ありません。たとえ、君たちがそのためにどんな技巧と才能を傾けても、そんなものには少しも価値はありません。前進する生命を頼みにし、おりあるごとに自分を吟味することを忘れぬようにしたまえ。
ヨハン・ヴォルフガンテ・フォン・ゲーテ






 窓から差し込む夕陽が部屋の中のほこりをはっきりと浮かび上がらせていた。それは、暗く濃いこがね色にきらきらと光って見えた。窓の外へと視線を向ければ、赤と紺がグラデーションを成し、その中間地点は淡い紫とも桃色とも取れないような色を見せていた。
 冬は日が暮れるのが早い。
 ついさっきまで、日は高かったような気がするのにあっという間に沈んでいく。今もなお、速いスピードで沈み続けている。
 ここまで暗くなっていることに気が付かないほど集中していたのか。にわかに信じがたかったが、少々、驚く。明かりが十分でないところで作業をしていたせいか、眼球の奥の方が痛かった。目を瞑ると、じんわりと痛みが広がった。
 教台の代わりの机の上に置かれた、白い石膏も影を濃くしていた。側面は橙色に染まり、日暮れに合わせて色のコントラストを強めていく。
 数十秒前まで見ていたそれと、全く異なった表情をしている。
 よく続けて描くことができたと自分でも感心したが、思えば途中からほとんどこの石膏を見もしないで自分の思うように好き勝手に描いていただけだ。ある意味、当然だった。
 しかし、今にでも廃部しそうな美術部と俺にはあまり関係のないことだった。
 何をどんな風に描こうとも咎めるものはいない。指導者がいるわけでも目標があるわけでもない。そもそも部員が俺ひとりしかいないのだから、いつ同好会まで格下げされたとしておかしくないような状況。
 スケッチブックを閉じて、机の上に転がっていた鉛筆やらを筆箱に仕舞う。二人で並んで使用する長机は実験室と同じような黒塗りだ。滑らかなようで凹凸が多い表面に、触れる。きっと指先の表面と温度が変わらないのだろう、冷たさも暖かさも感じることは出来なかった。
 たったひとりで使うには広い教室は暖房でしっかりと暖められている。乾いた空気と部屋の天井の方に上がったきりだ。その熱が頬ばかりを火照らせた。
 机の上のものをひとまとめにし、完全に暮れ切った空の色が溶け込んだような室内を見渡す。影にすっぽりと包まれていながらも、石膏の白さは照明のついていない室内でうすぼんやりと発光しているようだった。
 その石膏の正面に立ち、まっすぐ見つめる。
 石膏の奥に畳んであった厚手のビニールを手に取った。ビニールをかけてから棚に戻すのだ。稀に。
 大抵、忘れていて、ふと思い出した時にだけそれをする。きっと次も忘れているだろう。だから、いつもヘルメスは、いや、その他どの石膏もうっすらと白いものを積もらせている。ビニールの下にあった乾いた布で軽くほこりをはたくようにした。薄い布の下から固い触感が伝わってきた。
 手を止めて、入口の扉を見た。
 建て付けの悪い木製の扉は暖房がついているにも関わらず、全開だが、そこから見える廊下に人の気配はなかった。動きを止めると、本当に何の音もしなくなる。時折、風が吹いて、窓枠ががたり、と鳴るくらいだろう。
 机に両手を突いて、ほんの少し背伸びをした。台座があり、サイズもいわゆる人間のよりも大きめに作られたその石膏――ヘルメスは遠かった。
 どこを見ているのか、僅かに俯くその角度に合わせて、首を捻る。重力に負けた前髪が視界を僅かに遮った。
 冷たく硬いものが、くちびるに触れる。
 体を離し、ひんやりと冷気をまとったくちびるをそっと指で撫でた。
 くちびるよりも自分の親指の方が冷たかった。
 ビニールをかけた石膏の下に手を滑り込ませ、自分の胸にもたれかけさせるように抱える。これがまた、ずっしりと重いのだ。しかも、落とすと簡単に砕け散りそうだ。
 棚に戻して、ほこりや消しカスで白っぽくなったジーンズ生地のエプロンをゴミ箱の上ではたく。教室奥の石膏が収められている棚と乾燥棚の間にひっそりとゴミ箱が置かれていた。当然のごとく、誰も使っていないようでゴミ箱の中のゴミがほこりを被る始末だった。教室の前にもきちんと設置されているので、生徒はそちらしか使わない。きっと、俺以外はこんなところにゴミ箱があることを知らないのだろう。
 乾燥棚をぼんやりとのぞき込む。一年生の美術選択の生徒の絵だろう。俺も去年同じものを描かされた。人によって構図は違えど、見ているものは同じなのだからぱっと見た感じはみんな一緒だ。見始めた段から三段下に去年の自分と構図がほぼ同じものを見つけた。幾ばくか、俺の方が上手いとは思ったが。
 もう、最終下校の鐘が鳴る。
 学校側の都合で最終下校の時間が繰り上げられていた。普段通りならば、日が暮れきってからも当分は部活を続けられる。単純に冬の日暮れが早いだけとも言う。
 エプロンを脱ぎながら、自分の固定席へ。丸めたエプロンはリュックに、筆箱もその上から詰め込んだ。スケッチブックだけは教卓の上に置く。
 持って帰るのは面倒だった。
 持って帰らないのならば、顧問から預かっている鍵で美術準備室を開けて、適当なところに仕舞うべきであった。しかし、やはりそれも面倒くさい。明日の朝にでも気付いた美術教師が仕舞ってくれるだろう。
 暖房を切り、ドアの木枠に雑に打ち込んだ釘、そこに引っかかった美術室の鍵をもって、施錠する。二枚の引き戸は離れていて建てつけが悪く、なかなか鍵がかからない。この扉にはいつも苦労させられていた。

 「あ、まだ閉めないで」

 がちゃがちゃと回らない鍵をどうにか回そうと手元に集中していたところに(他に意識するものが何も無かっただけだが)声をかけられ、思わず横へ飛び退いた。

 「オレ、忘れ物取りきたんだけど」
 「ああ、そういうこと……。すぐ見つかる?」

 たぶん、と答えながら声をかけてきた生徒は部屋の中へ入っていった。
 とりあえず、ドアから鍵を抜いた。鍵の側面の凹凸がひっかかるのを感じた。
 ドアの外から覗くと、さっきまで俺が荷物を広げていた席のあたりを探っていた。
 選択授業があるのは一年生のみであり、ここの教室を使うのは美術選択の一年生か美術部だけだった。
 そこで机に顔を突っ込んでいる生徒は、同じ色の校章を付けていた。
 つまり、同じ学年のはずである。
 少し不思議に思いながらも、当の生徒が「あった!」と声を上げたと同時に鐘が鳴った。正真正銘の最終下校を示すチャイムだった。
 時間がないということは向こうもよくわかっているようで、素早く美術室を出てきた。急いで、扉をガタガタと揺すり鍵を回す。やっと、がちゃり、と音がした。
 「助かった、美術部のひと」
 ありがとう、と階段を駆け降りていった。薄情だと思わなくもなかったが、だからと言って、一緒に鍵を職員室へ返しに行くと言われても断っただろう。返しておく、と言われても断った。見ず知らずのひとに鍵を託すのは少し悩みどころだ。何かあった時に責任と問われるのは俺だろうから。
 悩むくらいなら自分で行く。
 階段下方から響く軽快で鋭い足音はどんどん小さくなっていき、終いには聞こえなくなった。
 急がなければという思いはあるものの、足はゆっくりとしか進まない。チャイムが鳴ってしまった以上、もう間に合うということは無い。
 これから職員室に顔を出すのだからお小言を食らうのは確定している。先に見回りに教師に怒られるかもしれないが、所詮は一回怒られるか二回怒られるか、というだけだ。
 あの生徒は何を忘れていったんだろうか。
 相当には小さいものだったのだろう。何かを持って出ていったようには見えなかった、いや、何かを見つけていったはずなのだから、それこそ、手のひらで握り込めてしまう程度のものだったのだろう。消しゴムとか。
 どうでもいいことか、と廊下にこつりこつり、と上履きのゴムを鳴らした。
 廊下はひんやりとしていて、まるで冷蔵庫の中のようだった。室内だというのに、気を抜くと小刻みに震えだしそうな膝に知らんぷりをした。
 寒さに、自ずと歩く速度が上がった。
 朝、寝坊したせいでマフラーを忘れてきたことを思い出す。朝もかなりきつかった。
 果たして、生きて家に帰ることができるのだろうか……。
 屋内でこの寒さである。風も吹いている寒空の下のことなど考えたくもなかった。
 この季節、自転車に乗る上で最も欠かせないのは手袋であるが(幸い、手袋は忘れていない)、次は首を覆うものだろう。我が校の制服はブレザーだ。学ランならもう少し暖かかったのだろうか。着たことがないから分からないけれど、ブレザーよりも首元が布に覆われていて暖かそうだ。首が苦しいのは嫌だが。
 誰もいない廊下をそそくさと進む。すぐ後ろついて来ているように聞こえる自分の足音に、何ということはなかったが、ぞわりと背中を走るものがあった。
 窓の外には後片付けをする運動部が見えた。ぴったりと閉め切られた窓越しにも声が聞こえてくる。何を言っているのかは分からなかったけれど、その大きさと見える人の動きが一致していて、面白かった。誰が言葉を発しているのかくらいはぼんやり分かるのだ。
 きっと、下校時間の繰り上げを忘れていたのか、敢えて無視をしたのか、どちらにせよ、今の自分と同じように最終下校に間に合わず、慌てて片付けをしているのだろう。
 階段を下り、渡り廊下を越え、角を曲がるとすぐに職員室だ。そこだけ煌々と明るい。暗い廊下に白い光が漏れ出していた。
 扉をノックして、一番近くにいた教師に鍵を押し付けた。小言を言われる前に帰れそうだ。半ば逃げるように職員室を後にした。
 これ以上寒くなる前に帰りたい。
 やはり、マフラーなしでは無理だ、これは死ぬ。
 帰り道を思い、ため息をつく。ふわり、と白く散った。
 靴を履き替え、駐輪場に出る。自転車がまばらに置かれていて、なんとも物寂しげだ。手袋をはめて、ズボンのポケットから鍵を出した。ちりん、と銀色の鈴が鳴った。

 「あ、さっきの」

 誰もいないと思っていたから、どきり、と心臓が鳴った。
 斜め向かいくらいに停められていた自転車に手をかけていた。ついさっき、美術室に忘れ物を取りにきた生徒だ。いつの間にそこに現れたのだろう。全く気が付かなかった。
 同じ人間に二回も驚かされてしまった。

 「どうも」

 声を掛けられてしまっては、応えざるを得ない。
 その生徒、彼は薄く微笑んで、まっすぐにこちらを見ていた。
 もしかして、実は知り合いだったりするのだろうか。そんなことを考えるくらいには、何かを含んだ視線を向けきている。
 しかし、確実にこの生徒を知らない。
 駐車場の屋根の下に明かりはない。暗がりの中で、彼はどこか一点を凝視していた。
 そして、なあ、と呟くように言った。

 「くび」

 指を差した。もちろん、こちらへ向けて。

 「くび?」

 釣られて俺も、俺を指差してしまった。ぐるり、と手首を回す羽目になる。

 「それで帰るの?」

 この寒さなのに、という言葉が聞こえてくるようだ。

 「あ、ああ……。今朝、マフラー忘れて」

 自転車のハンドルに手をかけたまま、顔を見合わせた。数秒して、これ、とその生徒は自分のネックウォーマーをずぼり、と脱いだ。首を傾げて応えると、使って、ともうひとこと。
 色々と驚いた。
 こんなにも寒いなか、これから自転車で帰ろうという人が貸すものではない。
 まず、ものを貸し借りする関係ではない。
 君は誰だ。

 「明日も美術室、いる?」
 「いる、けど」
 「じゃあ、そのときに」

 ぽん、と放るように渡して、あっという間に門から出ていってしまった。手の上のネックウォーマーはぼんやりと暖かいような気がした。手袋越しなので、思い込みかもしれないが。
 少しの間迷ったが、背に腹は代えられない。せっかく、貸してくれたのだ、使わないのも申し訳ない。
 手元から一度、彼が消えていった門へと視線をやった。そして、それを被った。
 ぬくぬくと首のあたたかさにため息が溢れる。幸せだった。鼻の上まで引っ張り上げて、自分の呼気に満たされた狭い空間に安心する。
 すぐに知らない柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐり、他人のものだったことを忘れかけていた自分を律する。首までネックウォーマーを降ろし直し、指を組んで、しっかりと手袋をはめた。
 さっさと帰ろう。
 ペダルに乗せた足に力を込めた。




(2015/04/30 23:23:54)
(2017/05/22 23:42:36))


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