人魚は炭酸水じゃ生きられない(上)【宮地清志】


「水泳、やめたんだな」

何年かぶりに会った友人は、そう言った。久しぶりだな、のひと言もなかった。ちなみに私は、久しぶり、って話しかけたわけだが。
中学生の頃以来、はじめて会うかもしれない。たぶん、そのくらい。はや5年。言葉だけだと、そこまで久しぶりという感じもない。
しかし、子供の5年は長いのだ。しみじみとその長さを感じる。
背は元から高かったが、その後もまだまだ伸びたようだ。全体的にしっかりした体格になってもいる。なんだか、重そうだなぁ、という感想は筋違いだろうか。
変わらないのは、顔だ。会わなくなった頃と変わらない。大きめの瞳も少し癖があって、ふんわりと柔らかそうな髪も、明るい色のままだ。夕陽に照らされ、深い色を示した瞳は眩しいとでもいうかのように細められた。
ともすれば、女の子と間違われていた頃は遥か彼方のようで、このデカさでは、誰がどう見たって女には見えはしないだろう。
その友人、宮地清志は上下揃いの黒いジャージに身を包み、そのジャージのポケットからひときわ明るいオレンジのコードを耳へと伸ばしていた。

「何やってんの?」

返事もせずに顔をぼうっと彼を見ていた。彼はイヤホンを耳から引っ張って、尋ねた。
私の右手にはリードが握られていて、足元ではしっぽを盛大に振り乱している柴犬がいるではないか。愛犬の散歩以外、何に見えるというのだろうか。

「散歩」
「ああ、もうおじいちゃんだよな。ゆきふく」

雪福、というのは我が愛犬の名である。お腹の白くない、真っ黒な雑種だが、姿かたちが柴犬なので、柴犬の血を色濃く引いているのだろう。そんな真っ黒な毛並みに、腹の部分だけ、雪が降っているかのような斑点模様があることから、雪福。腹に雪、から来ているのだ。
しゃがみこんで、雪福の首を撫でている。わしゃわしゃと撫で回すと、雪福は目を細めた。

「ははは、おじいちゃん扱いされてますよ、雪福さん」

わん、とひと吠え。宮地はうっすらと笑った。
そして、なあ、と私を呼んだ。

「アドレスとか変わってる?」
「変わってる……。って、そもそも知ってたっけ?」
「親伝いで聞いてる」

何年前の話をしているのだ。宮地と会っていた頃といえば、二つ折りのいわゆるガラケーですら持っている子供が珍しかった。習い事をいくつかさせられていた私は小学生から持っていたし、宮地も同じようなものだっただろう。
腕に巻き付けるポーチのようなものから、スマートフォンを取り出して私へ向けた。

「QRコード読め」
「実家住みなんでしょ? いつでも会えるよ」

わざわざアドレスを交換するほどではないだろう、と暗に告げてみる。とはいえ、現に5年間一度も会わなかったのだから、それは嘘だ。ここで別れたら、確率的にいえば、もう5年は会うことはないのだろう。

「せっかくの再会だろ、どっかで話さないか」
「なんか必死だね」

私が笑うと、宮地はすぐに目をそらして目の前の雪福を見た。

「いいよ、雪福の散歩付き合ってくれるなら」

分かっている。どうして、私を引き止めたのか。
宮地はどこで聞いてきたのかは知らないが、私に水泳を辞めた理由を聞きたいのだろう。改めて話すほどのことは何もないのだが、そんな言葉であしらえるほど、簡単な相手ではない。ぶっちゃけ、しつこいやつなのだ。

「散歩コースはこっちなのか?」

雪福を挟むように私の隣に並んだ。オレンジ色のコードはいつの間にか消えていた。首にかけたタオルで汗を拭いながら、宮地が今まで走ってきたであろう方向を指差した。

「河原走ってきたの? 河原歩くのが散歩コースなんだけど」
「また、川まで行くのかぁ。まあ、雪福のためだしな」
「私と話したいからでしょ」
「それ2割、雪福との時間のため8割ってとこだな」

ふうん、と流す。私が言い返してくるだろうと予測して、更にそこに言い返そうと思ったのだろう、勢いよくこっちを向いた。私が流したので、宮地は少々、不満気にそのまま口をつぐんでしまった。
そのまま、黙々と歩くこと5分。

「誘ったのそっちでしょ、なんか話して」

沈黙に耐えられなくなったのは私だった。宮地を睨みつけるように、じっと目線を送る。

「あー、どこの大学行ってんの?」
「聞いて驚け、W大学の文学部」
「はぁ?! お前のがいいとこ行くとは思わなかった……泣きそ」

失礼なやつだなぁ。確かに宮地よりもずっと勉強はできなかったわけだが、それも小学校までの話。あの頃に成績なんて、なんの参考にもならないだろう。
今はっきりしたことはひとつだ。宮地が何年間もの間、私のことをずっと馬鹿だと思っていたということ。

「そういう宮地は?」
「オレはM大の理工学部ですよー」
「うーん、お互いなかなかのところ行きましたな」

嫌味か、と宮地も睨み返してきたから、たぶん、第一志望ではなかったのだろう。じゃあ、あんまり頭の出来は変わらないんじゃないかな。

「あ、裕也は?」
「アイツはA大。ていうか、オレのことは宮地なのに、裕也は裕也のままかよ」
「なんの話?」
「名前だよ、名前」

ああ、と頷く。そう言えば、そうかもしれない。特に理由はないのだけど。

「清志って呼ばれたいの?」

仲間はずれが嫌なのは相変わらずなのか。こんなデカい図体して、中身は小学生の頃から変わらずとは。私だって、あの頃ほど馬鹿じゃないというのに。

「いや、宮地なんて呼ばれたことねえし」
「前会ったときには、宮地って呼んだけどね」
「まじで? 記憶ねえな……」

うーん、と考え込みはじめた宮地をよそに雪福は上機嫌に歩を進める。私の歩く速度が遅いのがじれったいのか、私の顔を何度も見上げた。
水泳を続けていたら、今も一緒に走っていたのだろうけど。雪福の真っ黒な瞳を見つめ返しながら、宮地に気付かれない様に小さくため息をついた。


私が宮地と弟の裕也に出会ったのは、幼稚園に通っていた頃だ。私と宮地は年長さんで、裕也が年中さんだった。
親の意向で随分小さい頃からスイミングスクールに通わされていた。その頃の記憶はおぼろげだが、基本的にいつも楽しんでいたと思う。ただ、プールに行くことがあまりにも日常的過ぎて、そこに何かを感じるということが少なかったような気がする。
そのスクールでは、階級というかクラス分けのようなものがあって、テストに合格していくとワッペンがもらえ、クラスが変わるというシステムがあった。そのワッペンは水泳帽に縫い付けるのが基本で、飛び級なしの一番下のクラスから積み上げてきた私の水泳帽はワッペンでいっぱいだった。年の割には、泳げた方なのだろう、意識したことはなかったが、クラスは常に年上の子と一緒だった。そこへ兄弟仲良く現れたのが清志と裕也である。スクールに入学すると共に、レベルを見るために試験する(入った時に泳げれば泳げるほどワッペンの数は減るので、決してワッペンの数が実力を表しているわけではないということだ)。その結果、その時、私がいたクラスに兄弟はやってきた。
ひとクラス、5人とか6人だったと思う。全員で自己紹介をして、清志と裕也も他に倣って自己紹介をした。
清志は私の帽子を見て、

「すっげえいっぱいワッペンついてる」

と話しかけてきたのが一番最初。
そのまま、小学生いっぱいは級を抜かし抜かれを繰り返しながら、週2回のスクールに通っていた。家は決して近くはなかったが、遠くもなかった。ただし、学区は違っていたので、スイミングスクール以外では会ったことがない。親同士は意気投合したせいもあって、家族ぐるみで遊びに行ったこともあるし、互いの家にも何度か行ったことがあった。
私たちは幼なじみ、と呼んでも差し支えない関係だった。
私は清志と裕也、とそれぞれ名前を呼んでいたわけだが、宮地は私を名前では呼ばなかった。裕也は呼んでたかな。水泳帽の私の名前が漢字で書かれていたせいで、宮地は読めなくて、呼ぶことができなかったのだ。読めなくても覚えていた裕也が教えたのだが、その前に私が自己紹介したのに忘れたのか、こんな漢字も読めないのか、とからかったので意固地になって呼ばなくなった。
私はそれについて、全く気にしてなかった。
はじめて名前を呼ばれた日のことは、鮮明に覚えていた。たぶん、相当には嬉しかったのだろう。
それも、うっかり恋に落ちてしまうくらいに。

「はるか、本当のにんぎょひめみたいだな、おれもそんな風に泳ぎたい」

誰でも一回はやったことがあるのではないだろうか、両足をぴたりとくっつけて、人魚の尾鰭に見立てて泳いだみたことが。
今となっては、ドルフィンキックがそれにあたることを知っているわけだが、まだ、バタフライなんて習ってない頃の話だ。
前の日にディズニーの某人魚姫の映画を見て、アリエルになりたい!! とか言いながら泳いでいた時のことだったはず。清志も裕也もその映画は見たことがあったらしい。
ぶっちゃけると、名前を呼ばれたことはどうでも良かった。なりたい、と思って行った泳ぎに対してアリエルみたい、だと言ってくれたこと、ライバルだと思っていた宮地が自分の泳ぎを認めてくれたことが嬉しかったのだ。
そして、遠回しに綺麗だと、言われたと思ったのだ。
自分の泳ぎを綺麗だと評されたと思ったのだ。(容姿どうこうという価値観は互いにまだなかったし、何よりも泳ぎで褒められることが嬉しかった頃だった。)
これが初恋だったと気付くのは、もっとずっと後の話なのだが。如何せん、なまじ運動ができたせいで男勝りすぎた私には好きだとか恋だとかはついこの間まで(は少し大袈裟かもしれないが、)自分とは無関係だった。
宮地への初恋も、さながら人魚姫が泡となって消えるように、時間と共にすぐにどこかへ行ってしまった。
ただ、その言葉を告げられた後の数日は宮地にどきどきして仕方がなかったのだから、やっぱりあれが初恋だったのだろう。
ぼんやりと思い返す頃には「いい思い出だなぁ」と思う程度だった。
中学生になって、宮地は水泳を辞めた。中学のバスケ部に入ったかららしい。私も学校の水泳部には入ったが、スクールは辞めなかった。そうして、裕也も中学に上がると同時に、水泳を辞めてバスケを始めた。
宮地がいなくたって、よくしゃべることには変わらなく、しかし、裕也の口から語られることが次第にバスケのことばかりになっていって「裕也も辞めちゃうんだなぁ」と少し寂しかったことを覚えている。
とはいえ、私も少ししてスクールは辞めた。部活に専念したかったからだ。
こうして、私たちの接点はなくなったのだ。街中でばったり会うなんてことは全くなかった。
中3の時、都大会に出場することはできたものの、大した成績は納めることができず引退をした後だった。友人の彼氏が隣の中学のバスケ部で、しかも、関東大会まで決まったという。観戦しに行くからついて来て、と言われて断る理由もなく大田区の体育館まで行ったのだ。その時は宮地がバスケをやっていることと、隣の中学に通っているという事実が頭の中で結びついていなくて気付かなかったが、ぼうっと試合を見ている途中で見たことがあるやつがいる、と酷く驚いた。宮地はスタメンで、裕也は控えだったのか、時々コートに立っていた。
関東大会では順位に入ることができず、宮地たちの夏はそこで終わったのだ。彼氏に会いにいく、と彼女としての責務を全うしに行った友人に置いてけぼりをくらった私は廊下を歩いている宮地を見つけてしまい、しかも、声をかけてしまったのだ。
ちなみに、自分の引退時には泣いた。電光掲示板に順位の通りに名前が並んだ瞬間は呆然と「ああ、終わったんだな」程度にしか思わなかったが、家に帰ってから、何が悲しいのかとにかくぼろ泣きした。負けて終わる悔しさも、もう部活が出来なくなる虚しさも一足先に全て味わっておきながら、迂闊にも話しかけたのだ。
自分から呼びかけておいて、なんて言っていいか分からなかった。

「え、佐藤……? お前、どうして」
「えっと、山崎くん? の彼女が友達で、その付き添い。久しぶりだね、宮地」
「ああ、うん、久しぶり……」

なんか、カッコ悪いところ見られちまったな、と宮地は頬を掻きながら、私から目を逸らした。その目尻がうっすら赤かったのを見てしまったとき、悪いことをしたような気持ちになった。

「ちゃんと、かっこよかったよ、お疲れ様」
「はは、はじめてお前に褒められた気がする、ありがとう」

慰められた、と言わなかったのは宮地の意地で、八つ当たりしないための冗談だったことはすぐに分かった。返す言葉が見つけられないまま、宮地はチームメイトに呼ばれて、走り去っていった。代わりに友人が帰ってきた。私とふたりになった途端、わんわんと泣き出したその友人は本当にいい子なのだと思う。彼氏が泣かなかったのに、わたしなんかが泣けるか、と半ば怒鳴り散らすようだった。苦笑いでティッシュを恵むことくらいしか私にはできなかった。


「今もバスケしてるんだ?」
「やっぱ、やめられなかったんだよな」

爽やかと形容するしかないような笑みで答えた宮地。
当時の私からすると、水泳を捨ててバスケを選んだのは裏切りに見えた。当たり前のように裕也も連れていったしまったし、私には水泳をやめるという選択肢はなかったし。なかったわけではなくて、どうあがいても思いつかなかった、というだけなのだけど。
おもむろに宮地は私の手から雪福のリードを取った。一瞬、手が触れて、その冷たさに驚いた。

「バスケ、好きなんだね」
「ううー、まあ、そうだな。言っとくけど、全国行ってるんだぜ? しかも、ベスト4」

まあ、納得してるわけじゃないけど、と眉をわずかに寄せて、私に向ける笑顔に寂しさを滲ませた。
すれ違った初老の夫婦が連れていたラブラドールに雪福が駆け寄って、宮地は急に引っ張られて驚いたのか、大きな目を更に大きく見開いて、うわっ、と間抜けな声を出した。
名前を呼べば、雪福はぴたりと足を止めた。名残惜しそうに毛並みのつややかなラブラドールを見送っている。黒い毛並みの側面がオレンジ色に鮮やかに光っていた。
初老の夫婦は微笑みながら会釈をしてくれて、私も宮地も慌てて礼を返した。

「きみはいつまで経っても美人さんが好きだねぇ」

短い足で、きちんと私のペースに合わせる雪福に声をかける。無視されたけど。

「前会ったのって、いつ?」
「本当に覚えてないの? 中3の、」
「ああっ! 引退試合か!」
「きっとそれ」

ぽん、と手を打った。
雪福はその手を見た。

「かっこ悪いとこ見せたな」
「いや、十分かっこよかったんじゃない? かっこ悪いって言ったら、いつだかプールで裕也に水着降ろされちゃった時とか……」

クロールを泳いでいた裕也の腕が、ちょうど目の前に立っていた宮地の水着に引っかかって、そのまま引き降ろされてしまったという、きっと水泳あるある事故だ。
もう、いつの話だかも定かではないけれど。

「ひとが真面目に言ってんのに、そういうこと言うんだーへえー」
「なに、不機嫌? そういうところ変わってない」
「お前も、すぐ茶化すところ全く一緒な」

いい加減に話せと言いたいんだろう。目が訴えてくる。
きちんと聞いてないと、答えてやろうって気にはならないし、そもそも私は言いたくない。
睨み返す。

「……オレのことはどうでもいいんだよ、お前の話」
「私は宮地の高校の話聞きたいけどね。すごいじゃん、ベスト4とか」
「お前のあとにな」
「私の話ってなに」
「面倒くせえのも、変わんねえな」

頭を掻きながら、ため息をついた。
失礼だな。面倒くさいのはどっちだ。
聞きたいことがあるならさっさと聞けってば。

「そんなこと言うなら、絶対に話さない」
「悪かったよ、分かった。水泳辞めた理由、教えてくれ」

お手上げだ、と言わんばかりの呆れたような再びのため息は、どこまでも芝居がかってて、思わず吹き出しかけた。アメリカの映画じゃないんだから。

「大したことじゃないよ」
「嘘つけ、引退でもなくお前が水泳やめるか。オレみたいに別のもんに出会ったなら別だけど」
「何年も会ってないくせによく言い切るね」
「だって、お前、なんにも変わってねえじゃん」
「いつと比較してる? こんなに美人になってるんですけど」
「ほら、また茶化した」

返す言葉もない。うっ、と言葉を詰まらせた私にドヤ顔してきやがった。

「やけどしたの、背中に」

宮地はきょとん、とこっちを見た。

「ケロイドが随分、残っちゃって、水着になるのが嫌になっちゃって」

やけどはただの事故だった。
私はまだ高校1年生で、季節は冬だった。屋上にプールがある我が水泳部はシーズンオフで、どうせ泳ぐことはできなかったのだ。
実際、泳げない期間は結構長かったのだけど、それでも気にならなかったのは、シーズンオフだったからだろう。みんなが陸トレをしていて、背中に包帯を巻いていようと傷跡があろうとも関係がなかったからだ。何食わぬ顔で練習に参加できたのだから。
背中だったから、自分では見ることが出来なくて、見えないものはないものと一緒だと思っていた。

「……やっぱり、女子なんだな」
「うーん、微妙すぎるし、きっと間違いだよ」

宮地は、きっとなんて返していいのか分からなかったのだ。
私だって、なんと言われたいのか分からない。
説明しなくとも、宮地は私が、ケロイドを見られたくないだけで水泳辞めると思っていないだろう。私がそうだった。たかがやけどだった。
治ったら泳げるもので、それがタイムに影響を出すわけじゃない。

「納得した? これだけだよ」
「泳げない、わけじゃないんだよな……?」
「うん、もう普通に泳げる」
「オレが納得してるように見えるか?」

とてもそうは見えなかった。
言いたいことがある。そういう顔だ。
私は首を横に振った。

「何言っても怒るなよ?」
「むり」
「うるさい、言うから。泳げるなら、泳げよ。辞めるなよ。やけど……ごときっていう資格はオレにはねえけど、痛いわけでも故障したわけでもないんだろ?!」
「泳げるよ、でも、もういいかなって思ったから」

嘘ではない。タイムは伸び悩んでいたし、大学受験だって考えていた。辞めるなら、頃合いだと思った。

川沿いの道が、二手に別れた。散歩コースの折り返し地点だった。
同じ距離を、まだ歩かなくていけないと思うと、嫌になる。
馬鹿みたいな理由で水泳を辞めたことを話さなきゃいけなくなりそうだ。

「オレまだ納得してない」
「誰でも宮地みたいに、努力だけでやりたいこと全部成し遂げられたりしないんだよ。私に同じものを求めないで」
「なんだよ、オレの存在、全否定か」
「昔から、やるって決めたら、理解出来ないくらいに努力しちゃうし、結局、全部やっちゃうし、宮地のとなりにいると苦しかったよ。自分もやらなきゃって気持ちにさせられるのに、私は自分に甘いからそんな努力出来なくて、ダメだなって気持ちばっかり募る」

八つ当たりだって、分かっていた。
宮地もそうだって分かってくれてるから、甘えてもいいかな、なんて思ってしまったわけだが、それにしても、ひどいことを言った。
全部、感じたことのある感情だけど。

「お前も、それか。別に求めてねえよ」
「……ごめん、言いすぎた」

突き放されたのが分かった。自業自得だけど。
私がそんな思いを顔に出してしまったのか、私の顔を覗き込んだ宮地が慌てたように口を開いた。

「そんなガキの頃から、オレってそんなだったか?」
「そんなって?」
「オレ見てるとしんどい、ってよく言われるんだよ」
「あの頃よりも、酷くなってるんだったら、きっと宮地のまわりのひとは、辛かったと思うよ」

小学生の頃から、あんなにもストイックだったのだ。成長に指し触らない軽い筋トレとランニングは毎日していた。
宮地はオリンピック選手にだってなれるだろうって、本気で思っていた。
大会に出たら、まだまだ上がいて、東京からだって出られなかったけれど、宮地は速かった。タイムが抜かされ始めた時に男と女だから、違うんだって言い訳した私を疑いもしなかった。
あの頃から、私は宮地に引け目を感じることがあったし、心のどこかで、そのことがバレて、見向きもされなくなるんじゃないかって怖かった。
自分は楽しいから泳いでるだけだって心と、本気で泳いでいた私の「速くなりたい」という心がぶつかっていた。
本音でも言い訳でもある思いがぐちゃぐちゃに混ざって、どうしていいか分からなかった。
宮地みたいに、ひたすらの努力ができなかった自分が大嫌いだった。なんで頑張れないんだって、自分のことなのにどうしようもできないもどかしさがあった。あの頃は知らなかったけれど、あの感情はまさに自己嫌悪だ。
中高生になって、さらに自分に厳しくなったんだろう。想像に難くない。
自分がどんなに頑張ったって、横でもっと頑張られたらどうしようもないと感じるのだ。あの頃の自分が、できることを全てやっていたかと言われれば違っただろうけれど。
中高と、水泳部で楽だった。宮地のような圧迫感を持った人間はいなかったからだ。もちろん、みんな努力していたし、私だってしたし、高校は練習メニューもかなりきつくて家に帰ったら、すぐに眠れるほどに疲れていたけれど。
宮地は、ひとを焦らせる。決して責めているわけではないが、ひとつの事実として、それは揺らぎない。

「まあ、褒め言葉なんだけどね」
「オレのこと認めてくれてるってことだよな。分かってるけど、やっぱ傷つくよ」
「……宮地に並んでいたかったから、言ったんだよ。その人も私も」

宮地と同じところに立っていたくて、でも、できない自分に絶望して、でも頑張ったんだって、可哀想な自己顕示欲が宮地に「見ているとつらい」と言わしめるのだ。
絶対に宮地には分からない感情なんじゃないだろうか。
なんで再会して、すぐにこんな話をしているんだろう。
今までの付き合いの中で、ここまで真面目に話をしたのは初めてかもしれない。くだらない喧嘩に真剣になっていた頃は遠い昔なのだと改めて感じる。

「高3の時、ホンモノの天才が1年に入ってきたんだ。まじでもう、揺らぎない天才な。あーこいつ、バスケするために生まれてきたんだって思うような。本気で、手の届かないものを見たのはあの時が初めてだった。ぜってえ、無理だって、諦めろって、何度も思ったけど、オレは頑張っちゃったんだわ。まじでそいつが、ぶっころしたいほどに生意気だったからな」

突然、なんの話なんだ。

「あいつに張り合うのは、今までで1番きつかった」

実際、敵わなかったんじゃねえかな。オレだって……。
途中で口をつぐみ、宮地は、ばつが悪そうに、音もなく流れる川へと目を向けた。

「あーもう、この話は終わりだ! はるかの話をすんだよ」
「あ……名前、覚えてたんだ」
「お前の名前を忘れるほど、オレの頭は馬鹿じゃないっつーの、佐藤はるかさん」

宮地は、私の頭の上に手のひらを置いた、と思ったらがっちりと頭を掴まれた。そして、ぐり、と首を強制的に自分に向かせた。

「嘘だよ、お前は、どんなに遅くなっても、泳ぐことを嫌いにはならないし、泳がないでいられる人間じゃない」
「タイムが伸びないとおよぎたくなくなるし、後輩に抜かされたら辞めようかなって思うよ、そういうもんでしょ」

こういうところが、むかつく。
自分の価値観でひとをはかってきて、しかし、私の憧れていた宮地の価値観であって、つまりは、宮地の口から告げられる決め付けは全て「私のなりたい私」であり「なれなかった私」なのだ。

「何年、泳いでねえの?」
「部活辞めてからは全く」
「プール行くか」
「嫌だ」
「だよな……やけど、見られたくないよな、無責任だった」
「やけどのせいじゃないけど」
「じゃあ、い」
「かない!!」

けちご主人だなー、と雪福に同意を求めた。

「どうして、泳がせたいの」
「は? もったいねえじゃん、ずっとやってきて、あーなんか違うな……。あのさ、オレさ、はるかの泳いでるところ、見れないの嫌なんだよ。そりゃ、もうずっと見てないけどさ、でも、どっかでお前が泳いでるって分かってて見れないのと、もう絶対に見れないっていう状況での見てない、は全然違うじゃん」
「私が今も、おんなじように泳いでるか分かんないでしょ」
「さっきも言っただろ、何年経ってもお前はお前なの。フォームがどうとかって話じゃないんだよ、きっと犬かきだってお前がやってりゃきれいだとか思えるんだよ、オレは」
「犬かきはどう足掻いても、きれいって形容詞はつらい……」
「茶化すなってば! 部活辛い時とかさ、たまにおふくろがお前のかあちゃんに会ったとか話聞くとさ、あいつも頑張ってんだなって、勝手に励まされたりとかしちゃったわけ!! あーもう!! 恥ずかしいこと言わせんな?!」
「私だって、そうですけど!? 宮地がやってんのにサボれないな、とか思っちゃったことありますけど!?」

宮地の「恥ずかしい」オーラに当てられた。頬の内側が勢いよく熱くなる。熱が一気に登ってきた。
宮地も顔真っ赤だし。

「宮地じゃなくて、前みたいに清志って呼べよ」
「なんで」
「オレだけ、お前のことはるかって呼ぶの、なんかむかつくし」
「なんかもう鬱陶しいし、話してあげようじゃないか」
「まじか!!」
「なに奢ってくれる?」
「区民プールの帰りに、ほら、駅の近くのケーキ屋」
「うわ、プール、本気なの」
「お前が……構わないと思うなら、オレは行きたい」

どうせ、話すのなら見られてもいい。
宮地なら、同情はしないでくれるような気がする。
あの背中を晒すのは嫌だが、宮地と一緒なら気にしないで済みそうな気がするのだ。
あー、期待しちゃってるなぁ。
また、泳げる。プールに入れる。それが、やはり嬉しい。

「清志、散歩ありがと。あとで空いてる日、メールして」
「え、あ、こっちこそ、色々ごめん。ありがとな、楽しみにしてる、プール行くの」

川沿いから道路に出て、交差点で別れた。
別れ際の宮地の表情がちょっと楽しそうで、同じくらい釈然としておらず、複雑だった。もしかしたら私がそういう気持ちだから、それが反映してそう見えているだけなのかもしれないけれど。

「お腹空いたね、雪福」

雪福は目線だけで、同意した。







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