囁きは乙女の秘密


「ねぇ桜乃ちゃん、一つ聞いてもいい?」
「は、はいっ」


是非にと言われ、お夕飯に招かれた夜。良かったら食べていってという言葉に断れる訳もなく、こうしてキッチンで夕飯の準備の手伝いをしていたときだった。
裏返りそうな声を喉に力を入れて堪える。煮物の味を見ている倫子さんが、ちらりとこちらを見た。何を聞かれるのだろうと、心臓がばくばく脈打っていた。


「そんな身構えなくて大丈夫よ」

くすくすと笑う声に、頬に赤が走る。慌てて、手元の包丁を握り直した。危ない。うっかり指を切ったりして情けないところは見られたくない。

そのとき、すぐ後ろで人の気配がした。


「ねぇ、それ落とさないでね」
「ひゃっ!…リョ、リョーマくん!!」

心の声を読まれたのかと思った。居間にいたはずじゃ、と思って慌てて振り向くと、すぐ傍に手元を見る彼がいた。

「うんだから手元」
「あ、はいっ」
「あんた意外に過保護ねぇ」

倫子さんの笑いを含めた声にリョーマくんが顔を僅かに顰めた。


「母さん知らないんだよ。竜崎のドジっぷり」
「あらなぁに、惚気?」

なんだか顔が熱い。無視を決め込んだのか、返答のない隣の存在がくすぐったくてしかたなかった。

「そこにある佃煮、桜乃ちゃんが作ったのよ。味見してあげたら?」
「え!?」

その言葉にぎょっとして倫子さんを振り仰ぐ。次いで、ばっと後ろを振り返って、既に伸びている手に顔がさあーっと青ざめた。思えば和食を好む彼に、洋食ではない料理を食べてもらうのは初めてだ。

伸ばされる手と、もぐもぐと咀嚼する彼を固まったまま見つめる。ぱちり、と箸を置いた彼が徐に口を開く。


「……まぁ、普通」
「ふ、普通…」

ぽつりと告げられた答えに、落ち込む。それはつまり、美味しくないということだろうか。ぐるぐると回る頭の中で、その言葉がリフレインする。

飲み物を取りに来たのか、さっさとキッチンを後にする彼に、隣にいる倫子さんがため息をこぼした。


「我が息子ながら、なんて素直じゃないのかしら。あれ照れてるだけよ、桜乃ちゃん」
「へ?照れてる、ですか?」
「やるわねえ、あの子が好きな料理覚えてるんだ?」

その言葉にかあっと頬が赤くなる。

倫子さんがそれにしても育て方間違えたかしらね、とこぼしながら料理を再開する。それを見て、自分の手元に置かれた和え物を暫し見つめた。


彼が好きな料理はこっそりと覚えていた。知りたくて、いつか食べてもらえたらなと思って、会話の中でたまに溢されるキーワードは大切に心の中のメモに控えて。だから、今作っているこの和え物も彼の好物のはずで、隣でくすくすと笑う倫子さんにはきっと見抜かれているけれど、やっぱり美味しいと言って欲しい。


こうなったら是が非でも言ってもらおうと、手元を動かし始めた。


「ねえ、桜乃ちゃん」
「はい」
「あの子、あんな調子でしょ?素直じゃないし、あの人に似てテニスしか頭にないような子だし」

鍋がことことと鳴る音が響くキッチン。それに穏やかに交ざるように紡がれる倫子さんの声は、心地よくいソプラノの声だった。

手元を見たまま、倫子さんが一度言葉を止める。


「だから、ちゃんとあなたを大事にしてる?」

思わず目を見開く。少し心配気な表情は、母の顔でもあり女性の顔でもあった。ぱちりと瞬かせた瞳が無意識に和らぐ。口許が微笑むように、苦笑いのように緩む。



「大事にしてくれます、すごく。…返せないくらいで」

倫子さんがこちらを見る気配がしたけれど、俯いた顔をあげられそうになかった。


負い目に感じてるわけでも、不安なわけでもない。ただ幸せすぎるのだ。そして、どうしていけば同じくらい、それ以上に返せるのかまだ分からない。贅沢な悩みだと分かっている。


私に、何ができるだろう。テニスで上に行くことを中学生の頃から目指している彼に、もう世界のトッププレイヤーになることを目の前にした彼に、越前リョーマというその人に、私ができることは。


いつの間にか、手元は止まっていた。


「桜乃ちゃんがいるからよ。リョーマが、あんな風に笑うようになったのは」


ぱっと倫子さんを見る。ちらりとこちらを見て微笑んだ倫子さんは、またことこと鳴る鍋のなかを見る。ゆっくりと煮物を混ぜる倫子さんが続けた。


「ほら、あの子今は少し愛想を覚えたけど、それでもまだ無愛想だし素直な子じゃないでしょう?でも、この前あなたたちが二人でいるところを見て、ちょっと驚いたのよ。この子もこんな顔をするようになったのね、って」


「人って変わるものねえ」とくすくすと笑う倫子さんは、煮物の味見をして「よし」と呟く。そしてこちらを見返した。その瞳が、まるで温かい母のような色をしていて、ぐわんと視界が少し歪む。


「きっと、それは桜乃ちゃんがいるからよ。あの子はコートで一人で闘って目一杯テニスを楽しんでコートを出たあと、おかえりなさいって言ってくれるあなたがいることを思い出す。だから帰ってくるのよ、此処に。多分、その顔が見たくてね」
「倫子さん...」



「難しいことはいいのよ。桜乃ちゃんが見ていてくれるって、あなたならどんなときでも。それが、人の支えになったりするものよ」


分かっている。本当は私にできることなんてそんなにない。テニスプレイヤーの彼に必要なことは私が考えても分からないし、彼の周りにいるスタッフが世界に行くために、全身全霊で彼をサポートしている。

私ができることは、せいぜい「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言うことくらいで、リョーマくんにどうしたら役に立てるかなんて聞いたら、きっとすごく呆れた顔をされるだろう。何を言ってるんだと、アンタはオレのスタッフかと。


それでも、果てなく贅沢で私の我が儘だということは分かっているけれど、ただただ越前リョーマという人を支えたい。私に支えられなくたって、彼はいずれ世界の頂点に立つ人だけど、思うことは、止められなかった。


じわじわと瞬きを忘れた瞳に、膜が張って柔らかなオレンジ色をしたキッチンがきらきらと光っている。

ね?と片目を瞑る倫子さんの仕草に、「はい」と笑みを返した。




「で、どこに惚れたの?」
「り、倫子さん!?」










囁きは乙女の秘密(あのね、)








2016.09.14 加筆修正



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