宇宙に広がる青い水


ワンシーンがフラッシュバックする。瞼の上から頬まで伝う紅い滴。コートの上に落ちた何滴もの彼の血。そしてまた頭の中でシーンは最初に戻る。破片が彼の顔に向かって飛ぶ場面が、スローモーションで何度も何度も。


(..っ...やだ)


人混みの中を走り抜けがら、千切れそうな悲鳴を必死に震える呼吸の中に隠した。


**

午前中の部活を終えて急いで会場に向かっていた途中、携帯を震わせた着信。親友が僅かに強張った声色で伝えた言葉に、頭の中が一気に真っ白になった。嘘だと思いたかった。友人がそんな嘘をつく筈もないのに。長く揃えた三つ編みを、風の中に置いていくように、気付いたら走り出していた。

冷たい胸の中に、夏の熱を含んだ酸素が胸の中に入り込んでくる。それは、湿気を含んで夏の暑さを感じるほど熱いはずなのに、走り出した足と掌は震えている。走りながら周りの景色が走馬灯のように通りすぎていくと同時に、記憶が脳裏に過る。


「リョーマくん...っ」


走り出した頭上は、澄んだ青の空。快晴の夏だった。




大会を一ヶ月前に控えた時期から、いつも自主練をしている場所で彼を見かけることはなくなっていた。数週間前には、コートから部員達の力強い声がこちらにまで届くようになり、一週間を切った頃には、教室を覗く度彼はいつにも増して机に伏せて寝ることが多くなっていた。

その真っ直ぐで眩しいくらいの姿勢に、そんな夏の日々に、私自身も力をもらっていた。毎日遅くまで練習を重ね、朝も早くからコートの中を走り、身体は辛いはずなのに、フェンスの向こうにいる彼のテニスは勇気をくれるほど直向きだった。


『明日応援に行くね!』
『迷わないでよね』


呆れたような琥珀色の瞳を見たのと、少しだけ大きくなった背中を慌てて追いかけたのは昨日のこと。


迎えた朝は晴天だった。頭上に照らす太陽も、陽射しに木々の葉がきらきらと光る様子すら、まるで今しかない一瞬のようで、その日、彼のテニスに魅せられたくて鼓動は息をしているようだった。
あれほど高鳴っていた心臓は、今はどくん、どくんと泣きそうに鳴っている。


中学生地区予選大会の決勝が行われる会場。一年前に来たときと同じ場所を、走り抜ける。雑踏の中を抜けて、見えてきた建物に向かいながら何度も言い聞かせるように呟いていた。


大丈夫、大丈夫。彼ならきっと大丈夫。


「はぁっ、はぁっ」


それなのに、どくどくと鼓動する心が耐えきれずに弱気になる。


−−でももし、もしも、


廊下の角を曲がる。真っ白い廊下と、視界に捉えた医務室の文字。



「…っ、失礼します!」


医務室には二人しかいなかった。患者用のベッドと、診察スペースが設けられている。
その診察スペースに、正面に椅子に座っている男の子と、すぐ側で立っている見知った先輩がいた。白い包帯を巻いた人が顔を上げる。


「はっ、はぁ、……リョーマ、くん」


僅かに彼が瞳を見開く。


「竜崎?なんでそんな息切れてんの」


彼の隣でため息をついた人物が何か呟いたあと、テニスバッグを手にとってこちらに歩み寄ってくる。


「越前、あとは竜崎さんにやってもらえ。男が男の怪我の手当てすんのもつまんねーから、俺は戻るわ」
「なんスかそれ」
「ロマンだロマン」


会話が膜を張った水の中から聞こえてくるようだった。呼吸を思い出したように、息を吸う。医務室は、独特の消毒液のような匂いがした。目の前の会話を耳にしながら息を整える。視線はずっと白い包帯に注がれていた。


「大丈夫、軽い捻挫だからよ」
「え…?」


ぼそりとすれ違うときに言われた言葉に顔をあげる。なぜだか申し訳ないような表情で桃城先輩が笑った。


「..表情(かお)」
「...」


後ろの人物に聞こえないように溢されたその一言に言葉が詰まる。ぽんと一つ頭に手のひらが乗った。そのことに自分が俯いていたことに気付く。見下ろした床が、じわじわと滲んでいきそうだった。


「じゃ、お先ー」
「..どうも」


静かに閉まった扉と遠退いていく足音。完全に音が無くなっても、足が張り付いたように動かなかった。震えそうになる胸から、油断すれば感情が決壊しそうになる。
来る途中何度も浮かんだ場面が、僅かでも安心することを許さないように消えない。


(……馬鹿みたい)


もう一度、掌を握りしめた。




**


振り返ったとき一瞬見た顔を、前にも一度見た気がした。突っ立ったまま動く気配のない目の前の彼女に視線をやる。


「ねぇ、手当てしてくれるの?くれないの?」
「あ、ご、ごめんなさい!ぼーっとしちゃって」


びくりと動いた肩。瞳を見たはずなのに、不自然に合わない視線に微かに眉を寄せる。
前髪に隠れて表情は見えない。それでも髪の間から除く瞳が、揺れている。

静かに怖がるように包帯に触れた指は、少し冷えていた。


「..怪我、したって」
「ただの捻挫」
「..痛いよね..?」
「別に」


包帯を巻く手が止まる。掠れた声が殺風景の医務室に響いた。それはこんな静かな場所でなければ、聞き逃してしまうほど小さい。


「..ほんと?」
「嘘言ってどうすんの」
「そっか、...良かった」


その顔に僅かばかり瞳を見開いた。見たことがある、こんな表情を。金網の向こう。あのとき、フェンス越しに一瞬垣間見た。

そして漠然と感じた。あのとき彼女の感情に気づかなかった自分は知らない。握りしめられた掌に何を隠したのか。

指先の震えに気づいて、声の震えに気づいて、合わない視線に言い知れない感情が湧く。切れた息も、青かった顔色も、隠そうとする目の前の泣きそうな顔も、全部起因する理由は、


「平気だから」
「え..?」
「すぐ治るし怪我って程じゃない」
「....」
「どこも傷ついてない」
「..っ」

上げられた表情を見て、ああ多分あのときもこんな顔をさせたのかと知る。どう言えば良いのか分からない自分に、だからそんな顔をするなと言えない自分に口の中で奥歯を噛む。

軽く触れる程度に、ぽんと頭に手を置く。驚きに広がった瞳に、涙が広がっていく。それでも、溢されないままずっと瞳のなかで揺れていた。


「..良かっ、た、」

ゆらゆらと揺れる瞳に思う。異性の涙を疎ましく思わないのは、きっと彼女だけだ。


「泣くなら泣けばいいのに」
「..泣かないもん」

力が込められた瞳に呆れる。変なとこ頑固だ。包帯を半ばまで巻いたところで、名を呼ばれた。


「リョーマくん」
「何」


見上げてくる安心しきった笑顔に、身体のどこかが音を鳴らす。揺らぐ瞳に写っているのがさっきまでと違って泣きそうなものでないことに、胸のどこかが勝手に安堵した。


「試合楽しかった?」
「ま、そこそこね」
「私も見たかったなぁ、リョーマくんの試合」
「...」


惜しむように誇るように溢される言葉と笑顔を、静かに見ていた。
俯いていた手当てをするその手は、もう震えていないし、不安に揺れていた瞳も落ち着いて、労るように真剣に包帯に向けられている。不思議と、目の前のそれに試合後の興奮が静かに和らいでいくのを感じた。時折、医務室にある水道の蛇口から滴が落ちる音がする。

静かだった。


今日の試合のように、どうしてここまで自分のテニスを追いかけるのか正確には知らない。運動をしたことがないらしい彼女が、突き動かされて始めたテニスは楽しいばかりじゃないだろう。


それでも、必死に直向きに向き合う姿はいつかの幼かった自分を思い起こさせた。あの、ただただテニスが楽しくて仕方なかった頃の自分。


「痛そう...」


独り言だろう。思わず溢れたような小さな言葉に苦笑いをする。
きっともう、そう遠くない。素直じゃない自分が開き直るのも、秘めた言葉に音を乗せるのも。きっと、溢れてしまうまで幾度もこの感情を知る。


(今は、まだこのままでいい)


数秒後に向けられるだろう労いの言葉と笑った顔が脳裏に浮かんで、そっと瞼を閉じた。










宇宙に広がる青い水(あなたの心に融ける)












タイトル:メルヘン様
2016.9.2 加筆修正



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