Blissful sigh


「うぅ…ひっ、ぐすっ…洋子さんっ…うぅ…」
「……はぁ」


(誰だよ、洋子さんって…)


窓際に日の光が注ぐ昼下がり。眠気を誘うような温度がカーペットの一箇所だけにあたる。柔らかな光があたるその場所が、眠ってるみたいだった。



海外遠征から帰ってきて一日目。土曜日の午後。つまり休日。リビングには大粒の涙をこぼす彼女がいた。


(…はぁ)


ティッシュ箱を抱えてから一体どれくらい経ったのだろうか。視線を薄い四角形に向ける。テレビ画面に映る、涙を流した最近人気らしい女優。それと同等、と言うよりはそれ以上に涙を流しながらテレビを見る彼女。
頬を伝った涙を見て、一瞬教会での場面が脳裏を過った。それがか細い泣き声で引き戻される。


「そんなっ…!どうしてっ…」


意味が分からない。そもそも何故こんなことになったのか。休日、これと言って行きたいところもないからと、家でゆっくり過ごすことにした。けれど、それがそもそもの間違いだったのかもしれない。



**


「……マくん、リョーマくん」


微睡みの中で声が聞こえた。それが耳に心地よくて、余計に意識が波に漂う。


「どうしようもうすぐお昼だし、でもやっぱりもう少し…」


頭の上でぶつぶつと呟く彼女を、重い瞼を僅かに開けて見上げた。顎に手を当てて考え込むように眉を寄せている。「でもお昼、でもやっぱり…」そう呟く顔は相当難しい問題にぶち当たったような表情だ。


「……、乃」

寝起きのせいか声が掠れた。ぱっと顔を上げた彼女が瞳を見開いたあと、直ぐに心配気な表情をする。そう言えばこんなことが何度かあったな、と寝起きの回らない頭で考えた。


「ごめんね、リョーマくん。起こしちゃった?」
「…おこしにきたんじゃないの」
「それは、そうなんだけど…」

苦笑いをこぼした彼女に、 あーあとこぼしたくなる。階下から香る味噌汁の香りに目が少し覚めた。
多分、感覚からしてもう昼だろう。
昨日ドイツの遠征から帰ってきたばかりだからか、ぎりぎりまで寝かせてくれたらしい。


少し長めだった今回の遠征、昨晩玄関の扉を開けた自分の耳に届いたのは、彼女の小走りな足音と明るい声だった。

¨おかえりなさい¨の言葉を聞いて、何故だか肩の力が抜けるのはいつものことで、そのときにやたら何やかんやを実感するのもいつものことだ。


「ご飯できたからお越しに来たんだけど、どうする?食べる?」
「…食う」
「じゃあ、準備するね……あ、リョーマくん」

欠伸をこぼしながら身体を起こす。かけられた声に顔を横に向けた。ベッドの上、ラグの上にぺたりと座る彼女を見下ろす。ふにゃりと表情を緩めた彼女が言った。


「おはよう」
「……はよ」


この日常に慣れたけど、その度胸が温かくなるのは、やはり慣れないかもしれない。


「ふあぁ、…着替えてから行く」
「うん、待ってるね」


立ち上がった彼女を何とはなしに見つめながらふと思い付いてにやりと笑う。

「なんなら、見てく?」
「…!!なっ!な、何言ってっ!」
「冗談だよ」

真っ赤な顔をした彼女に答える。からかう度にこうも反応を返されると、からかいがいがあって飽きそうにない。


(あぁ、おもしろ…)

頬を膨らませてこちらを睨んでいるつもりなのか知らないが、じーっとこちらを見る視線を感じる。そ知らぬ振りをしながら、伸びをする。


「またそうやってからかう!もうっ……あっ、今日のご飯はリョーマくんの好物だからね」

少し拗ねたかと思ったら、すぐに笑って階下へ下りて行った。それに、こっちの方が何故か負けた気分になる。

どっちが上手なのか、こういう度に思い知らされる。相手が真っ正直から、無自覚からくるから質が悪い。


(…しょっちゅうか、こんなの)


小さく笑みがこぼれた。






「……どうですか?」
「別に、普通に美味いけど」
「良かったぁ」

息でも止めていたのか、硬直していた身体から力を抜くようにして大きく息を吐く。安心したような顔に呆れて、漬け物に箸を伸ばしながら返した。


「別に帰ってくる度聞かなくてもいいのに」
「だって、不安なんだもん…」


その言葉に、ふと昔を思い出す。
関係が変わってから初めて彼女が弁当を作ってきたとき、自分は何と言っただろうか。十中八九素直な言葉を言っていないことは確かだ。多分、不味くないだとか、普通だとか。

あの頃は慣れなくてしょうがなかった。自分の感情も、一々感情が動く自分自身も。思いを伝えたあとの方が、いろんな意味で苦労した気がする。


「リョーマくん?」


視線を向ける。こうして、二人で食卓について朝飯−時間的にもう昼飯だが−を食べる未来なんて、あの頃は想像もしていなかった。

「美味いよ」
「へっ?」
「だから飯」
「...あ、ありがとう、ございます」

真っ赤に染まる頬に、満足して食事を再開した。





「どっか行きたいところとかないの」
「へ?」

驚いた顔をする彼女に顔をそっぽに向ける。口につけていたコーヒーカップを離してリビングのテーブルに置いた。
こういったことを自分から言うことがあまりないからだろう。まじまじと見つめてくる瞳から逃げるように視線を逸らし続ける。


「オフ、久々だし」


少しして小さく嬉しそうな声が聞こえた。


「...じゃあ、二人でゆっくりしたいです」
「あ、そ」

いつもは真っ赤になって泣きそうな顔をするくせに、どうしてたまに恐ろしく直球なんだろうか。
偶に直球を投げてくる彼女は、絶対にこっちの破壊力を知らない。付き合う以前もそれからも、一体何発くらったか。眉を寄せていると彼女が声をあげた。


「何、どうしたの」
「あのね、今すっごく流行ってるドラマがあってね、いつもこの時間にやるの。素敵なお話なんだよ」
「ふーん」






**

(素敵ねえ...)


数時間前彼女がいった台詞を繰り返す。今のところ別れを決断した二人の、どの辺りが素敵なのか、今一分からない。呆れを多分に含んだ溜め息を溢して、二杯目であるカヘェインの液体を喉に流し込む。
まさか、その素敵なお話とやらがベタベタなラブストーリーだとは思わなかった。涙を誘う感動系らしいが、それにしたって誘われすぎだろう。


「アンタちょっと泣きすぎ」
「だってっ…しずかさんがっ」
「ああうん、分かったから」


(今度はしずかさんかよ…)


エンドロールが流れたあとに次回予告が流れる画面を見て、押し殺せないため息が出そうになる。画面のなかでは、別れを告げたはずのしずかだか洋子だかが、何故かもう主人公の隣で幸せそうに笑っていた。どんな急展開でそんなことになるのか意味が分からない。

すんすんと鼻を啜る彼女を見る。


それを見て思う。
どこの世界にこの状況にいて落ち着ける人間がいるんだろう。いたら是非ともお目にかかりたい。堪ったもんじゃない。ただでさえ今まで散々我慢させて、泣かせたことだってあるのに。


(どうすれば泣き止むわけ)


やさぐれて膝に立てた腕に頬杖をつく。
とそのとき、カーペットの上に無造作に置いていた腕に温もりを感じた。

左手の小指、握りしめられた自分の手。それを見て僅かに瞳を瞠る。ちらりと彼女を見ていると無意識なのか、その仕草には気づいていないらしい。


「……竜崎」


何となく、口から溢れ出たのは彼女の旧姓だった。途端に記憶が蘇ってきて、その中に三つ編みの少女を見つける。

きょとんとした表情に、苦笑いを交ぜて、覚えてしまった彼女の掌の温度を捕まえる。止まっていた涙に少しだけ安堵した。








A blissful sigh(吐息に交ざる幸福を、君に届けられるだろうか)









2016.9.14 加筆修正



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