耳をすませば、


何でもない、毎日の光景のワンシーン。

雲が晴れて、風が吹いて、草木が揺れて、緑の香りがする。

その中にテニスボールの音と、彼の青と白の背中を見つけるだけで、ありふれたその日が特別になる。


たったそれだけで心臓が鳴るのだ。そしてそれは何度でも私に伝えてくる。


彼に、恋をしているのだと。



**


あ、リョーマくんだ。


移動教室の教材を胸に抱えて廊下を歩いていると、数メートル先を歩いている彼を見つけた。隣には堀尾くんが、リョーマくんの肩を揺らしながら楽しそうに話しかけている。
二度三度と揺れていた肩が、堀尾くんから静かに距離をとる。その光景を見て、ふふふと頬が緩んだ。


廊下には他にも生徒がいる。
壁に寄りかかって友達と談笑をする女子生徒、教室から出て来て騒ぐ男子生徒、走る生徒を注意しつつ他の生徒と挨拶を交わす教師達。

その中に紛れている背中を見つけられたことに、心が踊る。

今日は良い日だ。

身体のなかに染み渡るように幸せが満ちていく。抱えた教材に顔を僅かに埋めて胸の中で噛み締める。

古い紙の匂いをすーっと吸い込んで胸中で独り言を呟く。


(...リョーマくん、レギュラージャージの青も似合うけど夏服もかっこいいなあ)


と再び見つめた背中から目をそらせないまま、ぽーっとしていると、不意にぽんぽんと肩を叩かれた。


「桜乃」
「へっ?」

びっくりして真横を向くと楽しそうな顔をした朋ちゃんが、指先でちょんちょんと前方を指差す。私と同じく音楽の教材を抱えた朋ちゃんは、今とても次の合唱コンクールに燃えている。優勝したら、テニス部の先輩であり彼氏さんに、「お揃いのぬいぐるみが欲しいって伝えるの」と真っ赤になって話してくれた。そんな朋ちゃんは、最近とても綺麗になった。


「声かけないの?」
「う、ううん!いいの!」
「え〜!勿体ない!別クラスだしあんまり話す機会ないでしょ?」
「そうだけど...」

でももう、一目見れただけで胸いっぱいというか。それに、彼の瞳を真っ正面から見るのは、すごく、恥ずかしい。あの涼しげな飴を溶かしたような綺麗な瞳は、見つめられると何故か泣きそうになる。

「あ〜うん、分かった分かった。だからそんな真っ赤にならないで、ほら、扇いであげるから」
「あ、ありがとう朋ちゃん」

下敷きでぱたぱたと扇いでくれる朋ちゃんの後ろには窓があって、ちょうど若葉の匂いを乗せた風が頬を撫でる。気持ちいいな、と思いながら瞼を伏せる。

自分でも情けないと思うときがある。
リョーマくんのことを好きな女の子はたくさんいる。いつも何組の誰々が告白をした、とか、他校の女子生徒が試合を見に来てるらしい、とか、下駄箱から可愛らしい手紙を取り出してため息をつくリョーマくんだって、何度も見かけた。

そんなその他大勢のなかにいる私に、こんな小さな私の声に、越前リョーマというあんな遠い背中が気付いて振り向いてくれるなんて、そんな大それた期待、怖くてできなかった。


いつの間にか俯いて足まで止まってしまった私に、朋ちゃんが優しげにため息をつく。仕方ないなあ、と聴こえてくるようで、思わず苦笑いをする。

私は思うんだけどね、その言葉に顔をあげる。苦笑いをしているかと思ったその表情は、意外にも真剣そうな、そして確信しているように落ち着いた顔をしていた。今だ彼女の両手と、窓から運んでくる風を感じながら、朋ちゃんがまるで当たり前のように笑った。


「リョーマ様だったら、桜乃に呼ばれたら気付くと思うけどね。堀尾がどれだけ隣で大ボリュームで話そうと、他に誰かリョーマ様を呼んでたとしても」


**


たまに、テニスコートの方からリョーマくんを呼ぶ声が聞こえてくるときがある。
それは自主練をしている場所まで聞こえてくるような、お婆ちゃんの大きな怒鳴り声だったり、桃城先輩がリョーマくんを呼ぶ元気な声だったり、堀尾くんがリョーマくんを探す困ったような声だったりと、様々だった。


今日は彼が試合に勝つ瞬間を告げる、審判の高らかな声を耳にした。背中が僅かに震える。
彼の名前に、背中を押されてラケットを振り続ける。



私も、来週公式戦を一つ控えていた。いつもは合間を見つけて応援に行く試合も我慢に我慢を重ねて、そして一歩でもあの背中に追い付きたくて、もう暫く直接彼の試合を見ていない。


良い報告がしたい。彼に伝えたい。もっとテニスが上手くなりたい。練習は辛くて、試合に負けたら悔しい。でもそれでもテニスが楽しい。こんな自分がいることも、彼に出会ってから初めて知った。



肩でしていた息を整えて、滲んだ汗をタオルで拭う。汗の引いた米神を風が撫でて気持ちよさに、空を見上げた。



「お天気いいなあ」


暫くそうして6月の空を見上げて、ラケットを抱えたまま近くの木の下に腰を下ろす。テニスコートの金網と、緑のコート、ずっと先まで続く空を見て瞳を細める。


木陰で休憩をとりながら、うろこ雲の空にテニスボールが高く響く音に耳を澄ました。こんな時間がとても好きで、加えて今日のように彼の名前が耳に入る日はもっと好きで、朝もお昼も放課後も、日常の中でいつも彼を探している。


そう言えば、リョーマくんはいつからテニスを始めんたんだろう。最初は私みたいに上手くいかないこともあったのかなあ。でも、想像つかないなあ。


最近リョーマくんと話せてないなあ、


緑の香りが頬を撫でて、葉っぱを揺らす風の音に眠気が誘われる。空高く風が吹き抜ける音が聴こえた気がして、瞼を暖める柔らかな陽射しにゆっくりと瞳を閉じた。




(......寂しいなあ)



目が合えば恥ずかしい、名前を呼ぶのは勇気がいる。けれど、本当はこっちを見て欲しい。本当は、私も呼びたい。


(リョーマくん)








声が聴こえた。微睡みの中で。夢かなと思った。だってとても気持ちよくて、暖かくて、誰かが隣にいた気配がしたけれど、よく覚えていない。ふわふわと前髪を風が揺らしていたような、溜め息が聴こえたような気がする。どのくらいの間か分からないけれど、隣に誰かの温もりを感じていた。


それはなんだかとても良い夢だった。







「....ん」

うとうととしていた意識が浮上する。まだテニスボールの音がする。ほんの少し眠っていたことに気付いて、慌てて顔をあげる。日照りもさっきと変わらず、時間もおそらくそんなに経っていない。

でもこんなところで寝てしまったことに、誰かに見られていたらどうしようと慌てて辺りを見渡す。


と、目の前に置かれた缶ジュースに気付いた。

「え?」

ぱちぱちと瞳を瞬いて見ると、よく見かけるジュースだった。しかも、ピンク色のそれは、何故か私が好きな味だ。


「え?」


手を伸ばして、確認しようとした瞬間、瞳を見開く。その手を伸ばしながら、記憶が甦る。



(竜崎)


顔が熱くなる。


(......寝てるし)


指先が震える。喉が震えて、涙が出そうだった。



(頑張れ、試合)



捕らえた缶が、まだ少し冷たくて、それがとても切なくなる。苦しくなって息が漏れて、堪えきれないと心臓が暴れ出す。冷えたそれを額に当てて、息を吸い込んだ。その空気はもうすぐやってくる夏の匂いを含んでいる。


夢じゃなかったんだ。隣にいたのも、夢ではないかもしれない。朧気だけど、今まで隣に座ってくれたことはないから、間違っているかもしれないけれど。声は確かに覚えている。

(...ありがとう)


きっと、来週は会いに行こう。そして直接お礼を言うんだ。

彼の名前を呼んで。












(その声がする)



























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