ジングルベルが聴こえる
冬の息づかいがカーテンの向こうから聴こえてくる。耳を済ますと、それは音がないはずなのに何故か分かるのだ。
冷えきった部屋の中を柔かなカーペットの肌触りを足裏に感じならが窓に近づいていく。指先に絡まる毛糸が冷たかった。
今年の冬一目見て気に入ったはずの暖色系のカーペットは、3日前から何故か物悲しく感じてしまうようになった。
白い指先を伸ばしてそっとカーテンレールを鳴らす。シャラシャラ、と鳴る音がまるで橇(そり)を引く音のように聴こえて、余計に寂しくなった。
寒暖差で細かな水滴を身に纏う窓の向こうでは、雪が降っている気配がする。徐に指先で窓を越すって、透明な窓をそっと覗いた。
外は真っ白だった。無音の世界で、深深と雪の降る音がする。
(昨日の夜更けは雨だったのに...)
遠くからジングルベルの音が聴こえてくれば良いのに、そう思った。
「雪が降ったよ...リョーマくん」
彼が見ている空は、今何色をしているだろう。
**
学校が冬休みに入る前、青学テニス部の期待と周囲の歓声を跳ね除けて彼は単身アメリカへ旅立った。ただただ、テニスで上に行くために。大好きなテニスを楽しむために。もしかしたら、そんな理由も彼には必要ないのかもしれない。ラケットを握ってコートに立つ彼を見たら、旅立つことは当たり前のことのように思えた。
いつ帰ってくるかは知らない。今回はすぐに帰ってくるかもしれないと風の噂で聞いたけれど、本当のことは彼から聞かない限り分からなかった。
一週間前から、今日のことを考えていた。ずっと、待ち遠しかった。きっと、彼本人よりも。何がいいだろう。受け取ってくれるだろうか。当日は友達とお祝いをするのだろうか。それとも家族と一緒かもしれない。
でも、勇気を出して渡したい。だって、今日は――。
だから、3日前に出立を聞いたとき足元が抜けて真っ逆さまに落ちていくような気がした。
真っ赤な袋と青い袋に包んだ二つの包みは、今部屋の片隅に隠れるように置かれたままだ。
赤、緑、白、黄色。
色とりどりのクリスマスカラーで飾り付けられた街を歩く。両脇の小道は大きな木を雪化粧に染め、昨日の街並みとは表情を変えていた。通りのお店ではサンタクロースに扮した店員が、笑顔で呼び込みをしている。
それらを横目に眺めながら、マフラーに顔を埋めた。今年一番の寒さを今朝のニュースで伝えていた女性キャスターが、今晩はホワイトクリスマスになるでしょうと言っていた通り、今朝からずっと雪が降っている。
(やっぱり、朋ちゃんのお家にお邪魔すれば良かったかな...)
親友の家では今日家族揃ってのクリスマスパーティーが行われる。毎年賑やかなそのパーティーは、彼女が両親とサンタクロースに扮して、夜中こっそりと弟たちの枕元に届けたクリスマスプレゼントのお披露目会でもある。キャンドルと、大きなケーキと、笑顔で溢れた素敵なクリスマスパーティーだ。一週間前から誘われていて、悩みに悩んで断ってしまった。なんとなく、行けないと思って。笑って返してくれた親友に、バースデーカード送ったら?と聞かれたことには苦笑いしか返せなかった。
さくさくと音がするようになった足元は、うっかりすると滑ってしまいそうでゆっくりゆっくり踏みしめるように歩く。たまに足元を確認して、父親と母親からもらったボンボンのついたコットンブーツの足元を慎重に進める。
今ごろ家で母がコーヒーを入れて、父はリビングでクリスマスの飾りつけをしているはずだ。もしかしたら、たまに手を止めてニュースを見ては母に怒られているかもしれない。
鞄のなかには買い物リストが書かれたメモが入っている。
母親に頼まれた今晩のクリスマスディナーで使うそれらは、一人っ子の私のためにと毎年手作りのチキンやミネストローネ、ショートケーキに使うためのものだ。
「桜乃、今年は何ケーキがいい?」
「...あんまり、甘くないのがいいな」
「あらあなた甘いのもの好きじゃなかった?」
「うん、..今ちょっとダイエット中なの」
「あら聞き捨てならないわね。それはお母さんが最近太ったことに対する嫌味かしら〜?」
「ち、違うよ!」
「冗談よ」昨日母と交わした会話。
ありふれているけれど、幸せなクリスマスイブだ。
料理だってきっと美味しいに決まっている。だって毎年美味しいのだから、料理上手な母のことだから今年はもっと美味しいからもしれない。
街角から流れてきたクリスマスソングにも気付かないまま、その前を素通りする。
ホワイトクリスマスも、街の雪化粧も、クリスマスカラーに彩られる通りも、全部わくわくする。
だからきっと、どこかぽっかり穴が空いたようにずっと心が冷えたままなのは、この凍える寒さのせいにしたい。
**
家族3人のクリスマスディナーは、終始和やかに盛大に行われた。
ふと外の空気を吸いに行きたくなって母親に近くの公園に行くことを告げて家を出る。夜までには帰ってくることを背中で聞きながら、雪の街に出た。
ここから近くにある公園は徒歩ですぐ行ける距離で、小さい頃はよく遊んだ場所だ。今でも近所の小さい子供たちの遊び場となっている。
公園はクリスマスのイルミネーションで光輝いていた。木々は雪を被った上に白い光で照らされている。薄氷の張った噴水が控えめな色味で夜の中を煌々と煌めいていた。真冬の今の時期は夕方には日も沈むため、この時間はうっすらと星が出ている。何組か、近所の人だろうイルミネーションを見に来た家族や男女が公園を散策している。
公園の真ん中まで歩いて立ち止まる。ぼうっと暫しの間イルミネーションを見ていると、唐突に背中から声をかけられた。
「お姉ちゃん一人なの?」
振り向くと母親と子供の親子だった。苦笑いを交えながら申し訳なさそうに会釈をする母親に、微笑みながら会釈を返す。目の前に来た男の子の視線に合わせようと腰を下ろした。
「うん、そうだよ。ぼくはお母さんとイルミネーションを見に来たの?」
「うん!サンタさんに願い事を言いに来たんだ!今日は星がたくさん降る日だから、ママが叶うかもしれないよって!」
願い事。
「サンタさんは来るんだよ!願い事が叶うんだ!お姉ちゃんは、何か願い事はあるの?」
咄嗟に、言葉が出なかった。
願いごとは――、
深く深く心に埋めた想いが浮き上がってくる。
真っ直ぐにこちらを見上げてくるきらきらと光る双眸に心が震えた。
クリスマスイブも、ホワイトクリスマスも、プレゼントも、美味しいディナーも、嬉しいのは本当。でも今日が待ち遠しかったのはそれが理由じゃない。今日は、今日は、
願い事が叶うんだよと笑う男の子に、どうしてか視界が歪んでイルミネーションの光がゆらゆらと揺れていく。
12月24日は彼の誕生日だ。いつも勇気が出なくて見つめてばかりいるあの背中を追い越して、正面から彼に話しかけて、おめでとうを言える特別な日。私に、テニスを教えてくれた人に感謝と祝福を伝えられる日。
おめでとうと言いたかった。会って直接言いたかった。ありったけ、心からこの日が嬉しいのと、せめてささやかでもお祝いがしたかった。特別な日だった。どんな日よりも。
どうしていつも、
どうしてこんなにも、私は彼に会いたいんだろう。
凍えた頬に涙が伝う。溢れ出る涙さえも雪の中では冷たくて、それが無償に悲しかった。
小さな男の子は心配そうに眉尻を下げている。母親は、そっと近寄って声をかけるか迷っているようだった。困らせている、こんな小さい子を。見知らぬ人を。泣き止まなきゃいけないのに、頬を刺す冷たさと、それ以上に押し寄せる寂寥(せきりょう)が止めどなく瞼に込み上げる。
喉元を迫り上がる声が、耐えきれずに溢れた。
「...会いたい」
男の子が目を見開く。そのままこてりと首を傾げた。
「誰に?」
「会いたい、...リョーマくんに会いたい」
俯いて両手に顔を埋める。頬に当てた両手が冷たい。悴んだ指先に涙が絡んで溺れてしまいそうだった。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんにもサンタさんはいるよ」
「え...?」
「だってぼく見えるもの」
ほら、そう言って手袋に包まれた小さな手が指差した方向を振り向く。
「...う、そ..」
光に包まれた夜の公園で、静かに佇む彼がいた。
そのまま、徐にこちらに向かって歩き出す。両手をポケットに入れて首もとに巻いたマフラーに鼻先を埋めて、数歩先で止まった彼がこちらを見て俄に瞳を瞠る。そして、次の瞬間マフラーのなかで溜め息をついた。その吐息が白く夜空に昇っていく。
「お兄ちゃんサンタさん?」
「は?」
「お姉ちゃんのサンタさん?」
「さあ...どうだろ」
母親に呼ばれた男の子は、最後に「良かったね!お姉ちゃん!」と言って待っている母親のもとに走って行った。柔らかく微笑んだ母親が最後にもう一度会釈をして、楽しそうに去って行く。
「何やってんのアンタ」
向き直った彼が、こちらを静かに見る。
淡い白い光に照らされて目の前に立つ彼を、まだ信じられなかった。
夢だ。きっと。きっと、家族とご飯を食べたあと寝てしまって、私はベッドの中で夢を見ている。
そう言い聞かせてみても、彼の髪にかかる雪も、少し赤い目尻も、彼の空気も嘘だとは思えなかった。何より鳴り止まない鼓動が夢ではないと告げている。
「ど、うして..」
「何が?」
「だって、リョーマくん、アメリカ...」
「ああ、すぐ帰ってくる予定だったし。言わなかったっけ?」
「..言って、ないよ」
そのままこちらを見る琥珀色の瞳から目が逸らせないまま、数秒か、数分だったかもしれない、ただ見つめていた。
「...何で泣いてるの」
「え?」
不意にそっと、伸ばされた手に肩が跳ねて思わず後ずさる。あと数センチの距離で届かなかった彼の手が、空中で触れることなく止まった。
一瞬の出来事に冷えきっていた心が急速に熱を持つ。
「なんでも、何でもないよ。ただ」
――ただ、会いたかったの。
その言葉が脳裏に浮かんできて瞳を見開く。背中を焼くような熱と、吐き出す息の白さがこの現実を夢ではないと呼び覚ます。
一瞬自分の掌を見た彼が、何でもないように手を下ろした。その指先を目が追いかけてしまって、後悔と恥ずかしさに顔を俯けた。
周りには誰もいない。淡い光と夜空の星が辺りを照らしているだけで、二人しかいない。緊張と困惑と喜びと、そして幸福に思考が纏まらなかった。そもそも、日本に帰ってきたことは呑み込めたけれどどうしてここにいるのだろう。
「何が欲しいの」
「へ?」
「だから、何が欲しいの、クリスマスプレゼント」
咄嗟に理解できなかった。
欲しいもの。私が、欲しいもの。
「いらないよ」
「....」
「何にもいらない」
彼が眉を寄せる。
伝えられそうな気がした。今日なら、この日なら心に秘めている想いの欠片を、彼に言えそうな気がした。勇気を出して、365日の想いを込めて。
「リョーマくんが、...リョーマくんに会えたから何にもいらないよ」
息を止めた彼が瞳を細める。その仕草に心臓が高鳴る。
「無欲だね、アンタ」
夢ではないのなら、
夢ではないのなら、伝えたいことがある。
息を吸う。肺に入り込む冷たい空気も、頬に舞い落ちてくる雪も、光輝く淡い光さえも味方にして。
「おめでとう」
「...」
「お誕生おめでとう」
「...」
「それがずっと言いたかったの」
伝えきれない想いをどうか今日だけは知って欲しい。素敵な日になって欲しい、喜んで欲しい、幸せを感じて欲しい、できれば笑って欲しい。願い事はたくさんあって、とても無欲なんかじゃないけれど、今日だけは叶って欲しい。
ホワイトクリスマスも、クリスマスイブも、街の雪化粧もプレゼントも全てあなたがいるから特別になるんだよ。
「おめでとう、リョーマくん」
暫く俯いていた彼が顔を上げて徐に口を開く。その表情(かお)は、静かに何かを堪えているようだった。
「悪いけど」
「え?」
「それだとオレの気が済まない」
「...ふぇ?」
背を向けた彼が公園の出口に向かって歩いていく。私が動き出せない様子を感じたのか、立ち止まってこちらを振り返った。
「今日は確かにオレの誕生日だけど、クリスマスイブなんでしょ」
「..うん」
「でアンタは何でか知らないけどまた泣いてるし」
「そ、そんないっつも泣いてる訳じゃ!」
「だから」
不意に視線を逸らした彼が、遠くのイルミネーションを見ながら口を閉ざす。そして徐にこちらを見つめた。
「付き合ってよ、クリスマスイブ」
ひゅっと息が止まった。
そっと足を踏み出す。昼間慎重に進めていた足がだんだんと小走りになる。
そっと口角をあげた彼に向かって、走り出す心を連れて駆け出した。
ジングルベルが聴こえる(その鐘はあなたしか鳴らせない)
「今朝もね、雪が降ったんだよ」
「ふーん」
「大通りはね、サンタクロースの格好した人がたくさんいたの」
「へえ」
「....あのね、リョーマくん、渡したいものがあるんだ」
「..ああ、うん、..オレも」