I am a dreamer


いつの日かと、夢を見ている。
私にもたった一人、この人だけと思える王子様が現れることを。




**


「桜乃、最近可愛くなったよね」
「へっ?」


鳩が豆鉄砲を食らったように大きな瞳をまん丸に見開いて、アイスクリームを食べようとしていた友人が手を止める。大好きな親友だからか、はたまた恋をしている女の子はなんとやら、というべきか、その表情さえかわいらしく見える。

「うん、やっぱりそうよ。絶対かわいくなった!」
「えっ、ど、どうしたの?朋ちゃん」

目尻を上げて迫り来るような勢いに、桜乃がぱちぱちと瞳を瞬く。桜色の頬が窓から差し込む朗らかな陽射しを受けて、陽だまりのように柔らかく見えた。少し、目がおかしいかもしれない。いや、でもやっぱりこの親友は、最近、正確に言えば彼に出会ってから、日に日に変わっていったように思う。

そう、テニスの王子様と呼ばれるあの少年と出会ってから。


「朋ちゃん?」


首をこてりと傾げながら、僅かに覗き込んだ友人が不思議そうに見つめてくる。

その瞳を見て、何度も大切な親友がときに涙に瞳を濡らし、幸せに笑い、迷い傷付いてきた日々を思い出す。恋をしている女の子は、とても魅力的で輝いていると、彼の背中を追いかける友人を隣で見てきて思った。だからかもしれない、彼女がときどきはっとするように綺麗になったな、と思うのは。

そして、その王子様は長く冷たく静かな冬が終わり、桜の蕾が開いたこの春、たった一人の女の子の手をとった。懸命に直向きに伸ばされたその手を、不器用に優しくそっけなく、そして大切そうに。


長かったなあと二人の辿った道を思い返しながら、待ち焦がれた春を祝福したのはつい最近のことだ。

短い回想を終えて、春の花が添えられた小さな花瓶の置かれたテーブルにそっと肘をつく。ちょっと行儀悪いけど、こんな陽気とすっかり春景色のようにぽかぽかとする胸中に、少しばかり気が緩んでしまう。


「桜乃って、リョーマ様を好きになってからすっごく可愛くなったわよね。それって恋の力かな〜って思って」
「...ふぇ?」

あれ、こんな表情さっきも見たなと思った桜乃の表情が、どんどん赤くなっていく。ぱくぱくと口を開いては閉じて、ぽんっと音がするように耳まで赤くして桜乃が小さく声を漏らしながら俯いた。


「...そ、そんなこと、ないと思う」
「でも本当よ?多分、桜乃の周りにいる人はみんな気付いてると思う」
「...でも、余裕なんか全然ないの」
「余裕?」

涼しげな器に乗ったリンゴアイスクリームは、私がこの話を切り出したせいで溶けかかっている。真っ赤な顔をした桜乃前にあるそのアイスクリームは、余計に溶けているように感じた

少し迷った様子で、それでも桜乃が口を開いた。


「一喜一憂してばかりで、か、かわいくなってる実感なんてないし、...いっぱいいっぱいでどんな風に映ってるのか、分からないの」


どうしよう。どうしたらそんな風に悩む姿さえ、同じ女性からしても充分魅力的に見えるのよと教えてあげられるだろう。

彼女にとっては本気で分からなくて、彼にどう思われているのか不安なんだろう。けれど、そこは心配する必要はないだろう。私でさえ思うのだから、彼からすれば5割り増しで桜乃はかわいく見えると思う。


「桜乃」
「ご、ごめんね、朋ちゃん。いきなり、こんな私でも分からないこと言われても、困るよね!」


桜乃はかわいくなった。彼の傍で頬を染めて笑い、彼がいないところでも追い付きたいとテニスに向き合い、そしてただただ傍にいたいと願った日々を積み重ねて、流した涙の分だけ桜乃は、たった一人、彼にとって唯一の女の子になった。

それは、友人は気付かなくても彼は気付いているだろう。砂糖菓子みたいに甘い彼だけが知っている秘密だ。


「私が全力で誓って言うけど、どんな桜乃でも、例え桜乃がこの恋に必死で迷ってちょっと自信がなかったとしても、桜乃が桜乃らしくあれば、リョーマ様にとってはそれで充分だと思うわよ」

アイスクリームはもう半分くらいお互い溶けてしまっている。後で、苦笑いしながら二人で食べることになるだろう。でもきっと、そんなに悪くない味だと思う。


「恋は全力よ桜乃!」
「朋ちゃん...」


ありがとう、と微笑む親友に笑い返して二人で溶けてしまったアイスクリームを口にする。案の定苦笑いをして、そのあと二人けらけらと笑い合った。





**


人並みに、男の子を好きになったことはある。緊張したりせず割りと積極的に話しかけられるし、公然の前でも自分らしく大きな声で名前だって呼べる。


でも、まだ経験したことがない。自分らしくいられないほど誰かを想って、不安になるほど恋をして、切なくて苦しくて気付いて欲しいのに伝えられない、そんな気持ちを、私はまだ知らない。





校舎を出ると暮れかかった夕空が綺麗に橙色に染まっていた。委員会でいつもより帰りが遅くなったその日は、普段見れないような茜色の空に夢中になって空ばかり見ていたから、ふと耳に入ってきたテニスボールの音に気付いたのはもうコートを通り過ぎぎかけたときだった。


(あれ?今日って男テニ休みじゃなかったっけ?)


立ち止まって音のする方を暫く見つめる。2つ先のテニスコートにいるその人を見つけて、思わず驚きに瞳を瞠った。
今日は親も帰りが早いし弟の世話をしなくても問題ない。それに、何となく見かけたその人に話しかけてみようと方向をくるりと変えた。



「菊丸先輩」

コートに一定間隔で響いていた音が止まって、掌でぱしりとボールを受け止めた赤茶色の髪をした人が振り向く。僅かに驚いた顔をしたあと、にぱっとそれが笑顔に変わった。相変わらず表情豊かな先輩だなあと内心思ってフェンス越しにぺこりと頭を下げる。


「朋ちゃん!久しぶり!」
「この前会いましたよ」
「あれ?そうだっけ?」

けらけらと笑ってこちらに歩み寄ってきた菊丸先輩が、不意に首をかしげる。男の人なのにこんな仕草が似合うってどういうことなの、と毎回不思議に思う。明るくて、お調子者で、元気印を絵にかいたような人。そして青学のダブルスの天才。


(それに、菊丸先輩っていっつも笑ってるわよね)


「朋ちゃん今日は家帰らなくて大丈夫なの?」
「え?」
「ほら、いつも早めに帰ってるから。あれって弟の世話するためなんでしょ?前に竜崎さんから聞いたよ」

何で知ってるんだろう、と思ってるのが分かったのかまた一つにっかりと笑った菊丸先輩が続ける。


「今日は委員会か何か?」
「はい。帰ろうとしたら菊丸先輩がいるのが見えたので。今日はどうしたんですか?高等部の部活、お休みなんですか?」
「うんそう。超〜久々の休み。なんだけど、帰ろうとしたらなんかこっちが懐かしくなって来ちゃった」


肩にラケットをかけた先輩がまた笑う。本当によく笑う。この人が真面目な顔をしたところを見たことがない。ついでに想像もつかない。

コートから出てラケットをバッグに詰めた菊丸先輩が、「よっ、と」と言いながら重そうなテニスバッグを肩にかける。


「帰ろっか」
「え?いいんですか?まだ打ってたんじゃ」
「いいのいいの。大石は生徒会でどうせ一人だし、朋ちゃん帰るところなんでしょ?」
「ええ、まあ」


「じゃ帰ろ!」と言って元気に背を向けた菊丸先輩に呆気にとられて、何だかおかしなことになってきたなと思いつつ後を追いかけた。



「朋ちゃんって何人兄弟?」
「3人兄弟です。下に弟が2人います」
「へえ〜そうなんだ。オレも4人兄弟いるよ」
「え、そんなにいるんですか?」


烏が空を数羽飛び鳴く度に、夕日がますますオレンジ色に染まっていく。道路に伸びた影は当たり前だけど菊丸先輩の方が長かった。

菊丸先輩のことだからずっと帰り道はお喋りしてるのかなと思ったら、意外にそんなこともなくてたまに会話が途切れて静かになる。二人分の靴音だけがコンクリートを鳴らしている。


そう言えば男の人と一緒に帰るなんて初めてだ、そう気付いたら少しだけ緊張した。おかしな話だ。菊丸先輩に緊張するなんて。上級生だけど、普段緊張することもないのに。
俯きながら影だけをじっと、見つめていた。たまに、二人の間にある掌が触れ合うように重なる。


(おかしいおかしい...!)


どうしたのよ、小坂田朋香!菊丸先輩相手に!
内心で思いっきり失礼なことをを考えながら、最早食い入るように影をじーっと見ていた。


「---の?」
「えっ?」


自分のおかしな心臓の音に、これが放課後マジックみたいなことかな、と考えていた辺りで突然話しかけられてぱっと隣を仰ぐ。一人でぐるぐる考えてたなんて気付かれたらどうしよう、と思ったら、そこに意外なものを見つけて呼吸を止めた。


いつもみたい歯を見せて笑うのではなく、柔らかく微笑むように見つめる瞳に吃驚してぽかんとする。


目があって、ぱっと菊丸先輩から逸らされたその視線にほっとしたのに、あの瞳が本物かどうか確認したくなった。そのことにまた吃驚する。

そんな顔もできる人なんだと思いながら、トクトクと鳴る心臓が自分のものじゃないみたいだった。


「えっと、朋ちゃんって、部活とか入らないの?」
「あ、ああ、弟達の面倒見なきゃなんで、部活動は入らないって決めてるんです」
「やりたい部活とかないの?」
「特には...あんまり何かに夢中になったことがなくて。それに、家のことは好きでやってる部分もあるし、特に不満はないんです」


躓くようにされる会話に、ぎこちなく正面を向く。


(びっくりした!びっくりした...!)


しっかりと瞳に焼き付いてしまった菊丸先輩らしくない笑顔に、心臓がざわざする。

てんやわんやの内心で、菊丸先輩に聞かれたことを考える自分もいた。



本当は、テニスを始めてから直向きに諦めずボールを追いかける桜乃が、少し羨ましい。スポーツは大抵やればそこそこできるけれど、桜乃みたいに夢中になったことがない。あんな風に一つのことに打ち込めるのは楽しいだろうなと思う。でも、家のことを手伝うことに本当に不満はなかった。弟達も生意気なときはあるけど、何だかんだとかわいいときもある。



「なんか朋ちゃんオレより大人」
「...そうかもしれませんね」
「げっ、やっぱり?」


冗談です、と言いながらいつもみたいに笑う菊丸先輩にどこか安心した。多分さっき見た表情(かお)は、放課後マジックと夕陽があまりに綺麗だったせいだ。

ひそひそと呼吸する胸のなかに、落ち着くように語りかける。どうしてそんなことをしてるのか分からなかったけれど、何となく菊丸先輩の方を上手く見れなかった。


「じゃあ、私の家ここなんで」
「またね!」


絆創膏を貼った頬を崩すように笑って、背を向けた菊丸先輩を確認して家に入ろうとしたら、ふと菊丸先輩が立ち止まる。
何だろう、と思ってくるりと振り向いた菊丸先輩の顔を見て、ひそひそ騒いでいた胸がまたとくんっと鳴った。


夕陽を背にした菊丸先輩が、さっき見たときのように知らない顔で笑う。


「また一緒に帰ろーね!」
「え、」
「バイバイ!」
「あ、ちょ」


走って行ってしまった背中をぼんやり見ながら、ふと気付いた。


(送ってくれた...?)


まさかね、と繰り返して、また一緒に帰ろうなんてそんな機会もうないと思う、と繰り返して、その日最後に高鳴った胸の音には気のせいだと蓋をした。




**


桜がひらひらと舞って薄ピンクの色紙のようにすっきりと晴れた春空によく映えている。薄く伸びた白い雲とコバルトブルーみたいな空が、窓の外にどこまでも広がっていた。校庭に立ち並ぶ桜並木はたまに吹く風に吹き上げられて、春空を一気に駆け上がるように舞い上がる。そんな春の陽気にふと思い出したみたいに、気紛れに小鳥が囀ずる。麗らかな午後だった。


まさに春爛漫。


(綺麗ー)



休み時間に教室のそこかしこで女子達のお喋りの花が咲く中、窓の外に見えた景色に思わず目を奪われてぼんやりと見つめる。

どうしてこうも四季のなかでも春というものは、柔らかく朗らかで心が和むのだろう。きっと陽気と温度と景色のせいだわ、と一人結論付ける。4月は一年のなかでも、好きな方だし親友がよく似合う季節だから好きだ。


そういえば、誕生日がそろそろ近い。友達に春生まれだと言うと大小反応の差はあれ皆一様に驚く。理由は夏生まれだと思っていた、かららしい。自分でも、春よりは夏生まれっぽいなと思う。


そう言えば、
(菊丸先輩は、冬っぽいかも...)


その自分の思考にはっとした瞬間、すぐ隣で名前を呼ばれた。


「朋香!」
「わっ!」

びっくりしてトリップしてた思考回路から現実に戻る。目の前で4つの瞳がこちらを見ていた。


「どうしたの?ぼーっとして。何回も呼んだのに全然反応しないし」
「あ、ごめん、ちょっと、桜綺麗だなーって」


嘘じゃない。本当。でも、無意識に浮かんだ人物を急いで頭の中から追い出す。この前からおかしい。あれ以来会ってもいないのに、帰り道で捨てネコを見つけては、菊丸先輩みたいと思って、ダブルスの試合を見てはなんか違う、と首をかしげて、赤茶の髪を校舎で見かけてははっとして立ち止まる。


(おかしい、絶対におかしい...!)


「朋ちゃん、大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫!」


そう、大丈夫。大丈夫に決まってる。たまたま偶然何故か不思議なことに世にも奇妙なことに、突然あの先輩の陽気な笑顔を春の陽気にうっかり重ねてしまっただけで、深い理由はない。
と同時に春っぽくない、だけど温かそうな和らいだ瞳と微笑んだ顔も思い出してしまって、急いで頭の中でぱっぱっと消しにかかる。心臓までざわざわしてきて、どうしてか少し苦しくなってきて、いよいよ固まった。


(...違う。そんなはずない)

とくり、とくりと秘かに鳴る心臓に知らないふりをする。


心配気にこちらを見る桜乃に笑い返して、あのとき菊丸先輩が言っていた"また今度"は、来ないに決まってる、と自分に言い聞かせた。



**


夕食の買い出しにといつもは行かない家から少し遠めのスーパーに立ち寄ったのがいけなかった。


息を切らして走りながら、後ろから追いかけてくる足音に右に曲がる。


(最悪!!!)




もうすぐスーパーが見えてくる、というところで若い高校生くらいの二人組の男に肩を叩かれた。何だろうと振り向いて卑下た笑みを浮かべる男達に、一瞬で背筋がぞっとする。


「今暇〜?」
「中学生?かわいいね〜オレらと遊び行かない?」
「行きません」
「え〜そんなこと言わないでさ〜楽しいって!」
「ツインテールとか今どき珍しい〜よく見たら結構カワイイし!」
「行かないって言ってるでしょ!」


スッパリ断って背中を向ける。けれど、突然捕まれた手首に痛みが走って、腕を振り上げた。


「イッテ!」
「あ...」

爪があったのか、手の甲を押さえて蹲る男に隣に立つもう一人の男が目付きが変わったように睨んでくる。


「テメー」

本能がマズイと思った。伸びてくる手を振りきって走り出す。


スーパーの前を素通りして路地に入る。この辺りは人通りが少ない。やっぱりいつも行っているスーパーにするべきだったと後悔してももう遅い。

体が指先まで冷えていくような感覚に、どんどん背中が寒くなっていった。



「はあっ、はあっ」


思ってたよりしつこい。運動部なのかもともと体力があるのか知らないが、まだ追ってくる気配に足が震える。

もう一度右に曲がったところで見覚えのある光景に、一人の人を思い出した。夕空の下で見た柔らかな瞳を思い出して涙が出そうになる。どうして、思い出すのはあの人ばっかりなんだろう。こんなとき、いてくれたらいいのに。居て欲しいのに。

怖い。怖い。


(菊丸先輩...!)


「へへっ、捕まえっ!」
すぐ真後ろで聞こえた声に背筋が凍ったとき、横を走り抜けようとした左の路地から、人が出て来て伸ばされた腕にぐいっと腕を引かれる。

呼吸が止まった。




「ねえ、この子に何してるの?」

突然聞こえたその声に聞き覚えがあって、寧ろ今一番聞きたかった声に振り向こうとした瞬間、後ろから回った腕にグッと肩を抱かれて引き寄せられた。

心臓が引っくり返るように跳ねる。


「あんだテメー?」
「邪魔すんなよ」

睨みを効かすナンパ男に震えるより先に、後ろから
するピリピリした空気に身動きができなかった。


(...怒って、る?)


だけど、守るように回された腕は優しくて震えていた体から少しずつ力が抜けていく。安心と戸惑いと鼓動の音がぐるぐると体の中を巡っていた。


「おいコラ聞いてんのか!」


無遠慮にこちらに伸ばされた手に思わず肩が震えたとき、頭の上で低い声がした。


「触るな」


心臓が止まったかと思った。そんな声、一体あのいつも快活に笑っている先輩のどこから出してるのと。

静かに落とされた低く怒気を込めた声に、こちらに伸ばしていた男の手が止まる。ひくりっと男が頬を引きつらせた。

なに、なんなの、一体。


「行くよ朋ちゃん!」
「え、あ、ちょっ!」


ぐいっと手首を捕まれて振り向いた先で、やっぱりそれは先輩の背中で、ぐんっと引っ張られたと思ったら街のなかを走り出していた。

後ろでナンパ男が何か叫んでいる。でも、もうそれもあっという間に聞こえなくなった。


捕まれた手首が熱くて熱くて、今が春なのが信じられなかった。





「はあっ、はあっ、...は、速すぎ」
「ごめん、ちょっと飛ばしすぎた。大丈夫?」


どこかの公園に入ったところで立ち止まったまま肩で息をする。あんなに全力疾走したのいつぶりだろう。若干膝が笑ってる。

覗き込まれる気配に、半歩下がって恐る恐る顔をあげる。


「...菊丸先輩、なんで」
「何もされてない?」
「え?」
「大丈夫?何か、傷つけられてない?」
「あ、大丈夫、です」

暫く強張った顔で私を見つめたあと、菊丸先輩が大きく深く溜め息を吐いて肩を落とす。


「良かったあ〜」
「...」
「ごめん、オレもっと早く助けられれば良かったんだけど、朋ちゃんめちゃめちゃ速くて」
「...」

心底安心した顔をしてこちらを見た菊丸先輩が、真顔になって、そっと、慎重にぽんっと頭に手を置いた。



「怖かっただろ?」
「...っ」

膝が震える。走ったからじゃなくて、怖くて、本当は怖くて、何か言葉を口にしようとした唇も震えていた。


「あ、...う、っ」


頬に伝った涙に、強がりたかったのにダメだった。
さらさらと涙が流れる。

何故か菊丸先輩が凄く痛いみたいな顔をして顔を歪める。ゆっくりと伸ばされてやんわりと抱き込まれた体に、震えながら腕を上げて、ぎゅうっとしがみついた。


「...こわかっ!った!」
「大丈夫だよ、もう大丈夫だから」


ぽんぽんと優しく背中を叩かれるリズムに、泣きたくなんかないのに涙が止まらなかった。


こんなに広い肩をしているなんて知らないし、あんな知らない声色で肩を抱く先輩は知らない。真面目な顔をする先輩も、私が知らない怖い顔をする先輩も知らない。


でも、この腕の温かさに何より心の底から安心した。それだけで充分だった。


もう、知らないふりはできない。





**


恋をしている女の子はかわいい。誰かを想ってくるくると変わる表情も、相手の一挙手一投足に一喜一憂し、可愛くなろうと頑張る姿はとても魅力的だ。


でも、私にはどうすればいいか分からない。見つめるだけで切なくて、声を聞くだけで苦しくて、笑顔を見るだけで幸せで、そんな気持ちにどうやって向き合えばいいか分からない。


必要なことは素直になることなんだろうけど、いつ、どこで、どうやって?


友人には背中を押して、恋は全力なんて言えるくせに、自分がいざその立場に立ったら右も左も前も後ろも分からないくらい、相手の気持ちも自分の気持ちも雲を掴むみたいに難しい。


みんな必死なんだ。恋をする女の子は、必死に、手繰り寄せるように、絡まった糸を解いてたった一人その先で繋がっている人を見つけようと、こっちを見てと必死に恋をしている。


私も、そんな女の子になりたい。そんな恋がしてみたい。たった一人、この人だけと思える恋がしたい。



あの日、もう一緒に帰る機会なんて中等部と高等部にいる私達には、というかそもそも恋人でもないのにそんな"また今度"は来ないだろうと思っていたのに、その日は突然来た。なんの前触れもなく。



「...なんでいるんですか?」


その日も委員会で帰りが遅かった日。高等部の校門から出てきた、部活帰りの菊丸先輩にばったり会った。あの日から凡そ一週間ぶりの先輩だった。


「酷い!ここオレの校舎だよ!部活帰り!」
「みたいですね」


思わずそっけない態度が出てしまって気まずさに視線を逸らす。先輩から気遣わしげに心配しているような空気が伝わってくるのに、もう大丈夫ですとも、この前はありがとうございましたすら言えない。

思いっきり菊丸先輩の腕の中で泣いてしまったのが、忘れたいようで忘れられなくて、気恥ずかしさと気まずさに目が見れなかった。あんな泣いたのいつぶりだろう。あまつさえ体温とか背中を叩く手の感触まで思い出してしまって、赤くなってませんようにと必死に心の中で唱える。

一週間ぶりなのに、せっかく会えたのに、全然可愛くなれなくて鼻の奥がツンとする。


(今、凄い嫌な女の子だろうな...)


俯こうとした先で、菊丸先輩の隣にいる人に気付いた。


「大石先輩!」
「やあ、小坂田さん。久しぶり」
「こんにちは。部活お疲れ様です」
「ありがとう」


そう言って大石先輩が隣を見て、突然くすくすと笑い出す。何故か拗ねたように口を尖らせてそっぽを向く菊丸先輩に、さっきのこと怒ってるのかなとちょっと不安になる。
気付かれないように様子を伺っていると、大石先輩が菊丸先輩の肩口で何か呟いた。


「なっ!バカ!言うな!」
「はは、頑張れよ。じゃあ、小坂田さん英二のことよろしくね」
「え?」
「こいつ、ずーっと一緒に帰りたかったらしいから、小坂田さんと」
「大石ー!!!」
「....」


小さく笑って帰っていく大石先輩に、菊丸先輩が大きな声で叫ぶ。その様子に疎らにいた何人かの生徒がこちらを振り返った。


こちらに背中を向けて肩で息をしていた菊丸先輩が
座り込んで「ああもうー!」と言いながら頭を掻き毟る。そのせいで元々跳ねていた癖っ毛が、更に四方八方に飛び出してしまった。


吃驚して少しの間その場に動けず立っていたが、またあのひそひそが胸のなかで囁き始める。トクトクと、トクトクと、それはもう誤魔化しが効かない程に胸を打っている。


これは予感だ。私の、たった一人探している人を知りたくて、夢見ていた日々が、扉をノックする。


ふうっと息を吐いて、慎重にゆっくりと息を吸い込む。ふるふると震える指先に、どうかお願いしますと願いを懸ける。


「....」
「....もしかして、この前中等部のコートにいたのって、..待っててくれてたんですか?」
「....」

微動だにせずその場に蹲る菊丸先輩に、先手必勝と震える足に渇を入れて正面に回り込む。すっかり人がいなくなった校門の前は静かだった。静かに、一人分空けて菊丸先輩の前にしゃがみこむ。赤茶色の髪から覗く耳が、びっくりするくらい真っ赤だった。


うずうずと心の中で扉を叩く音が忙しなくなる。トクトクと鳴る心臓が、赤茶の癖っ毛を見ながら呼吸するように高鳴る。


「菊丸先輩?」
「くっそ、大石のヤツ...」

と、突然菊丸先輩ががばりと立ち上がった。

「わっ!」

しゃがんだままの私は吃驚して見上げるように上を向く。
こちらを見る菊丸先輩の頬はまだ少し赤かった。肩を強張らせて、大きく菊丸先輩が息を吸う。


「知ってたよ!」
「へっ?」

突然そう言って、ぐうっと瞳に力が入った菊丸先輩がまた一つ息を吸った。


「朋ちゃんが好きで弟の世話してるのも、たまに羨ましそうに竜崎さん見てるのも、気強そうだけどずっとおチビと竜崎さんのこと見守ってた、優しい子だってことも!」


じわじわと、自分の赤くなる頬に眦に耳に、気付いていたけど止められる筈がなかった。


肩で息をしながら一息にそう言い切った先輩が、今度は驚くほど落ち着いた声と表情で、ただ真っ直ぐにこちらを見つめる。


「だから、ずっと見てたから、オレがなりたかったんだ」
「....」
「朋ちゃんの、お、うじ....サマ」
「....」


どんどん真っ赤になっていく菊丸先輩に、この前みたいな夕陽はないけど、抱き止める優しい腕はないけれど、この前よりも、ずっとずっとどきどきした。


そのままの姿勢で見上げる私と、真っ赤な顔でこちらを見下ろす菊丸先輩の間には、もう放課後マジックも綺麗だったあの夕陽もない。



正真正銘、これは、恋だ。



「....なれますか?」
「え?」
「私も、...誰かのたった一人の女の子に、なれますか?」

多分私だって負けず劣らず真っ赤だ。それでも、届きますようにと、あなたでありますようにと、願いを込めて見上げる。


僅かに瞳を瞠った菊丸先輩が、満面の笑みで照れ臭さそうに笑った。


「...とっくになってるよ」







いつの日かと、夢を見ている。
私も、恋をして、誰かのたった一人の女の子になれる日がくることを。ずっと、ずっと、夢見ている。

それは、もう目の前に。










I am a dreamer(今、瞼を開ける)










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