この掌、この鼓動


すうーっ、はあーっ、すうーっ、ふあーっ


息を吸う。息を吐く。震える呼吸には気付かないふりをして、携帯を握りしめる掌が震えているのも見えてない振りをして、ボタンを押す。1つ、2つ、3つ、4つ。はふはふと呼吸が鼓動のように震えている。あと7つ押せば、この携帯は彼に繋がる。夜の帳も、朝焼けに滲む空も、遠く深い海さえ越えて、彼に届く。

5つめの数字を押す。


携帯を握りしめる親指が、目の前で震えている。心臓がばくばく高鳴って、油断したら涙が出そうだった。


もうこの繰り返しを10回はしている。たった一つ電話をかけるだけなのに、あまりにもその数字は特別過ぎて、自分の呼吸も震えも私にはままならない。

はっ、と大きく息を吐いて窓の向こうに広がる無数の星が煌めく夜空に向かって叫ぶ。勿論心のなかで。



(か、かけられないよーっ!)


じわりと、目尻に浮かんだ涙が濃紺の夜空に滲んだ。



**


「ん」
「へ?」


ずいっと目の前に突き出されたメモに、視線を落とす。暫くぽけっとそのメモを見て、彼を見上げる。前髪が琥珀色をした瞳に涼やかにかかっている彼は、いつもと何ら変わらない表情でこちらを見ていた。きらきらと光っているように見えてしまうその瞳に、ぽっと頬が熱をもつ。

次いで、はっと我に返ってまたリョーマくんの掌の上にあるメモを見下ろした。

何かの切れ端なのか、小さな白い紙が2つに折り畳まれている。うっすらと何か数字のようなものが透けていた。


(何だろう?)

メモとリョーマくんを2回くらい行ったり来たりして、暫し熟考する。そして、はて?と思わず首を傾げた。

「えっと、リョーマくん、これなあに?」
「携帯電話番号」
「誰の?」
「オレの」
「......え?」


数秒遅れて理解したその意味に、思考回路がぴしりと固まる。


(けいたいでんわばんごう、携帯、電話番号、リョーマくんの....?)


「えぇっ!」


ぱっと、彼を見る。
目の前で瞳を眇めたリョーマくんが溜め息を溢した。


「何、そんなに驚くことなの?」
「....」
「来月からまたアメリカ行くし、電話するならここにかけて。教えてなかったでしょ」
「....」
「ちょっと、聞いてんの?」

ぽかーんとリョーマくんの顔を見つめる。器用に片目だけを僅かに見開いてこちらを見るリョーマくんは、こちらの反応を待っているようだった。そのことに気づいているのに声が出ない。

メールアドレスは知っていた。エアメールしたことも何度もある。ほとんど私が一方的に送って、たまに彼から返事が返ってくる程度だけれど、受信したメールは全て保護付きのまま保存している。

でも電話番号は知らなかったのだ。勿論、かけたこともない。


(でんわ、ばんごう....)


何も言わないのを訝しく思ったのか、諦めたように溜め息を吐いたリョーマくんが小さく腰を屈めて顔を覗き込んでくる。その近さにひゅっと呼吸が止まった。恐る恐る視線を合わせると、僅かに彼が瞳を瞠る。


「いらないなら別に」
「いっ、いります!」
「...あ、そう。じゃ、はい」


ぽとり、と掌に小さな紙が落とされる。何の変鉄もないその小さな紙が、まるで宝物のように瞳に写る。
じーっと見ながら数秒感動に浸って、はっとして彼を見上げた。


「...っ、いいの?」
「何が」
「私、この番号、持ってても...かけても、いいの?」


ぱちりと瞳を瞬いた彼が肩を竦ませた。


「いいんじゃない、別に」


その言葉にぶわーっと足下からふわふわした幸福感が押し寄せてくる。
すたすたと横を通り過ぎて行ったリョーマくんを追いかけられないまま、緩んでしまう頬を我慢できず掌に収まっているその小さな紙に、埋まるようにそっと顔を寄せた。




それから一ヶ月近く。何度も電話をかけようと思った。でも、これといって用事もないのに電話をかけるのは憚られて、まだ一度もかけられたことがない。増して、ただただ声が聞きたくて電話をしましたなんて、到底言えるはずもなかった。

そもそも、彼はどういう意図でこの電話番号を教えてくれたのだろう。何か緊急事態のときや、リョーマくんに連絡をとりたいけれど連絡先を知らない青学の人がいたとき、パイプ役として伝える役目だろうか。それとも、それとも何だろう?


(...だめ、かな)

途中まで数字を押していた手が止まる。


電話一本さえ理由を探してしまう。何故教えてくれたのか。理由なんかなくたってかけていいのか分からない。電話をかける理由があれば、堂々と声を聞ける。けれど、いくら考えてみても理由は見つけられなかった。


「ううぅぅ...どうしよう」


俯けた顔を体育座りをした膝に埋める。膝の横でカーペットの上に流れるように落ちた長い髪が、まるで今の気持ちのように萎れているように見えてくる。


馬鹿みたいと思う。臆病なところはまだ治っていない。いつまでも、一人の人に一喜一憂する心も変わらない。彼に恋をしてから、私は何も変わっていない。

「はあ....」

大きく息を吐いた。

床に置いたままの携帯の画面をするすると指でなぞる。膝に顔の横を付けながら、もう覚えてしまった11桁の数字を頭のなかでなぞる。次の瞬間には、脳裏に低い声が蘇る。


聞きたい。本当は声がとても聞きたい。ただそれだけなのだ。


「いいんじゃない、別に」と言ったリョーマくんの表情(かお)を思い出す。そして掌にあるメモを見つめて、じわじわと沸いてくるこのどうしようもない気持ちを、もういっそ解放してしまいたくて、ゆっくりと顔をあげた。



「よしっ!」


正座をして深呼吸をする。数字を押していく。ひとつひとつ押す度に鼓動が速まっていく。手はやっぱり震えてしまう。あと2つ。あと1つ。震えてしまう指を見つめながら、最後のそのボタンを押した。


コール音が響く。その音がまるで永遠のように聞こえてくる。心臓の音と混ざり合うコール音が、こんなにも違った音に聞こえてくる事実に、またさらに鼓動が速まる。

3回鳴ったところで、それは唐突に繋がった。


『...もしもし』


心臓が止まってしまったかと思った。

(う、わあ!リョーマくんだ...!)


「あ、ああああのっ、えっと、りゅ、竜崎です!」
『分かるよ当たり前でしょ、画面に出るし』
「あ、そ、そうだよね!」
『何、またなんかドジでも踏んだの?』


その言葉に呼吸が止まる。


やっぱり、理由がないとだめだったろうか。

俯いた先で、膝の上で握りしめられた携帯電話番号が書かれたメモを見つめる。

「えっと、あの」
『....』


何かを言おうと口を開いたのに、結局その口は何も発することなく閉じてしまった。少しして電話越しに溜め息が溢される。その音に肩が跳ねた。


『てかさ、遅い』
「...へっ?」
『オレ、この番号渡したのもう1ヶ月くらい前なんだけど』
「....はい」
『それで、なんでかかってくるのがこんなに遅くなるわけ?』
「....だっ、て、それは」
『何』

息を吐くように聞き返してくる、その声色が何故か優しげに聞こえる。とうとう心臓だけじゃなく耳まで可笑しくなってしまったのかもしれない。

思わず言葉に詰まったのは、予想外の反応にも戸惑って、正直に言うのもなんだか情けなかったからだった。

「電話をかける、理由が、見つからなくて」
『それいるの?』


その言葉に息が止まる。いらないの?

もうこの数分間で何度目か分からない溜め息が聞こえた。


『そりゃしょっちゅう掛けてこられたら困るけどさ、アンタ分かってる?この前言った意味』
「...意味?」
『普通男が付き合ってる女に携番教えてかけていいって言ったら、理由なくてもかけてこいって意味じゃないの?』


何まさか緊急連絡先だとでも思ってたわけ?

その言葉に何も返せず正座をしたまま固まる。


頬に充てている携帯が熱い。けれどそれ以上に頬が熱かった。


『どうせ、アンタのことだからまた余計なこと考えてたんでしょ』
「....」
『ったく、何のために渡したと思って...ねえだからさ、聞いてる?』
「....」


本当に馬鹿だと思う。

けれど、どうしよう、私、この人がどうしようもなく好きだ。


震えてしまう掌に力を入れて、唇を開く。


数多の星が耀く、その遥か先にいる人。この震える鼓動の音さえも、声にのせて届いてしまえばいいのにと思った。



「リョーマくん、あのね、本当はね----」







(全てがあなたのもの)












人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -