Blue tears


"心が見えなくて 不安な日もあった
誰かを愛する意味 自分なりに決めた
すべてを信じ抜くこと"


昔、街でそんな歌詞の歌を聴いたことがある。初夏の日に、雑踏の中で聴いた。それは映画の主題歌で、女性歌手が綺麗な歌声で歌い始める。
あのときは、まだ恋なんて知らず透き通るように響くその意味も、歌声も特別心に留まることはなかった。


けれど、今なら少しだけ分かる。
誰かを想い、笑い、傷付いて、涙を流し、支え、また相手の傷を癒し、癒され、立ち止まっては幾度も幸せに笑う。誰かを愛しく思うとは、無償の信頼でありそこに理由なんてないのかもしれない。



**


「桜乃、終わったの?」
「うん、これで最後」


ちょうど開いていたアルバムを捲る手を休めて振り向く。エプロンを外して夕食の片付けを終えた母が、部屋の入り口に立っていた。手元に置かれたアルバムを見て、微笑んだ母が部屋に入ってくる。

それは、色褪せてはいるものの、大事に取っておいたことが分かる小さなアルバムだった。他にもいくつか出てきたアルバムは、側に置かれたダンボールの中に入っている。
どれも、幼稚園のときのものもあれば、中学生のとき、高校生のときのものから成人式の振り袖を着たものまで、丁寧にとってあった。数日後には長年置かれていたこの部屋を出て、新しい家へと運ばれる。


隣に座った母が、懐かしそうに頬を緩めた。


「あら、懐かしい」
「これ、私がまだ小学生の頃のアルバムだよ。よく取っておいたね?」
「当たり前じゃない。親っていうのは子供がいくつになっても、こういうのは思い出に取っておくものなのよ」


懐かしさを滲ませながら朗らかに笑う母に、照れ臭さくなる。母の笑い皺を見ながら、小さい頃からずっと見守ってくれていたんだと感じて、少しだけ鼻がつんとした。


「こんなに小さかった桜乃も、誰かのお嫁さんになる日が来たと思うと、感慨深いわねえ」


桜が咲いた公園のブランコに乗りながら笑っている、小さい頃の私を見ながら、母がくすくすと笑う。私自身は、この写真を覚えていない。まだ小学生に上がったばかりなのか、わたしは小さな掌でブランコの鎖を力強く握りしめながら笑っている。多分、母は私が覚えていない私をたくさん覚えているのだろう。いつか、私もこんな風に、自分の子供の懐かしい記憶に笑う日がくるのだろうか。


「ねえ、お母さん」
「ん?」
「私、大丈夫かな..」


アルバムに置かれた母の手を見ながら、そっと溢す。この部屋を片付けながら、緩やかに徐々に面積を増していく気持ちを整理するように、思い出を仕舞っていた。けれど、思い出を仕舞っていけばいく程、小さい頃から居たここを出る日が近づくほど、気持ちが揺れる。何が不安なのかも、自分ではよく分からない。何も不安に思うことはないはずなのに。傍にいる未来をずっと願っていて、それがもうすぐ叶うのに。ただ、何故か、胸の中がゆらゆらとずっと揺れていた。


「そうね、それは桜乃だけが一人で考えても分からないかもしれないわね」
「..え?」


顔を上げると、母が慈しむような瞳で私を見ていた。その温度に、胸の中にあるゆらゆらが更に水面(みなも)を揺らすように揺れる。根拠のない安心感に、ある記憶が脳裏に浮かんで来た。


一度だけ、彼とメールも電話も、勿論会うことさえ途絶えた時期があった。何も話そうとしない私に問いかけることもせず、ただいつも通りの母でいてくれた。それが彼にもう一度会うことになったとき、そのことを告げたあのときもこんな風に笑ってくれた。「いってらっしゃい」と、送り出してくれた。


小さな小さな頃から、私の手を握りしめて、いつもこんな風に母はいてくれた。膝を向き合わせるようにこちらを向いた母が、一句一句心に届くように話始める。


「誰かを愛して、その人の傍にいることを誓い合うことはね、一人ではできないことなのよ。あなたがたった一人、傍にいたいと願っている相手がいて、初めてできることなの」


二人しかいない部屋にその声は真っ直ぐに届いた。



「結婚っていうのは、彼が不安に思うことも、幸せに思うことも、桜乃が辛いことも、嬉しいことも、その人と分け合って支え合うことよ」
「....」
「だからね、あなたが一人では分からないことは、きっと二人なら分かることかもしれない。その人しか、いないのよ」


ゆらゆらと、水面が揺れる。母の表情(かお)が、ゆっくりと揺れていく。


「大丈夫よ、彼ならきっとそんなあなたも立ち止まって受け止めてくれるわ。だから、話してみなさい」
「...っ、おかあ、さん」


ぐらぐらと光に揺れる視界が、手の上に置かれた母の温かい掌に耐えきれずに、涙になって晴れていく。


「本当にもう、いくつになっても泣き虫ねえ」
「そ、んな、こと、ないもっ..」
「はいはい」
「ありが、とうっ...」

背中を優しく叩かれる。こんな風に、この温もりを感じることも、もしかしたらもうないのかもしれないと思っていた。でも、きっと母はいつでも仕方ないわねと笑いながら、ここにいてくれる。膝に落ちる涙の滴が、ゆっくりと心の霧を晴らしてくれるようだった。


「幸せになるのよ、桜乃」



その夜、私は母に向けたたくさんの感謝と愛しさにいつまでも涙を流した。








Blue tears(愛の滴)








歌『Precious』/伊藤由奈より





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