君は知らない
例えば、笑った表情(かお)、テニスに直向きなところ、気が弱そうだけどちゃんと自分の意思を持っているところ。それから、誰かを思いやって一緒に泣いてしまうところ。あとは、いつも真っ直ぐに想ってくれるところ。
きっと、君には言えないオレだけの秘密。
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「なあ越前、男は時には素直になることも必要だと思うんだよ」
「...」
「そりゃ勿論、オレのように寡黙で常に堂々と男らしくしていることも大事だ。だけどな、好きな女の子の前ではそれだけじゃ足りないわけ!分かるか?」
「いやさっぱり」
がっくりと肩を落とす桃城を通り過ぎて、すたすたと部活帰りの道を歩く。
「ちょ、ちょっ待てよ越前!お前このままじゃ誰かに掻っさらわれるぞ!」
「何がっスか?」
「竜崎さんに決まってんだろ!」
止まりそうになった足を意識して気力で動かす。
「..別に、」
「そんなこと関係ないとか言うなよお前。特に絶対彼女の前で」
関係ないなんて思ってない。嫌に決まってる。でも、もうこの口下手なのは筋金入りで素直なんて言葉には最も縁遠い場所で生きてきたのだ。今更どうやって直せばいいのか分からない。
「何もその性格をそっくり直せって言ってるんじゃないんだよ。たまにでいいから自分の気持ちを伝えてやれって言ってんのオレは!」
「...」
自転車をカラカラと転がしながら呆れ半分心配半分で話す様子に、気まずくなって意味もなく肩にかけたテニスバックをかけ直す。
お互いの分かれ道でだめ押しとばかりに、「いいか!後で後悔しても遅いんだからな!」と捨て台詞を言ったあと、桃城はそのまま自転車に跨がって住宅街の角に消えていった。
「...はあ」
思わず溜め息を溢す。頭に手をやってぐしゃりと掻いたあと、踵を返して自分も自宅へと足を進めた。
−−竜崎と初めて喧嘩をしてから、3日が経っていた。
**
事の発端は、部活が終わって二人で帰路についた日何気なく竜崎が口にした言葉だった。
「リョーマくんって、初恋はどんな人だったの?」
内心少しぎょっとしながら然り気無さを装って、竜崎の表情(かお)を確認する。テニスバックと通学鞄を肩にかけた竜崎は、純粋に興味があるのかそれでも少し緊張したようにこちらを見ていた。視線がぶつかって慌てて目を逸らされる。
「忘れた」
「へ?」
そんな返事が来るとは思っていなかったのか吃驚したように再びこちらを見た竜崎に、努めて冷静に続ける。
「何?」
「えっと、忘れちゃうものなのかなと、思って」
「竜崎は、覚えてるの?」
本当に驚いているのか大きな瞳を瞠る様子に、少し気まずくなる。早く話題を変えようと投げた質問に瞬間しまったと思った。
「うん、覚えてるよ」
「へー」
いるのかと思ったのが正直。ほんの僅か期待していたのも正直。
「けんちゃんって子でね、よく遊んでたの」
隣からくすくすと笑う声に何となく面白くなくなる。そんな自分に内心で驚いた。懐かしそうに少し照れ臭そうに笑っている理由が自分でないことが、こんなに気になるなんて思わなかった。初めてそんな話を聞いたからかも知れない。自分で聞いたくせにだんだんと機嫌が悪くなっていく。だから、言ってしまった。自分でも無意識で、止める暇もなく、ついそんなことを。
「残念だったね、オレがそのけんちゃんじゃなくて」
しまった、と思った。今度こそ。気にしていない振りをしようと余計な感情を殺したような素っ気ない声色は、自分でも驚くほど冷たいものだった。最悪だと思いながら立ち止まる。隣を歩いている筈の竜崎がいない。数歩後ろにたち止まったままの彼女をそっと振り返った。
そこに、傷ついたように瞳を見開いて立ち竦む竜崎を見て、一気に後悔が押し寄せてくる。どうしてこうも上手く言葉にできないのだろう。
「それは、どういう意味?」
震えそうになる声に力を込めている様子に、ますます傷付けたことが分かって掌を握り込む。けれど、意味を説明するにも上手く言えなかった。ただ、面白くなくて、竜崎が自分の知らない男の話で照れ臭そうに笑っているのが。けれど、そんなことを言えるはずなかった。沈黙が流れて、竜崎が歩き出す。静かに隣に立った彼女が、そっと元気のない声で言った。
「....ごめんね、今日は、先に帰るね」
思わず顔をあげたけれど、目の前には瞳を濡らして唇を噛んた竜崎の横顔が映っただけだった。呼び止めようとして、また上手く言えずにそれでもこのまま帰したらきっと部屋で一人で泣くことが簡単に予想できて、背中を向けた手首を辛うじて捕まえる。
「ごめん、竜崎、今のは」
「...大丈夫、私がずっと、私だけ好きなのかなって、分かってたから」
その言葉に唖然として握った掌から力が抜ける。そんな風に思わせていたなんて気づかなかった。一度堪えるように肩が震えて、それでも涙は溢さずにそのまま竜崎は走って行った。
さっきまで捕まえていた掌を広げて、ぎゅっと力任せに握る。
(最悪だ、)
知らなかった。いつも、そんな風に思いながらそれでも気付かれないように笑っていたなんて。
そんな訳ないのに。あいつだけなんて、そんなことあるはずがないのに。でも、伝えたのはたったの一度きりだった。それ以外何も自分から伝えたことがない。
「くそっ...」
**
それから4日、避けられている。竜崎に。初めてだった、こんなふうに竜崎から避けられることは。付き合ってからする会話のほとんども、彼女から話題を振ることが始まりで、自分はそれに対して返事をしたりからかったりすることが常だった。だから、向こうが背中を向けてしまったときにどうすればいいのか分からない。
校舎で見つけて声をかけようとしても、こちらに気づくと直ぐに逃げてしまう。それの繰返し。そして自分の様子と竜崎の様子がおかしいことがバレて、昨日の放課後は桃城にまで心配された。
部長の海堂もそうだが、桃城も根が面倒見が良いことで後輩に慕われている。何だかんだと引き際は弁えている桃城だが、今回は首を突っ込むことに決めたらしい。余計なお世話だと言い切れないくらいには、桃城が後輩として竜崎を気にかけていることを知っていた。
例えば今の自分にはいっそ嫌味にすら思えてくるレディーファーストを具現化したような、同じくテニス部のOBである男だったら、今回のような事態にはならないのだろう。つくづく肝心なことは言えない自分の性格に辟易してくる。
テニスはできても、格上の相手でも負ける気などせずプレーできても、あいつのことだけが上手く立ち回れない。そんなこと、きっとあいつは知らないんだろう。いつも予想の斜め上を行く彼女の行動と、あいつに関わって初めて知る自分の感情は、とても厄介だった。
頭をテーブルに投げやりに伏せて、思いっきり溜め息をつく。
「竜崎さん、多分不安だったんじゃねーの?」
「だろうねーおチビ言葉足らずだから」
がやがやと学生や社会人で賑わう駅前のファーストフード店。目の前でポテトをかじりながら、桃城と菊丸−何故か今日はこの先輩までいるのだ−が頷き合っている。
昨日の帰りに男の理想像みたいなものを諭されて、相変わらず捕まえられない相手に少し焦っていた放課後、突然二人に両側から肩を組まれてここに連れてこられた。部活終わりに男テニの面々と来ることがある行きつけのファーストフード店。3つめのバーガーを腹に納めた桃城が、空になったのかドリンクの氷をからんと鳴らしてテーブルに置く。
「お前好きだとか言ったことあんの?」
「えーないでしょー」
「ちょっと」
黙って聞いてれば。
「じゃあ、あんのかよ?」
「....」
沈黙を肯定だと受け取った桃城が意外だと言わんばかりの顔をする。それにむっとしながら、あの空港での出来事が脳裏を過った。あのときも、伝えてくれたのはあいつだった。
ポテトを食べていた隣に座っている頬に絆創膏を貼ったその人が掌をぱんぱんと払いながら、こほんっと改まったように咳をする。
「あのな、おチビ。女の子は言葉が欲しいものなんだよ。まして、おチビみたいに分かりにくくて女心が分からない奴を相手してると余計不安なわけ。大事なんだろ?だったらちゃんと言葉で伝えてあげろよ」
珍しく真剣な顔をした菊丸がそう言ったあと、いつものようにニカッと笑った。横で歯を見せて笑う桃城は「当たって砕けろ!」と肩をバシバシ叩いてくる。いや、砕けたらだめだろうと思いながら「桃先輩、痛い」とその手を払った。悔しいからこの人達には言わないが、エールを送られたらしいことに内心で一応礼を言う。
(明日は、絶対に逃がさない)
**
次の日、校門に繋がるテニスコートの裏手で、壁に寄りかかりながらいつだったか母親に言われた言葉を急に思い出していた。
『女の子はね、幸せなときも笑うけど、辛いときも笑うのよ。あんたは、それに気付いてあげる男の子になりなさい』
そのあと、母親はまあ無理かもねえと言いながら居間で寝転がる親父の背中を見て溜め息をついていた。
今までも、そんなことがあったのかもしれない。気付いていないだけで。そして、彼女は気付かせないように笑っていたのかもしれない。
何も伝えていなかったから。
だんだんと暮れていく夕空にそんなことを考えながら、伏せていた視線をあげる。
右手からこちらに歩いてくる気配に寄りかかっていた壁から背を浮かせた。
「リョーマくん...」
4日ぶりくらいか、そこには部活と自主練を終えた竜崎がいた。
すぐに走り去った竜崎に、テニスコート裏手のいつも自主練をしている場所で追い付く。思いがけず予想よりも速くて、それでも息を切らした竜崎の手首をあのときと同じように捕まえた。
「竜崎!」
「...っ」
肩を竦ませて、竜崎が一歩後ろに下がった。
「分かってるの」
「え?」
突然口火を切った竜崎とその言葉に思い当たる節がなくて思わずそう返していた。
「...いつも、私ばっかり、好き、だから、告白も私からで、追いかけてばかりで、私リョーマくんの気持ち考えてあげられなくて、本当に、わたし、」
もう完全に涙に震えた声でそれでも涙を溢すまいと目の縁に涙を溜めた様子に、耐えきれずに腕を引き寄せて抱き締めていた。腕の中で小さな肩が強張る。その先を言わせるわけにいかなかった。
「違う」
「え?」
「アンタだけ、好きなわけないでしょ」
頼りなくシャツを握る手に胸が締め付けられて、肩に顔を埋める。真横で髪が頬を掠めた。いくらなんでも、これから言うことを面と向かって言う勇気なんてない。
「嫉妬した」
「へっ?」
「アンタが、オレ以外の、好きだった男の話を楽しそうにしてるの見て嫉妬してあんなこと言った。ごめん」
「...」
「アンタは、自分だけがってあのとき言ってたけど、そんなわけないじゃん。オレは、」
ぐっと一瞬言葉に詰まったが、あの泣きそうな顔が脳裏に浮かぶ。
「オレは、アンタしか興味ない」
静まり返ったテニスコートと放課後の中で、やけにそれはやけにはっきりと響いた。
「.....」
「.....」
「ちょっと、そこで黙られると気まずいんだけど」
なおも沈黙したままの竜崎に、不思議に思って顔を除き込む。そこには、顔も耳も首まで真っ赤に染め上げた彼女がいた。驚いているのか固まっている。
「ねえ、大丈夫?」
熟れたトマトってこんな感じだろうか。あまりに真っ赤でついそんなことを聞く。数秒経って、やっとゆっくり竜崎が動作のようなものをしたかと思ったら、突然腕の中にいた体が重力に従ってがくんと落ちた。
「っぶな」
「きゃっ」
聞こえていたのだろうか。固まったかと思えばいきなりふらついた様子に、だんだんと焦りのような呆れのような感情が沸いてくる。けれど、そこで見上げるようにこちらを見た瞳が、羞恥に潤んでいるのに気付いた。
「...び、吃驚して、こ、腰抜けちゃったかも」
「は?」
唖然とする。顔を見られないように隠れるように俯いて腕にすがり付く姿に、僅かに瞳を瞠ったまま固まった。腰が抜けたって、一世一代の気持ちで口にしたのに対して腰が抜けたって、
「ぷっ、はは」
「リョ、リョーマくん!」
笑われた恥ずかしさにか、ぱふんと腕を叩かれる。痛くもなんともないが。
「ははっ、本当、アンタって、飽きない」
「もうっ!」
可笑しさに腹まで痛くなってきて、竜崎の腕をとって立たせたあとそのまま膝を折る。
「...ねえ、あの、ね、本当?」
「え?」
同じように屈んだ竜崎が、俯いてはこちらを見てまた俯いたあと目元を赤らめたままこちらを見た。
「だから、その、」
たまには悪くないかもしれない。素直になるのも。こんな表情(かお)が見れるのなら。
「確かめてみる?」
「へ?」
やっぱり、主導権を握るのはオレがいい。そんなことを思いながら、同じ目線にある瞳を合わせて頬に触れる。これから、この未知の感情に慣れていけばいい。そうしたその先で、今よりは泣かせずに笑っている竜崎がいれば上出来だろう。
吃驚して瞳を瞠った竜崎に、言葉以上に届けと思いながらゆっくりと唇を重ねた。
君は知らない(ぼくの初恋はね)