幸福なる前夜
「準備できた?」
「うん!」
扉の前で膝を折ったまま内緒話をするように、息子と作戦実行前の最終確認をする。3歳の息子は初めての冒険のように、瞳をきらきらと輝かせてその両手には余る大きさの袋を抱えている。
「まずは、ママが扉をそーっと開けるから起こさないように枕元にゆっくり置いてきてね」
「わかった!」
「もし、音を立てちゃったり手が滑っちゃったりしても慌てずにママのところに帰ってこれる?」
「できる!」
満面の笑みで頷く小さな息子に、本当は私もどきどきしていることが伝わらないよう微笑みながら小さなその背中にそっと手を添える。
「じゃあ、いくよ!」
「うん!」
真剣な横顔に愛しさが募って、扉の向こうで眠る人に心の中でそっと話しかけた。口許が幸福に綻ぶ。そっと、ゆっくりと、扉を開ける。
(明日の朝、驚くだろうな...)
明日の朝、息子が小さな両手を目一杯に広げてその胸に飛び込むシーンが脳裏に浮かんで、幸福に胸が一杯になる。
そうして、小さな小さな冒険者は、休息に眠る彼を喜ばせるため、ゆっくりとその一歩を踏み出した。
幸福なる前夜
**
その計画を立てたのはちょうど一週間前。長期の遠征から帰って来てリビングでテニス雑誌を読む彼と、私がキッチンでお昼の支度をしているときだった。
「ねえ、まま」
エプロンを引っ張られる感覚に後ろを振り向く。裾を掴んだ小さな息子に気付いて、一旦手を止めてしゃがんで目線を合わせた。彼にそっくりの瞳がぱちぱちと目の前で瞬く。
「なぁに?」
「ぱぱ、おたんじょうびいつ?」
「誕生日?」
「さっき、てれびでおたんじょうびのおうたがながれてたの」
その言葉にリビングにあるテレビを見る。画面には子供向けの番組の中で、動物たちがバースデーソングを歌っていた。なるほど、あれを見て気になったんだ。そう言えば、今年はこの子が産まれて初めて彼が家にいる年だ。今まではバースデーカードと、タイミングが合えば、年に一度と思って海を越えたその人に回線越しにお祝いの言葉を伝えていた。この子も今年は一緒に祝えるかもしれない。
「次の月曜日だよ」
「....」
どのくらい先か考えているのだろう。「んーと...」と呟きながらまたもぱちぱちと瞳を瞬く様子に自然と笑顔が溢れる。
「あと6回寝たら、パパの誕生日だよ」
「ろっかい」
「うん、ろっかい。いち、にい、さん、よん、ご、ろっかい」
息子の小さな手の指を折りながら、「分かった?」と顔を覗く。こくこくと首を振る様子に微笑んで、ふと思い立って問いかけてみた。
「一緒におめでとうしよっか?」
その言葉に、ぱあっと顔を綻ばせた息子がぴょんっと小さく跳ねる。
「する!」
こうして、リビングにいる彼に隠れるように二人指切りをして、私と息子の初めての秘密計画は幕を開けた。
それから彼がいない時間を縫って、息子とシミュレーションを重ねて当日の計画を確認するようになった。本当は私も初めての息子とのサプライズにどきどきしてそわそわしたけれど、落ち着かなきゃと自分に言い聞かせては深呼吸をする。それでも、顔を近付けて楽しみだね、と息子と小さく笑い合うのはとてもわくわくした。
まだ小さな息子とあまり隠し事ができない自分の性格を考えて(彼が聞いたら全くできないの間違いじゃない?と言われそうだけど)、あまり難しいのはできないから簡単なものにした。
まず、誕生日プレゼントは息子と相談して、見つからないようにこっそりと準備した。数ヵ月前から少しずつ編んだ濃紺のセーターと、息子が描いた彼の似顔絵。これは誕生日プレゼントに。少し目が吊り気味な気もするけれど、テニスボールとラケットを持ったその絵は親の贔屓目も入ってることを抜きにしても、よく描けていると思う。
そしてもう一つはクリスマスプレゼント用に、三人で色違いのご飯茶碗を揃えた。これはお休みの日に息子と雑貨屋さんで選んだもの。付き合い始めた頃は、私が誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントの両方を用意する度に、一つでいいのにと言われたが、街が祝福に染まる素敵な日に産まれたから、別々にお祝いもプレゼントも贈りたくて毎年二つ用意していた。そのうち彼も諦めたのか言わなくなって、結婚した今でもそれは習慣となっている。
そしてここがとても肝心。誕生日の前日の夜、彼が眠る寝室に細心の注意を払ってそっと入り、プレゼントを彼の枕元に置く。誕生日当日の朝彼がそのプレゼントに気付くという流れだ。ここは息子の担当。一番の大役だ。セーターと似顔絵が入った中くらいの包みは、その小さくも頼もしい両手に託されることになった。
けれど、問題が一つ。それは、私が隠し事が本当に苦手なことだった。
**
「パパ、24日の夜ってお家にいれる?」
「とっくに空けてる」
よく晴れた日の午後、私が洗濯物を干している後ろで干し終わったものを畳んでくれている彼が答えた。昔より低くなった声が心地よくて、でも勿論そんなことは恥ずかしくて言えずに振り向く。
「なら良かった。美味しいもの作るから楽しみにしててね」
「ん、ありがと」
心の中でそれだけじゃないんだけどね、と呟いたあと口許を綻ばせそうになって、慌てて表情に出ないようにまた背中を向ける。バレてはいけないのだ。これは、私と息子のとびっきりの秘密だから。
「...ねえ」
その声にどきりとした。
「なぁに?」
(...お願い耐えて私の心臓!)
いつも通りという言葉を心の中で何回も繰り返しながら、背中を向けたまま返事をする。情けないけれど、もしものとき表情(かお)を見ながら嘘をつける自信がなかった。
「最近、」
そう言ったきり、次の言葉が聞こえてこないことを不思議に思って思わず振り返る。洗濯物を畳終えたのか、いつの間にか庭に出れる大きな窓に寄りかかって腕を組んでいた彼が、こちらを見ていた。
「どうしたの?」
「...別に、何でもない」
首を傾げて彼が立っている場所まで近づく。段差もあって普段よりさらに見上げた先に、視線を逸らしている彼がいた。その仕草に、あれ?と思う。
「...リョ」
もう何度も合わせたことがあるのに、不意にこちらを見返した瞳にとくんと心臓が高鳴った。窓枠に手をかけた彼がゆっくりとその顔を斜めに傾げて近付ける。予感がして、あ、と思ったときだった。
リビングから電話の音が鳴り響く。高鳴っていた鼓動が吃驚して、思わず声が出た。
「ひゃっ」
「....出てくる」
面白くない、とでも言うように顔をしかめた彼が溜め息をついて背中を向けた。慌てて赤らんでいるだろう顔を俯ける。いつになっても、恥ずかしい。なんて、可笑しいだろうか。
「桜乃」
思わず顔を上げた先で、唇に温もりが重ねられた。
固まったまま動かない私に、にやりと笑った彼が今度こそ電話をとりに背を向ける。
「〜〜〜っ!」
耐えきれずに両手で顔を覆う。恥ずかしい。悔しい。でも嬉しい。
(...リョーマくんのばか)
こんなことで、当日まで隠し通せるかますます自分が心配になった。
**
そうして迎えた前夜。幸運にも彼には気付かれていないようだった。
「今日の夜だからね。がんばろうね」
「うん!がんばる!」
夕食を終えて「ぱぱと一緒に入る!」と言ってお風呂を済ませた息子と、またもキッチンの陰で決意も新たに最後の指切りを交わす。何度か予行練習をしていることもあって、手順は息子も覚えたし決行はいよいよ今夜。心配の種だった自分自身の性格も、何とかここまで秘密が見つからずに済んでいる。これなら大丈夫そうだとリビングに戻る小さな背中を見て安堵した。
「随分と楽しそうだね」
その声に心臓が跳び跳ねた。
(..どうして、いつの間に?)
彼がお風呂に入っている間に、最終確認のために息子と身を潜めて内緒話をしていた筈。いつも、息子を先にあげて少しだけゆっくりした彼は後からあがる。つまり、ここにはいない筈なのに。
ひそかに一つ深呼吸をして、ゆっくりと振り向く。そこに、お風呂から出て髪が少し濡れたままの、今回の主役がいた。
「お、お風呂早かったんだね」
「まあね、誰かさん達がここ最近妙にそわそわしてるから気になって」
瞳を細めて探るように見つめられる。気付かれていないと思ったのは私と息子だけだったらしい。でも、諦めてはいけない。まだ計画自体は知られていない筈。誕生日の主役は彼なのに罪悪感のようなものが募るが、息子のためにも、サプライズのためにも、彼には悪いけれどあと一日知らない振りをして欲しい。
(..ごめんなさい、リョーマくん)
そっと心の中で謝る。
「えっと、あのね、夜、寝る前に絵本を読んであげる約束をしてたの!最近、ぼ、冒険物に興味があるみたいで!絵本の怪獣を倒す!って張り切ってて!」
「ふーん」
「テニスの試合見て、パパみたいに強くなっていつかは勝つんだ!って言ってたよ!」
「へー?」
苦しい。言い訳が。そして嘘をついていることが。後半は嘘ではないけれど、前半はまるっきり嘘だ。今あの子が興味あるのは絵本ではなくリョーマくんのまねっこだから。目が合わせられなくて彼を正面に一歩シンクに背を向けたまま下がる。なのに、リョーマくんがこちらに二歩近づいた。
(うそうそうそうそ!)
「別に無理に聞こうとはしないけど、」
そうしてまた一歩彼が近付く。只でさえそんなに広くないキッチンでは、その一歩が最後の一歩だった。ゆっくりと、シンクに両手をついた彼が、囲いこむようにしてそのまま顔の横まで口元を下ろす。
「そのパパって、いい加減やめない?」
「ふぇ?」
思わぬ言葉に反射的に顔をあげようとして、その視線が真横にあることに気付いてまた固まった。
「名前がいい」
意図してるのか低く溢された呟きに、肩が震える。リビングにいる息子を思い出して、目の前にある肩に手を置いた。なんか、空気がおかしい。いや、おかしくはないんだけど。こんなことは予想外で、やっとサプライズを目前に控えたところでバレてしまいそうな状況と、彼の思わぬ様子に心体共に追い詰められていた。ちょっとしたパニックに、顔が上げられない。
「あの、気付いたらよくないから、」
「さっき自分の部屋に戻ったから平気」
さーっと血の気が引くような、顔に熱が集まるような、どちらとも言える感覚に肩に置いた手に無意識に力が篭る。鼓動が聞こえてしまうんじゃないかと、呼吸が震えているんじゃないかと、じわじわと瞳が熱くなる。
「桜乃」
だめ押しとばかりに囁かれた普段はそう多くは呼ばれない名前に、堪えきれずにぶわりと瞳が潤む。ずるい。掴んだ彼のシャツは既に皺になっていた。
「....リョーマくん」
「もう一回」
「っ、..リョーマくんっ」
その瞬間、目の前にあった体がすっと離れる。ほっと安心した半面、少し寂しく感じて、そんなことが伝わらないようにひたすら俯く。きっとバレてるけれど。恥ずかしい、一児の母にもなって。もう一度として勝てた試しがないのだ、彼に。
「嫌だった?」
その言葉に思わず顔を上げた瞬間堪えていた涙がほろりと一粒落ちた。リョーマくんがぎょっとしたような、ぎくっとしたような表情(かお)をする。わ、貴重だ、なんてどこかぼけっとしたことを考えていたらそっと頬に落ちた涙を拭われた。
「ごめ、あの、嫌だったんじゃなくて、」
「...悪かった、驚かせて」
ふるふると首を左右に振る。安心したように息を溢す彼に、申し訳なくなる。
「まあ、つまり、何が言いたいかって言うと、さっきも言ったけど、たまには名前がいい」
唖然として彼を見つめる。あのときと同じように、彼が少し気まずそうに視線を逸らした。それは昔から変わらない照れたときの仕草だった。すとん、と気持ちが落ち着いてきてこくりと頷く。なんだ、そっか、そっか、そうだったんだ。だからあのときも、視線を逸らしていたんだ。ふわふわと心が嬉しさに軽くなる。照れ臭いのは彼も一緒なんだ。
「で、今夜あいつと遊ぶときあまり気合い入れすぎて、お互い転ばないようにね」
その言葉に瞳を瞠る。何かあることはもう気付いて、それでも私が言った通り『遊び』だと信じて聞き出そうとはしない様子に、心の柔らかい部分が震えた。
「うん、ありがとう」
嬉しさに綻んだ表情(かお)が綻ぶ。苦笑いとはにかんだような顔を見せて、リョーマくんは寝室に向かった。その背中を見て、母親としても奥さんとしてもまだまだだなあと、一人考える。あんな顔だって、今でもどきどきしてしまう。
と、ちょうど自室から戻ってきた息子が、とてとてと走ってこちらに向かってきた。
「まま!」
満面の笑みでそのときが来たことを喜ぶ小さな体を、溢れた笑顔と両手で受け止めた。
ふと、この子はどんな男の子に育つのだろうと考える。人を思いやれる優しい子だ。彼に似て負けず嫌いで、瞳も寝顔も瓜二つだけれど、この子が大きくなったとき、どうか幸せにしたいと思える女の子に出逢えるといい。明日迎える朝みたいに、一年、また一年とおめでとうを言う度に、そんな未来に近づいていきたい。
「じゃあ、準備して始めよっか!」
「うん!」
一年に一度。大切な人が産まれたことを心から目一杯に祝える日。追い付きたくて追いかけたその背中は、今目の前にある。小さな家族と共に。幸福とは、人の手で生み出すものだと、彼とこの子に教えられた。幸せに、頬が綻ぶ。小さな手をとって、息子と二人笑みを交わす。
そうして、息を潜めて、父の喜ぶ顔が見たくて、好きな人を笑顔にしたくて、小さくも勇敢な息子と私はその扉をゆっくりと開くのだった。
幸福なる前夜(おたんじょうびおめでとう!)