どこまでも広く、どこまでも続く蒼穹。雲ひとつなく、蒼空と呼ぶに相応しい広大さだ。
太陽の恵みが大地に降り注ぎ、肌を撫でる風はほんのりと暖かく、僅かに潮の香りが混じっている。
此処、シンドリアは今日も活気に溢れ、皆が皆が笑顔を零しながら各々の仕事に勤しみ、日々の暮らしを送っていた。
そんな平穏な暮らしの中で、花売りとして懸命に生きる一人の少女がいた。
少女はナマエ。短い腕を精一杯に伸ばし、身の丈に合わない籠を抱えている。その中には溢れるほどの花が詰められおり、熱帯地域特有の綺麗な花々がその存在を主張していた。
今日は朝から盛況だ。花を持ち歩いているだけで呼び止める客が多い。大半は女性の客だが、男性も女性への贈り物として買い求めてくる客も少なくなかった。
ナマエは、ぽつぽつと歩きながら腕の中に収まっている籠に視線を落とした。あれだけ溢れ返っていた花々は半分以下になってしまっている。
ナマエは一旦花を補充しに戻った方がいいもしれないと思案した。きっとこのペースなら午後からも売れるはずだ。そう考えたナマエは、籠を抱え直し、巡らせていた思考を中断させた。そして、籠から目線を上げると、途端に視界が暗くなり、どうしたんだろうと思った瞬間、どんと誰かにぶつかった。
「っ……!」
衝撃は軽かった。籠を抱えていなければよろめく程度で済んだだろうが、何分身の丈に合わない籠を持っているためバランスを崩してしまう。後方に倒れそうになり、どうにか受け身を取ろうとするが、籠があるためそれは叶わず、襲い来る衝撃を耐えるしかナマエには残されていなかった。
ナマエは倒れる寸前で、ぎゅっと瞼を固く閉じた。
「…………、?」
けれども、いつまで経っても衝撃は来ない。いや、来ないどころかほんのりと温さが伝わってくる。
一体何が起きたのだろうか。
ナマエはおそるおそる目を開けた。
視界が明るくなる。そして、ふと目線を上げると、見知った顔が飛び込んできた。
「あ。シャルルカンさん」
「……なんだ、またお前か…。前見て歩かねえと危ねぇだろ」
そうして嗜めるシャルルカンは少し呆れた顔をしていた。それを眼前にしたナマエは慌てて「ごめんなさい」と謝るが、シャルルカンから向ける無言の視線が痛い。ナマエはシャルルカンから目を逸らし、またやってしまったと自己嫌悪に陥る。居たたまれなくなるとはこのことだろうと思いながら、浅く息をつくと、シャルルカンの逞しい腕に支えられていることに気が付いた。そして、つい先程温かいと感じたのはシャルルカンの腕の温もりだったのだと思い立つ。
こうして倒れずに済んだのも、花が無事なのも、すべてはシャルルカンのお蔭である。
ナマエは再度「ごめんなさい」と謝罪し、助けて貰った謝辞を伝えた。
「わたしも、お花も、無事で……本当に助かりました。ありがとうございます」
「ああ。気にするな。でも、まぁ、前は見て歩いた方がいいぞ」
シャルルカンはナマエの支えを解き、自分よりも幾分も背の低いナマエの頭をぽんぽんと軽く撫でた。滑らかでいて、柔らかな感触が指先に伝わってくる。絹のような手触りにシャルルカンは笑みを深くした。
そんなシャルルカンを見て、ナマエはほんのりと顔を赤くした。
「あの……っ」
「ん?」
「これ、御礼に………どうぞ……」
言いながらナマエが差し出したのは花だった。シャルルカンは目をぱちくりとさせる。
「い、いつもお世話になって……その………助けてくださったり、話しかけてくださったり、すごく嬉しいんです。だから……わたしができるのはこんなことくらいなんですけど…………あの……ごめんなさい……」
言葉を紡いでいくに連れてどんどんと声が小さくなり、語尾は掠れるほどの声になってしまっていた。
それでもシャルルカンの耳には届いていたようで、「なんでそこで謝るんだ?」と苦笑を零すと、ナマエが差し出してきた花を受け取った。
その花は綺麗な色をしていた。
シャルルカンがそれを手にした途端、その色はもっと色鮮やかに見えた。目を奪われてしまうのもきっと気のせいではないだろう。
そんなことを考えながらナマエはふと思った。この花の色はなんという名前の色だったのかと奥深くに眠った知識を呼び起こすと、それはチャイニーズコーラルという色だと脳裏に浮かんだ。
「綺麗だな」
「シャルルカンさんにぴったりの色だと思ったので…」
「へえ」
「えっと、色もそうですけど……花も……、」
「花?」
「はい。花には花言葉があるんです。ひとつひとつ意味が違っていたり、色や種類でその意味が変わってしまったり……。あ。もちろん、その花にも花言葉がありますよ」
「花言葉、ね…」
シャルルカンは指先で花を動かしながらそっと目を細めた。
「……なんて花言葉なんだ?」
ナマエは口元に笑みを乗せながら答えた。
「“優しさ”です」
ナマエが発した意外すぎる言葉にシャルルカンは目を見張り、そして、呆れたような、気が抜けたような、そんな笑みを零した。
「俺には似合わねえな……」
「そうですか?」
「……ああ。優しいっていうならお前だろ」
「え……」
「俺なんかよりお前の方が充分に優しいさ」
言って、シャルルカンはナマエの髪を梳くと、耳の上辺りにそっとその花を差した。
「……よく似合ってるぞ、ナマエ……」
「っ……」
ナマエは顔を真っ赤にさせて、慌ててその顔を伏せた。だが、隠すまでもなくその態度を見れば、照れ隠しだということが十二分に窺える。
シャルルカンは薄く笑みを浮かべると、からかうような台詞を楽しげに投げ掛けた。
「なんだァ、ナマエ……いっちょまえに照れてるのか?」
「て、照れてなんか……ないですっ!」
「へえ……つっても耳まで真っ赤だぞ」
「っ……! い、意地悪しないでください!」
「おいおい、どこをどう見たら意地悪なんだ? 事実を言ってるだけだろ」
「意地悪ったら意地悪です! さっきまで優しかったのに……っ、詐欺じゃないですか!」
「詐欺って……」
「本当のことです!」
「お前も言うようになったな」
苦笑を洩らしたシャルルカンはそっと息をつくと、くしゃりとナマエの頭を再度撫でた。
「ほら、もうそろそろ行った方がいいんじゃねえか?」
「え?」
「仕事中だろ」
「あ、はい」
「頑張れよ、ナマエ」
「はい」
頷いたナマエは、じっとシャルルカンを見た。
「あの……本当にありがとうございました」
「ああ。気にするな」
「……でも、その……花が……」
「あー……」
シャルルカンは視線を彷徨させながら、ナマエの髪に飾られている花に目を向けた。そして、しばらく何かを考えてからそれと同じ花をナマエが抱えている籠から掬い取った。
「さっきの花はお前のものだし、取るのは勿体無いからな……こっちを貰っとく。ありがとな、ナマエ」
シャルルカンは無邪気な笑みをナマエに向けた。
それを眼前にしたナマエは目を眇めた。あまりにもその笑顔が眩しくて、思わず見とれてしまうくらいにシャルルカンという男がかっこよくて、自分だけに向けられた笑顔と掛けられた言葉に心が震えた。
彼が今見ているのは自分で、瞳に映しているのは紛れもなく自分なのだ。それが酷く嬉しかった。胸の奥底が熱くなるほどに歓喜した。
ナマエはこの感覚が何かを知っていた。その意味を理解していた。けれども、同時に叶わぬ想いだということも深く理解していた。
シャルルカンは八人将の一人だ。しがない花売りの自分とは釣り合わないどころか身分差がありすぎる。おまけに年も随分と離れている。おそらく想いを告げたとしてもこんな年下の小娘を相手にはしてくれないだろう。それが分かっているからこそ、こうして想うことしかできないのだ。
さりげない優しさに勘違いしそうになってしまいそうになるけれど、それは彼が優しいからであって、好意を抱いているからではない。
ああ、胸が痛い。息が詰まりそうなくらい苦しくて、悲しくて、すごく痛い。
涙が滲みそうになった。じわりの目の奥が熱くなるのを感じる。けれども、ナマエは必死に堪えた。平静を装いながらシャルルカンに向かってにっこり微笑む。だが、心の中は色んな感情に覆い尽くされ、ぐちゃぐちゃに渦巻いていた。それを我慢するだけで精一杯で、とてもではないけれど、この場に留まることはできなかった。
「あ、あの……わたし、そろそろ行きますね」
シャルルカンに気取られないように、震える声を抑えながら言葉を紡ぐ。シャルルカンには、ナマエの動揺は伝わっていないようで、「ああ」と頷くと、「俺もそろそろ行かねえとな」と言った。この場を離れようと、足を一歩踏み出す。そして、横目でナマエの姿を捉え、「じゃあな、ナマエ」と言い、背を向けて去って行く。その後ろ姿を見つめながら、見えなくなるまでナマエはその場に留まっていた。
「……シャルルカンさん……」
愛しい人の名前を小さく呟く。切ないまでの思いを乗せながら、もう一度だけ名前を呼び、そして籠の中の花に目をやった。チャイニーズコーラルの色が視界いっぱいに拡がり、脳裏にシャルルカンの姿が過った。
ナマエはそっと笑みを浮かべた。
やっぱりこの花が似合うのはあなたですよ、と噛み締めるように小さく小さく告げた。
わたしのすべてはあなたの優しさで色付きました
title by 愛嬌