雨あがりの水たまり
二年生になって間もない春。
これは、まだ彼が陸上部だった頃のお話。
今日は、生憎の雨模様。
授業中も身が入らず、私はずっと窓の外を眺めていた。
西の空には微かに青が覗く。もう少ししたら晴れるのかもしれない。
そんなことを頭に巡らせながら垂れる雫に目を向けていた。
生憎の雨模様ということもあるが、もう一つ、私には授業に身が入らない理由があった。
「風丸くん…最近どうしたの?部活来てないけど…」
「えっ…ちょっと、な…」
眉尻を下げ、何か寂しげな表情を浮かべる青い髪を揺らした彼。
そう、最近、風丸くんが部活に姿を現さなくなった。
部活に姿を現さなくなったのは、あの日以来。隣のクラスの円堂くんが風丸くんに声をかけたあの日からだった。
ここ何日か風丸くんは何か悩んでいるようで、私がこうして話しかけても心ここにあらずという感じだった。
陸上部のマネージャーである私は、選手の心理状態も把握しておかなければならない。
でも、風丸くんに「何かあったの?」と聞いてもいつも答えは「何もない。」だった。
「今日は行く。」そう風丸くんは言った。
今日こそは来てくれることを信じて、みんなとは別の場所でジャージに着替え、陸上部の部室に向かった。
部室のドアに手を掛け中に入ろうとしたその時だった。
中から聞こえた声により、私の動きは止まった。
「風丸さん!それ、本当なんですか…。サッカー部に助っ人に行くことになったって…」
妙に耳に残ったその台詞に私は大きく目を見開けた。
一瞬うろたえ、固唾を呑んだ。
その言葉を完全に理解したとき、後ろ髪を引かれたように前に進めなくなってしまった。
ドア越しに聞こえる陸上部の彼らの声。空気が淀んでいるのか、その風丸くんの台詞を境に何も聞こえなくなる。
居たたまれなくなった私は、ぎゅっと唇を噛み締め目の前のドアを勢いよく開けた。
「風丸くん…今の話って…」
目に涙を浮かばせて、震える声のまま、風丸くんにそう問いた。
でも、風丸くんは俯いたまま何も言わなかった。
しかも、彼の来ている服はあのオレンジ色の服ではない。黄色と青色の服。
それは、彼はもう陸上部の部員ではないことを物語っていて。ギリッと歯軋りさせると私は思うがままに走り出した。
「#名字#さん!」
宮坂くんの私を呼ぶ声が聞こえたが振り返りもせず、私はひたすら走った…。
分かってる。私が口出す権利はないんだって。
きっと風丸くんだって必死に悩んだ。それでも頑張ってみんなに打ち明けた。
分かってる、一番辛いのは風丸くんなんだって。
でも、やっぱり好きな人を失うのは嫌。行ってほしくない。
好きだった、風丸くんが。グラウンドを駆け抜ける風丸くんを見るのが大好きだった。私の、幸せだった。
なのに、彼はもう陸上部ではない。サッカー部。
その事実を真っ正面から受け止めることが出来ない私はひたすら走った。
途中、バチャリと水たまりに足が入る。
辺りに、私の脹ら脛辺りにまで水が跳ねる。ローファーに水が染みる。
でも、どんなに足が濡れようと、どんなに身体が濡れようと構いやしなかった。
前髪から雫が垂れ、涙が雨かも分からなくなりながら私は目に手の甲を当てる。
「…っ…風丸、くん…」
嫌い、こんな私が。素直送れない、私が嫌い。
私は雨に打たれながらもしゃがみ込んだ。
もうびしょ濡れになった髪も、制服も、何も気にならなかった。
でも、ある時。私に降ってきていた雨は突然止まった。
バサッという音と同時にポツポツと聞き慣れた音。
私は目を瞬きさせながらも後ろを振り返った。
「風邪、引くぞ…」
「風丸…くん…っ…」
風丸くんはそう言いながら私に傘を差してくれていた。
でも、そう言う風丸くんもびっちょりと濡れている。
それは、急いで探しにきてくれた証拠で。
あんなにも大切にしていた髪が濡れている、それが何よりの証拠だった。
きっと抵抗を感じるのを惜しみ、傘も差さずに探しにきてくれたんだろう。
それを理解した私はまた泣きそうになってしまった。
眉を割りながらも風丸くんの瞳をまじまじと見つめると、風丸くんの表情が歪んだ。
「泣いてるのか…?」
「っ…!な、泣いてなんかいないよっ…」
雨が降る中走ってきて、こんな涙なんかバレないと思っていた。
自分でさえ、涙か雨か分からないくらいだったのに。
これ以上心配かけまいと私はきっと流れているであろう涙と雨を拭い、立ち上がった。
でもそんな私を見てなのか風丸くんはまた顔をぐにゃりと歪ませると、その場に傘を落とし、ぎゅっと私を抱きしめた。
「っ…!風丸くん…」
風丸くんは何も言わないまま黙って私を優しく抱きしめてくれた。
時折私を抱きしめる腕に入る力が心地よい。
雨に濡れていたことさえ忘れ、私は風丸くんの温もりを感じながらぎゅっと服を握った。
その服はもう、あの時の彼の服ではない。でも、私は身を預けるように黄色の服に顔を埋めさせた。
どんなに服が変わっても、優しい彼の温もりは変わらない。
そんな優しい風丸くんだからこそ出した結論。助っ人、という道。
私はやっと、決心をつくことができた。
「やっぱり、俺…」
一瞬ピクンと風丸くんの手が震えた。
それは、勇気を出して何かを言おうとしている記し。
私は風丸くんの腰に回している腕に力を入れながらも絞るように声を出した。
「私は…ずっと応援してるから…。たとえ道が変わっても、ずっと、ずっと…」
やっと、想いを言えた。やっと、彼を見送る決心がついた。
それは、優しい彼だからこそ、大好きな彼だからこそ、そう思えたの。
いつの間にか降っていた雨は止み、鉛色の空から一筋の光が差していた。
その光は温かく私たちを包んでくれて。新たな道しるべとして、私たちに降り注いでくれていた。
進む道は変われど、助っ人としてだけなのかもしれないけど。
でも、私はやっと、好きだからこそ応援したいと思えることが出来たの…。
「……名前、ありがとう」
雨あがりの水たまり
それは、確かにキラキラと私たちを映し出していたんだ―…。