10



昼休み、図書室から教室に戻る途中だった。予鈴が鳴っていたので、急がないといけないと思っていたのがおそらく悪かったのだろう。
「うわっ!」
廊下の角で何かにぶつかって、声をあげた。堪える余裕もなく、尻餅をついてしまった。
「なん――った!ちょ、うわっ」
顔をあげたところでバサバサッと何かが落ちてきた。慌てて腕で顔を庇ったが、存外大量に落ちてきたので驚いた。な、なにこれ!
「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか!?」
落ちてくる物が無くなってからそんな声が掛かった。なんか聞き覚えのある声だなと思って腕をどかせば、眉を下げていたのはクラスメイトの猪名寺だった。
「あ、なんだ、花倉さんか」
「なんだって何!?」
どこかホッとしたように言われたので、睨みつけると、猪名寺は慌てて手を振った。
「い、いや!べつに花倉さんだから良いとかそういうことじゃないんだけど!」
「へえーっ、私一言もそんなこと言ってないんですけど!そんな風に思ったわけ!へえーっ、私すっごくショックだなーっ!」
「ご、ごめんなさいー!」
責め立てるように言ってやると、猪名寺が深々と頭を下げたのでまあよしとする。よくないけど!
はあ、とため息をつきながら立ち上がった。足元には色とりどりのノートが落ちていた。さっき落とされたのはこれか。
「ったく、ぶつかっただけじゃ飽き足らずノートまで落とすなんて。あんた本当に故意じゃないんでしょうね?」
「えっ!ちが、ぶつかったのもノート落としたのも私じゃないよ!」
「はあっ?あんた以外に誰がいるってのさ!」
下手な言い訳をするつもりか。確かにあんたはまだノートを一抱え持っているようだけど、どうせ容量オーバーの量を持っていて失敗したんだろ。
「その言い訳がましい根性が気に入らない」
「ほ、本当に違うったら!ですよね、数馬先輩っ!」
「先輩?」
猪名寺が焦り声で呼んだ名前に少し首を傾げる。私より少し視線を外して、私の左側を見ているのに気がついて、私もそちらに目をやった。
「――え、っと、ごめんね……?」
「――おおっ!?」
驚きすぎて後ずさったら、いつの間にか隣にいた先輩があーっ!と声をあげたのでまた驚いた。
「な、え!?誰!?ていうかいつから!?」
「あああ、待って!動かないでええ」
猪名寺曰く先輩らしい。しかし彼は困った顔と泣きそうな顔の間みたいな表情で私に言った。未だにさっきの驚きが残ったままドキドキしていたので、存外素直に言う事を聞いてしまった。先輩がこくこくっと頷いて、ごめんねごめんねとまた謝った。
「ぶつかっちゃったの、僕なんだ。ノート落としたのも。本当にごめんねっ」
「え、そ、そうなんですか……」
――え、というか、あなた最初から居ました?全然気づかなかったんですけど?ぶつかったの?まじで?
「と、とりあえず、あの、ノート……」
「……あっ」
困った風に言われて、一瞬よくわからなかったが、そういえば足元にはノートが落ちているんだった。忘れてた。
思い出して足元を見ると、思いっきりそのうちの一冊を踏んづけていたので、慌ててノートの落ちてない場所に移った。先輩はああごめんねえとまた何回も謝りながらノートの回収を始めた。
「あ、手伝いますっ」
「ありがと、乱太ろ――あーっ!」
「えっ、あ、わぁっ!」
急に先輩が大きな声で叫んだので、猪名寺が驚きすぎてノートを取り落とした。
「なにやってんの猪名寺っ。これ以上ノート落としてどうすんの!?」
「だって、先輩が……!」
「ど、どうしよう乱太郎!これ!」
しかし先輩はそんなことはお構いなしに、焦った様子で一冊のノートをこちらに向けた。表紙に上履きの足跡がくっきりと残っている。おそらく私が踏んでいたやつだ。
「あーっ!ど、どうしましょう先輩!」
「うわー……!」
ノートを見て一瞬で状況を理解したらしい猪名寺は、先輩と同じく青い顔になった。
なにがそんなにやばいんだ、と疑問に思いながらノートをもう一度見ると、ようやく私も事の重大さがわかった。
「げっ。これ、生徒会長さんのノート!」
「そうだよ!怒られる……!」
猪名寺が怯えた声で言った。私までやばい、と理解した。
ノートの表紙には、整った字で『立花仙蔵』という名前が記されていた。
立花仙蔵――キャラと名前が被ってるとかそんなことはこの際どうでもいい。とにかく、彼はこの大川学園において、生徒会長という役職についている男だ。しかし、この学園の中で彼の名を知らない者はいないというほど有名なのには、それ以外の理由もある。
この学園きっての優等生、なのだ。噂では、中等部一年の時から定期テストでは常に学年一、体育も得意で、成績表には最高評価以外付かないとか。しかもその上まだ付け加えるとすれば、外見まで素晴らしいという点。私はそこまで思わないが、学園には彼のファンクラブがあるとかないとか。
そんな完璧超人とさえ言える男、立花仙蔵。私はそんな人の数学のノートに、思いっきり足跡を付けてしまったということになる。
「――や、やばい!猪名寺どうしよう!」
「私に聞かないでよ!」
「これ、この休み時間中に持っていってって言われてるんだよ!?」
「ひいっ!どうしようもねえ!」
休み時間はあと五分足らずで終わりだ。高等部三年生の教室はここから少し離れているから、急いで持っていかないと間に合わない。
「く……!仕方ない、腹を括るか……!」
拳を握った私に、猪名寺がはっとしたように青い顔をこちらに向けた。
「え!花倉さんまさか……!」
私は恐れを隠し、彼を安心させるような笑顔を浮かべて見せた。
「私……謝るよ……!」
「そ、そんな……!」
「あの立花先輩だよ!無茶だっ!」
私の言葉を聞いて、猪名寺と先輩が声をあげた。私はそれにゆるゆると首を振った。
「無茶だけど……私は……!」
「――ああ、お前達こんなところにいたのか」
『ひゃあああっ!』
なんて茶番をしていたら、一番恐れていた声が聞こえて三人で叫んでしまった。
――こ、この声!生徒総会でマイク越しにいつも聞いていた、あの……!
ゆっくりと振り返ると、高等部の制服を着た背の高い男子生徒が、すたすたとこちらに歩み寄ってきた。
「た、立花先輩……!」
「ノートを落としたのか。相変わらずだな保健委員は」
立花先輩は呆れたように言って笑った。その様子は十分に優しげなものだったが、私としては安心などできるはずもない。
「あ、あの……!」
「ん?君は……」
謝らなきゃ謝らなきゃ!おずおずと声をかけると、立花先輩は私を見て目をぱちりとさせてから、なんだ、と聞き返した。
「その、ノートを、ですね……」
「ノート?」
「えっと、これです……」
先輩が肩を縮こまらせながら、立花先輩のノートを差し出した。それを見てしばし目を瞬かせる立花先輩に、私は耐えきれずに頭を下げた。
「す、すみません!それ、私が踏んじゃって!」
「あ、あの!僕がぶつかったから……!彼女は被害者でっ!ごめんなさい!」
「え、や、違います!気をつけていれば、全然、問題なかったのに、不注意だったから……!」
「あ、あの!二人だけ悪いんじゃなくて!私が、二人がぶつかった後に数馬先輩に後ろからぶつかっちゃって!それでノートが!」
――猪名寺も関与してたのかよ!知らなかったんだけど!
――でも二人とも私と一緒に謝ってくれている。なんだこの二人、優しい。
立花先輩はしばし何も言わなかった。そんなに怒ってるのかと慌てて謝罪を重ねようとした時、やっとくすくすと笑う声がした。
「三人ともやめろ、顔をあげてくれ」
後輩をいじめているみたいだ、と笑い混じりに言われた。ゆっくりと顔を上げると、立花先輩は怒るどころかむしろ笑っていた。
「別に、このくらいで怒ったりしないさ」
「ほ、ほんとですかっ?」
猪名寺の言葉に、ああ、とあっさり頷いた。
「別に、表紙くらい汚れても構わない。気にするな」
「す、すみません……」
「いいんだよ」
もう一度謝ったら、先輩は微笑んでくれた。
ホッとして息をつくと、先輩がよかったね、と苦笑したので乾いた笑いを返した。
「……それはいいんだが」
『え?』
と、先輩が不穏な台詞を放った次の瞬間。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
『あ』
「……この私に授業を遅刻させたお詫びは、してもらうぞ。三人とも」
立花先輩はそう言って、なお笑った。
――最後の笑顔は、少し怖かった。


前<<>>次

[11/13]

>>目次
>>夢