> 夫婦喧嘩は犬も食わない-3



雷蔵がちらりと裏口の戸を見やって呟いた。
「……夢子ちゃん遅いね」
「あー、言っちゃった」
勘右衛門が苦笑したが、だって、と雷蔵は続ける。
「出て行ってから一刻は経つよ」
「そうだよねえ。洗濯とかそんな時間かからないよね」
――なんなのこいつら。私へのあてつけか?
「そうだよねー、三郎」
勘右衛門は完全に煽ってきてる。
「――怒って出てっちゃったんじゃない」
――兵助はホントはっきり言うよな!
思わず睨むと、兵助は肩をすくめた。
「駄目だよ兵助〜。三郎も自覚してんだしさあ」
「勘右衛門は楽しそうだな!」
「あはは、だって三郎いらいらしすぎだからっ」
くそ、わかってるよ!自覚してるよ!
夢子が出ていってから一刻以上経っている。雷蔵が指摘するより前、およそ四半刻ほど前には、すでに私も夢子が帰って来ないことについて気になっていたのだ。杯を傾けながら、もう何度裏口の戸に目をやったことか。
――いや、でも。今まであんな程度の口喧嘩くらい何度となくしているし!そんなことで出て行くようなことはない……はず!
「ま、いつ堪忍袋の緒が切れるかなんて、本人にしかわからないからね」
「そういうこと言うなよ!」
勘右衛門は楽しそうに笑う。他人事だと思って……!
「そんな焦るならあんな喧嘩すんなよ」
八左ヱ門の言葉に、ぎくりとしながら眉を寄せる。
「別に、焦ってなんか……」
「嘘つけ」
兵助にまで言われた。
そんな私達のやりとりを見ていた雷蔵だったが、彼だけは面白がるわけでもなく、少し眉を下げていた。
「別に、喧嘩で出て行ったとかならいいんだけど……」
「いやよくないだろ」
「ああ、そりゃよくはないけど……でも、それより心配じゃない?」
雷蔵はそう言って、また裏口を見やった。
「怪我とか、してなきゃいいけど」
――ああ、そうか。
雷蔵の言葉で、ようやく私達もその可能性に思い至った。
――そうだ。あいつのことだから、喧嘩で傷心、とかよりよっぽどありえる話じゃないか。
「確かに、もう暗いし……」
「月は出てるけどな」
「いやそれは」
一般人に対して、月明かりだけで普段通り活動しろという方が無理な相談だ。
「山も近いし」
「熊とか?」
「まさか」
「いや、でも……」
「……」
四人が段々とひそやかになる声で続ける会話を、私はしばらく黙って聞いていた。

* *

すっかり遅くなってしまった。折角久しぶりに会う人達が来ているというのに、運の悪い。
家の裏口から出れば、木々に隠されるように覆われた、狭い階段が続いている。裏口と言っているが、専ら使用されるのはこっちの道だ。表から出ればあのえげつない罠に自分がひっかかってしまう。まあ、どうせ洗濯物は裏口近くで干すわけで、そういう時には便利ではあるけど。
真っ暗になった今の時間。もう慣れてはいるが、かといって足元の見えない階段を上るのには、結構な勇気がいる。
――もう、これもやっぱり三ちゃんのせいっ。
さっきまで収まっていた不満がまたぶり返してきた。おかげで怖いのは紛れてきたけども。
早く帰ろう。そう思ってもう一段上がったところで。
「――夢子っ!」
なぜか切羽詰まったような声で名前を呼ばれ、私はそこで立ち止まった。
「三郎さん?」
声でわかって、階段の上を見上げて声をかける。とはいえ、その影が見えるわけでもないのだが。
――と思っていて、気付いたらぎゅうっと前から抱きしめられた。
「はっ!?ちょ、なに!?」
「あ、夢子ちゃん!」
「ほんとだっ。よかったあ」
驚いて声を上げたら、残りの四人もいたようだった。姿は見えないが、ぱたぱたと階段を下りてくる足音がいくつか。
――え、なんでこの人達こんなところにいるの。
「えっと、どうしたんですか皆さん」
「どうしたはこっちだよ。随分遅かったみたいだけど」
ため息混じりの兵助さんの声。疑問を残しつつ答えた。
「井戸のところで田中さん――って、ご近所の方に会いまして、お喋りしているうちに何故かお家でお茶いただいてました」
「はあ?」
八左ヱ門さんが頓狂な声を発したと同時に、勘右衛門さんが声を立てて笑い始めた。
「なにそれー。心配して損した!」
「え、心配?してくださったんですか?」
「もー、びっくりした!」
雷蔵さんもそう言って、息をついたようだ。
どうやら、五人とも心配して様子を見に来てくれたらしい。
「じゃあもういいやっ。帰ろー」
「そうだね」
「飲みなおすかあ」
「だな」
四人はそう言い合って、また階段を上り始めたらしい足音。私も早く戻ろうと思ったところで、現在の状態を思い出した。
「ちょ、三郎さん、動けないんですが」
「……」
――え、ちょっと。なにこれ。
もう一度三郎さん、と名前を呼んだが、また彼は何も言わないまま、腕の力も緩めず。
「どうしたの、三郎さん」
尋ねてもまだ無言。なんなの、本当に。
「ちょっと三ちゃん!」
「……三ちゃんって言うな」
ようやく返事をしたが質問への答えじゃないし、そもそも今のはそっちが悪いからだと思うんだけど。
「あのねえ……」
「――ごめん」
文句でも言ってやろうと思ったのに、唐突に三郎さんが呟いたので言葉を止めた。
「……すごく焦った」
「なんで?」
よく意味がわからなくて尋ねたら、三郎さんはちょっとだけ黙り込んで。
「……怒って出てったかと、思って」
その返答を聞いて、一度目を瞬かせると、私は思わずくすくすと笑った。すると三郎さんは少し不満げな声になって、なんで笑うの、と呟いた。
――不満げに言いながら、まだ腕の力は緩まないのが、また。
「三郎さん、子どもみたい」
「……悪かったな」
笑いながら言うと、不貞腐れたように返された。その声がまた子どもが拗ねたみたいだと思う。
――変なの。あんな程度で、そんな風に思うなんて。
「私、そんな程度で出てったりしませんっ」
「わからないじゃないか」
「わかりますー」
私が言うと、なんで、と三郎さんは聞き返した。
そこでようやく彼が離れてくれて、すぐ目の前だからおぼろげにその顔が確認できた。
――それがまた不安げな様子で、私はふふ、と笑みを深くした。
「私は三ちゃんの奥さんよ、それくらい慣れてるの!」
そう言ってやれば、彼は二三度目を瞬いてから、ふと微笑んだ。
「そうかぁ」
「安心した?」
そう尋ねると、子どもっぽい私の夫は、存外素直に頷いた。

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