02-1



隣にいたはずの仙蔵がいつの間にか居なくなっていたので、文次郎は立ち止まって振り向いた。
仙蔵は数歩後ろで立ち止まっていて、ぼやっとあらぬ方を見ていた。その視線の先を確認すると、隣の学級、二年ろ組の生徒が数人で集まってお喋りをしていた。
「……おい、仙蔵どうしたんだ?」
「あ、いや、なんでもないっ」
文次郎の声に、仙蔵は慌てて首を振った。不審そうに首を傾げる文次郎に駆け寄って、そのまま普通に歩いていったので、文次郎はそのまま何も言わなかった。

留三郎と伊作は同学級の同室者同士。伊作は今年、二年目の不運委員会配属。歴代の保健委員会生徒の中でも相当な不運であると噂されている。
「ごめんよお、留三郎お」
「もういいよ……」
その不運に巻き込まれるのにも、留三郎はそろそろ慣れてきた。悪気はないのだから怒ることもできない。それならば諦めてしまった方が精神的にも楽だ。
「にしても、どうしたものかなあ」
「これ、絶対六年生用に作ってある落とし穴だよね」
二人は落とし穴の底でそう言い合った。
深さは相当なものである。六年生の身長があっても縁には届かないだろう。まして二年生の二人ではまったく歯がたたない。
「苦無でもあれば、鍛錬がてら登るんだけどな」
「留三郎は本当に熱心だね」
悔しそうに言う留三郎の声に、伊作が苦笑して返した。
「――どうしたの〜?」
そんな二人の頭上から、のんびりした声が降ってきた。二人が見上げると、夕焼けの逆光でできた影が落とし穴を見下ろしていた。
「あ、人だ!」
「落ちてしまったんです!」
「わかったあ」
影は二人の言葉に頷いてから、一旦姿を消した。しばらく静かになって、伊作と留三郎がまさか逃げた?と思い始めた時、影はまた顔を出して二人に声をかけた。
「縄落とすから、片方の腰にくくり付けといて。僕、人手呼んでくる」
そう言って、影は細い縄の片方の端を穴の下に落とした。留三郎はそれを手にとってから、えっと声を上げて見上げると影はもう居なくなっていた。
「どうしたの、留三郎?」
「伊作、この縄で大丈夫だと思うか?」
留三郎が眉を寄せて伊作に見せたのは、人一人持ち上げるには細すぎるように見える縄だった。
「え、これ?」
「って言ってたけど……」
とりあえず、と留三郎はそれを伊作の腰に結んだ。
「――できたー?」
「あ、はい!」
影がまた顔を出した。伊作が答えると、影はわかったあと言ってまた顔を引っ込めた。
「じゃあ上げるぞー!」
と、影とは違う元気な声が言って、伊作の身体が予想の斜め上をいく力で引き上げられた。
というか、釣られた。
「お、伊作が釣れた!」
「小平太くん、勢い良すぎじゃないかな!?」
――七松小平太!
自分を引き上げた人物の顔を見て、伊作は青ざめさせた。去年、一年生にして体育委員会で頭角を現した、怪力馬鹿の七松小平太。彼にとっては伊作の体重など魚と同じとでも言おうか、伊作は落とし穴から引き上げられるどころかポーンっと音がしそうなほどあっさりと空中に投げ出された。
「ぎゃっ」
アフターケアは無しらしい。伊作はそのまま地面にべしゃりと叩きつけられた。影の声がわあっと焦った声、小平太があははっと可笑しそうに笑う声。
「だ、大丈夫ー?ごめんねえ、小平太くんがねえ」
「伊作ならそういうことも慣れてるだろ!じゃ、留三郎も」
「あーあー、小平太くんはもういいよ!可哀想だよ!もー!」
影は少し怒った声で言って、伊作から解いた縄をもう一度穴に落とした。
やっと身体を起こした伊作は、ようやく影の正体を知ることになる。
――二年ろ組の白石春市。
話したことはない。可愛い顔をしていて背が小さいという以外に、特に目立つ所のない生徒だ。おそらくその存在を気にしていなければ、伊作は彼の名前を知らなかっただろう。
「あ、ねえ、白石くん!手伝うよ!」
「大丈夫大丈夫〜。小平太くんのことで迷惑かけたからね、気にしないで」
春市はそうへらっと笑って見せた。その顔は中性的で、こんな子に留三郎を引き上げるという芸当ができるのかと心配になる。
もう一度名乗り出ようと思ったが、彼はその前によいしょっと掛け声をつけて縄を引いた。
しかし存外あっさりと留三郎を引き上げてしまった。
――ああ、意外なとこに、僕より力があるみたいだ。
「あ、ありがとうございます……って、白石春市!」
「どういたしまして〜」
留三郎が目を丸くして春市の顔を見た。おおよそ春市がそんなに力があるように見えなかったからだろう。
「白石くんって、意外と力あるんだね……」
「ん?まあね、熊よりは軽いしね」
『熊?』
春市の言葉に首を傾げた伊作と留三郎だったが、小平太に細かいことは気にするなっと背を叩かれた。むせた。
「今度から気をつけるんだよー?」
「あ、ああ。ありがとうな」
「助かったよ」
「はあい」
春市はにこっと笑ってから、そういえば、と言った。
「なんで僕の名前知ってるの?」
「あー……」
答えづらい質問だ、と伊作と留三郎は顔を見合わせた。春市は不思議そうにしながら言った。
「僕は二人の名前知らないよ」
「あ、僕は、は組の善法寺伊作!」
「俺もは組。食満留三郎だ」
慌てて名前を教える伊作と、留三郎もそれに続く。春市は笑った。
「僕は、知ってるみたいだけど、ろ組の白石春市。よろしくねえ。善法寺くんと、食満くんだね」
「名前でいいよ〜」
「そう?じゃあそうするー。僕も名前でいいよお」
元来穏やかな性格の二人だから、波長が合うのかもしれない。伊作と春市がにこにこと笑いあっているのをぼうっと見ていた留三郎だったが、ん?と何か引っ掛かりを覚えて、少し思案した後。
「あああ!」
「うわ!なに!?」
「ど、どうしたの留三郎?」
「伊作!ちょっとこっち来い!春市も小平太も、面倒かけたな!ほんとありがとう!」
留三郎は一方的にそう捲し立てて、伊作の腕を引いてその場から駆け出した。
後ろから小平太のどういたしましてーと春市の気をつけてねーの声を聞きながら、留三郎は軽く顔を青ざめさせていた。
――今度は絶対に伊作のせいだ!仙蔵に何か言われたら、伊作に押し付けてやる!


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