06-1



――おそらく運が悪かったのだ。この言葉は友人の伊作にこそ似合う言い方だが、そうとしか考えられない。
仙蔵はそんなことをつらつら考えながら、はあと白い息を吐いた。
一年生から二年生への進級試験は、冬の夜間マラソンとして行われる。夜の初まりから空が白む頃までかけて、裏々々山の頂上まで行って、設置されている札をとって帰ってくれば合格。一年間きちんと鍛えていれば、特に難しくもない試験。今も仙蔵の頭上では、同じ井桁模様の装束を着た同級生達が、ひいひい言いながらのろのろ走って去っていく。
――そうだ、運が悪かったのだ。私がこの試験で脱落するなんて。
もう一度ため息をつこうとして、喉に空気がひっかかって何度か咳き込んだ。
――ああ苛々する!こんな時に風邪ひきなんか!
仙蔵は顔をしかめて立ち上がった。頭の中で伊作が両手を合わせてごめん!と謝っている図が浮かんだ。昼に食堂で見た彼だ。
この日、仙蔵は体調が悪かった。咳は出るわ鼻は詰まるわ熱さえあった。体調管理も実力のうち、とは仙蔵も日頃思っているが、今回は前日に伊作と共に真冬の池に落ちたことが原因であると思われ、仙蔵自身に非はないはずだ。同じく池に落ちた伊作は、意外なことにピンピンしている。彼は悪運は強いのだ。
鼻をすすって息を吐く。寒い。というか、寒気がする。
体調不良のまま、なんとか真ん中あたりの順位を維持していたものの、ついさっき急な目眩に襲われた。また運の悪いことに道の端に寄っていたから、ふらついて気づけば道の横の坂から滑り落ちていたというわけだ。何人かクラスメイトが立ち止まって心配してくれたが、仙蔵自身が大丈夫だからほっとけ、と言ったのでみんな行ってしまった。普段よく一緒にいる三人のうち、文次郎と留三郎は上位の塊のなかでいがみ合っているだろうし、伊作も仙蔵の心配をしつつ先の方の塊に紛れてしまっていた。友人の中で最下位というのも気に入らないが、今となってはそんなことを言っている場合でもない。
とりあえず、不合格で追試というのは嫌だ。一年い組の優等生筆頭として、そんな不名誉なこと。
しばらく休憩してから、仙蔵は立ち上がった。マラソンなのだから走らなければ無意味なのはわかっているが、先ほどの目眩が尾を引いているので歩いて移動することにした。
おそらく最後の方で走っていた集団も、もう仙蔵を追い越して行ってしまっただろう。ああ、本当に運が悪かったのだ。

コースは随分高い位置にあるためどこかで戻る道を探さなければならないのだが、どうにも見つからないままとりあえずコースに沿ってのろのろと走っていた。
満月が真上にある。制限時間が半分を切った頃だ。仙蔵はまだ裏々々山の中腹にさしかかるあたりで留まっている。
一旦立ち止まって、膝に手をついて荒い呼吸を整える。しかし喉が痛く、呼吸の合間に咳が挟まって苦しい。
ようやく咳がやんで、ひゅうと喉が鳴った時。
「――誰かいるのー?」
と、声がした。
見上げると、コースからこちらを見下ろしている同級生がいた。同級生とは言っても、隣のクラスの、見たことがある程度の相手。話したことは一度もない。名前も知らない。
一年ろ組の生徒で、背が低くて、女みたいな可愛らしい顔をしている。その程度の情報しかない。
「あ、君、い組の人でしょ!」
彼は仙蔵の顔を見てすぐにそう言って笑った。
仙蔵も何か言おうとして息を吸った時、また喉に冷たい空気がひっかかって咳が出た。
「どうしたの?もしかして風邪?」
咳込んで答えられないので、とりあえず頷いた。彼はえーっ、と困ったように声を上げた。
――なんでこいつが困るんだよ。
仙蔵は思って、気にせずに先に行けと言おうとしたが、やはり咳が止まらなくて言えなかった。
「大丈夫ー?じゃ無さそうかな?」
だから答えられないんだっての!仙蔵は一瞬イラッとしたが、次の瞬間にはざざ、という音が聞こえて思わず顔をあげた。
「大丈夫?」
さっきと同じことを聞き、彼は仙蔵の背中をさすりながら首を傾げた。
――は?なんでこいつここまで降りてきてるんだ?
仙蔵は咳しながら、頭の中は疑問符で一杯だった。
しばらくしてやっと落ち着いて、仙蔵は彼の顔を見た。
「すまない、もういい」
「そう?」
彼はその言葉に手を降ろして仙蔵から一歩離れた。
「風邪ひいてるの?体温も高そうだったけど」
「まあ、ちょっと」
「体調管理ちゃんとしなきゃあ」
わかってる、と仙蔵は不機嫌に返した。
彼はそんな仙蔵を見てから、コースを見上げた。
「お前、なんで降りてきたんだ?」
仙蔵が尋ねると、彼はまた仙蔵に目を向けた。
「だって、咳辛そうだったから」
彼――白石春市は、ふわりと笑ってそう言った。


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