03-2



春市が向かった先は、三年長屋の縁側だった。生物小屋でなかったことに、また動物の餌を与えられるという要求ではないと知って、仙蔵は安堵する。放課後真っ最中の今、多くの生徒は校庭で遊んでいたり外に出ていたりして、長屋の方には人が少ないのも仙蔵には心強い。自身のみっともない姿を他人に見られるのは当然ながら避けたい。本当ならこの春市にこそ、みっともない姿は見せたくないのだけれど。
「仙蔵くんおいでー」
春市はひょいと縁側に座って手招きした。背が低い春市の足は、縁側の高さでは地面に届きそうで届かない。幼い子どものように両足をゆらゆら前後に振る様が可愛らしい。仙蔵は長屋の人気のなさに安堵した流れで、微笑ましいと思って少し笑った。
「ちょうど仙蔵くんにやって欲しいことがあったんだけど、なんだったか思い出せないの」
手招きされるままに春市の前に立った仙蔵の縄を解いてやりながら、春市はのんびりと言った。
「そういえば最初に『ちょうどよかった』と言っていたな」
「そうだっけ?うーん、なんだったかなあ」
後ろの結び目を弄りながら、春市が考え込む。
「はい、解けた」
「ああ」
ありがとうと言いかけて、元々春市が縛ったのだと思い出してやめた。
くるりと身体ごと振り返って、春市の方に向き直る。
と、なぜか春市はぽかんとして仙蔵の顔を見上げていた。
「な、なんだその反応」
普段へらへらともにこにことも言えるような楽しげな笑顔をしている印象が強いため、仙蔵は春市の笑顔以外の表情にやたら弱い。間抜けに口を開いてぼやっとしている今の顔も、面白いやら可愛らしいやらでなんとなく目を逸らしてしまった。
「思い出したよ!仙蔵くん!」
ぽかん顔をやめたと思えば、春市は目を輝かせて笑った。
「ああ、思い出したか……」
「うん!」
よく考えれば、思いつきでもそれなりにえげつない要求をしてくる春市なのに、おいかけっこをする前から決まっていたという要求なんて、相当アレなんじゃ。
今になって仙蔵は気づいたが、完全に手遅れだ。春市に対しては、どうにも自慢の頭の回転が上手くいかない。
「……で、なんなんだ。今日の罰ゲームは」
「罰ゲームじゃないよお」
春市はいつも罰ゲームじゃないと言うが、仙蔵にとってはれっきとした罰ゲームだし、むしろ公開処刑である時もある。
「――あのね、跳ねてて」
「……は?」
「あっちを向いて、ぴょんぴょんってやって。うさぎさんみたいに!」
にっこりと笑って、前を指す。つまり、春市に背を向けて、うさぎのように跳ねていろという要求だ。
――……どういう意味だ?
「えっと、なにがしたいんだ?」
「とりあえず一回やってみて!」
妙に期待するような目で言われ、仙蔵は内心疑問符ばかり抱えながら、とりあえず後ろを向いて一歩離れた。それから釈然としないまま、ぴょんと一度跳ねてみる。
――なんだ、この虚しい感じ。妙に恥ずかしい。
振り返って春市の顔を見ると、予想以上に嬉しそうな満面の笑みだったので驚く。何がそんなに気に入ったんだ?なんなんだ?
「いいねえすごく良い!仙蔵くん、続けて続けて!」
「え、今のでいいのか?なんなんだこれ?」
「いいからいいから!僕がやめって言うまで!」
手でしっしっとやられて少し傷つく。というか、本当に何を思ってこんな要求がされているんだろう。何がしたいんだろう。渋々もう一度春市に背を向けて、同じように跳ねる。
――たまに思うが、こいつはよくわからない奴だ。
とんとんと一定の間隔で地面を蹴る足音。春市は黙ったままで声もかけてこない。ほとんど人のいない長屋。遠くから聞こえる、遊んでいる子どもの高い笑い声。
――今までの要求に比べれば、楽だしそこまで自尊心も傷つかないのは良いのだが。
――なんというか、単調すぎて虚しい。

そうしてどれほどの時間が経ったか。
――まだ終わらないのか!?
仙蔵の足はそろそろ限界である。だいぶ息が切れてきたし、跳ねて落ちる音が頭にまでガンと響く。相当姿勢が崩れてきた証拠だ。体力が無くなってきて、まともに姿勢を保てなくなってきた。
ずっと一定のリズムで跳ねていたら、ふと自分が今地面に足をつけているのかいないのかわからないという境地に達した。それから意識をしっかりさせるために回数を数えることにした。百五十を過ぎたあたりで余裕が無くなってきてやめた。それからずっと頭の中では、春市の『やめ』の合図を催促し続けている。春市のことだから声に出したところで気が済むまではやめないのだろうし、無駄なので無言でいるが。
――そもそも何を目的としてこれをしているのかがわからないから、何をもって終わりが来るのかもわからない。
――これ、ある種の罰に近いぞ。
春市の合図はまだかからない。早くしてくれ。もう足が震えてきた。満足な高さもなく、ほとんど足が地面から離れていないことも何度もある。
春市はずっと黙ったまま。開始を言い渡してから一言も言葉を発しない。
――……もしかして、私を放っておいて、寝てるんじゃ。
「あっ……!」
ふっと頭に過ぎった言葉を自覚すると同時に、膝の力が抜けてがくりと地面に手をついた。
もう無理だ。もう立つのもままならない。
地面に手と膝をついて荒い息を整える。そうしながら、春市の方を見た。まさか本当に――
と思ったが、春市はきょとんとした顔で目を瞬かせていた。なんだ、起きてたのか。
「……ああ、仙蔵くん大丈夫?」
「だ、大丈夫?って……見て、わかるだろ」
「あはは。ごめん。大丈夫じゃなさそうだね」
春市は苦笑して、縁側からひょいと降りて仙蔵に近寄った。それを見て、仙蔵は少しふらつきながら立ち上がる。
「ごめんねえ。なんかぼーっとしてた」
「お前……人がお望み通りに……」
「いや、そういうんじゃないけどさあ」
春市に腕をとられて縁側に移動した。どうやら『やめ』の合図は無かったが、もう終わりということでいいらしい。
「なんだったんだ、あれ」
「うん、まあねえ」
「目的もわからず単調な作業を続けるというのは、刑罰で使われる手法だぞ」
「そんな大層なものじゃないよう」
春市は苦笑して、ふと仙蔵の顔を見たかと思うと、さらりと手を伸ばして仙蔵の髪に触れた。
「な、なんだいきなり!」
「そんな焦らなくてもよくない?」
肩をびくりとさせた仙蔵に、春市は可笑しそうに笑った。笑いながら、手は仙蔵の髪を梳かす。
「やめろ、絡まってるだろ」
「うん」
春市は頷いたくせに、そのまま髪を梳かし続ける。仙蔵はどうすればいいのかわからず目をふらふらとあらぬ方へやる。普段は子どものように明るく笑っているのに、何故か今は目と口に緩く笑みを浮かべただけの微笑を浮かべている。なんとなくどぎまぎして顔を見れない。
「――仙蔵くんの髪、好きだな」
静かな声でさらりと言うので、仙蔵は一瞬反応できず、間を置いて目を丸くして春市の顔を見た。
「……は?」
「まっすぐできらきらしてて、すごく綺麗」
「なんだ、それ」
――こいつは他人の髪なんか気にする質だったか?
まともな反応を返せない仙蔵に気づいているかどうかは怪しいが、春市はふふ、と嬉しそうに笑った。
「今日ね、クラスの人達が髪の毛の話で盛り上がってたの。まあ、基本的に女の子の髪の話だったんだけど」
春市は苦笑混じりに話し始めた。手は依然として仙蔵の髪をさらさらと撫でている。
「で、それを聞いててね、髪なら仙蔵くんのが一番綺麗なんじゃないかって思ったの」
「なんでそうなる。女子の話じゃなかったのか」
「あはは。まあそうなんだけどー」
春市はけらけら笑って、縁側に上がって仙蔵の後ろに膝立ちになり、本格的に髪を弄りだした。
「仙蔵くんの髪はやっぱり綺麗だ」
「……あ、ありがとう?」
なんと反応するべきかわからず、語尾を上げて礼を言った。
「で、それとさっきの跳ねてっていうのはどういう関係があるんだ?」
「だから、仙蔵くんの髪は綺麗だから、動いてるのが見たいなって」
「人間なんだから、そんなことしなくても髪は動くだろう」
「そうなんだけど、普段はなかなか後ろからずっと見ているわけにもいかないでしょ」
そう言ってから、春市はくすくすと笑った。
「だんだん仙蔵くんの体力無くなっていく感じがなんか可愛かったよ」
「か、可愛いっ?」
仙蔵は思わず顔をしかめた。あはは、と春市は楽しそうに笑う。
「まあ、結局、仙蔵くんの髪を満足するまで見てたいなって思っただけ。そこに仙蔵くんが現れたから、これは今しかないと思って」
「迷惑な話だ」
春市は声を立てて笑いながら、高い位置で結い上げた仙蔵の髪を手にとって、指先でさらさらと撫で続けていた。
「……私も、お前の髪は、」
――好きだ。
「――良いと思うぞ。ふわふわしてて」
明るい色で、ふんわりした癖のある長い髪。春市の元来の性格をそのまま示したような柔らかい髪だ。
「そう?ありがとう」
春市は嬉しそうに言った。
「でもやっぱり仙蔵くんの髪が一番綺麗」
――こんなに綺麗綺麗と言われたら、なんとなく気になってしまうなあ。



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