彼がその場を去った後、"それ"はしばし考えた。

"それ"には明確な形は無い。
明確な形を取ろうとすれば簡単にできる。現に今この時も、"それ"はその場にいない"それ"としてどこかで形を成している。
もっとわかりやすく言おう。"それ"は何とは言えなくても、何にでもなれる存在である。そしてその数も形もすべて思いのまま。と言うより、思わなくても自然とそうなる。

今の"それ"もそうだ。彼の思いが、このように何事かを思案する"それ"を作り出した。

――彼の彼女に対する強い想いが。

"それ"は彼女とその周囲との関係性を修復する方法を模索するための"それ"になった。ならばそのために最善を尽くす。すべてを知り、不可能のない"それ"の力を自由に利用して。

そして"それ"は彼女を別の世界に飛ばした。
どこかの段階で彼や彼女の世界から分岐し、それが更に何度も何度も分岐した先の世界へ。

* *

――こんばんは、久しぶりだね、元気だった?
――今まで放っておいてごめんよ。でも楽しそうだなと思って毎日見守っていたんだよ。
――そうだね、彼の言葉はわかりにくいね。仕方ないよ。君はそれを許容しなければならないと、私は思うね。
――でも本当にわからないというなら、一つ術を教えてあげようか?
――彼の言葉を理解しなくても、君がみんなから愛される術。
――彼が言ったよりも、もっと簡単で確実な方法だよ。
――目を見てごらん。君が前の世界でよく知っていたみんなの目を。
――対象は生徒達。ただし君が前の世界でよく知っていた生徒達だけ。先生達は駄目だよ。さすがにバランスが崩れるからさ。
――じっと、近い距離で、目を見る。それだけ。
――それだけの簡単な方法で、君はみんなの一番になれる。

* *

彼女は楽しげに笑っている。周りにたくさんの少年が群がっているのを、嬉しそうに安心するように見ている。

"それ"が彼女に与えたものは、強いていうなら"愛"と呼ぶ。
ただしそれは、恋と同列に並ぶ愛ではない。
奇妙な愛情のことを"愛"と表現する。

すべての物事に優先順位を付けた時、彼女が最上位にくる。そういう術を、"それ"は彼女に与えたのだ。

強制的で、およそ人間の感情としては奇妙な愛情。

* *

優先順位が入れ替わればその時点で術は解けるということ。彼女に似た少年も、他の少年達もまだ気づかない。

二日だの三日だの、そんなことにまったくもって意味はない。現に、友人を心配する優しい彼も地面に向かう自由な彼も、どちらも何かを優先した時点で彼女の術を解いていた。

――さて、そろそろあの少年に"権利"をやろう。

"それ"はそう思ってその世界に降りた。その場所に溶け込むような、萌黄色の忍装束を着て。

――一度、敬語というものを使ってみたかった。

"それ"は人と関わることがなかったから、彼らが使う『敬語』には全く縁がなかったのだ。

* *

彼女を連れ帰るにあたって、この世界の人々の記憶を全て作り変える必要がある。

"それ"はつらつらと沢山の人間達に説明をしながら考える。

彼女は本当に天女という存在で、神が迎えにきて一緒に天に帰ったということでいいだろう。
"それ"の手にかかれば、そんな荒唐無稽な話も事実にできる。

――しかし、それはそれで申し訳ない。

というのも、あの彼女に似た少年だ。

今まで上手い具合に"それ"の計画を進めてくれた少年にも、すべてを隠してしまうのは如何なものか。
"それ"にも情が湧いたのだ。

――だったら、少年と、その想い人の少年には残しておこう。

だって彼らは本当にお互いを愛しているから。
こんな壮大な秘密も、二人で幸せに抱えて生きていけばいい。

* *

彼女は無事に元の世界の同じ時間に戻る。"それ"の力で時間を止めていたその世界は、彼女が消えた時と一切変わらずにまた回り始めた。

彼女は周囲のことを考えるようになった。彼はそんな彼女にできる限りの手助けをした。
彼らの周囲は次第に彼女を許し、彼の望んだハッピーエンドはもう目前。

"それ"はそんな彼らを傍で見ていた。

もう"それ"の役目はすべて終わった。



いつの間にか、"それ"は消えていた。



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