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部屋の中でうずくまっていると、何となく元に戻ってしまった気がした。
状況としては全く異なるわけで、場所も違えば問題の性質も違うのだけれど。
――ああ、この前まで楽しかったのに。

* *

「――そうなんですかー。よかった」
「森林には本当に世話になったね」
「別に気にしないでください」
善法寺先輩は少し眉を下げて、ありがとうと言った。
食満先輩の怪我はだいたい完治したそうだ。善法寺先輩は食満先輩のことも含めて、何度も俺に謝罪と感謝の言葉をくれたけど、そんなに言われるほどの者でもなくてちょっと困る。
「食満先輩によかったですねって伝えてください」
「うん。また今度お礼をしたいって言ってたよ」
「いりませんよー。別に何もしてないんで。そう言っといてください」
そう返すと、善法寺先輩は苦笑した。
用事があるので、と言うとじゃあね、と軽く手を振って善法寺先輩は俺に背を向けた。
その背を見ながら、やはり彼があんなに恐くなるのはおかしいことだ、と思う。

学園の様子はほぼ全て以前の通りに戻った。全ての委員会は滞りなく運営され、欠員はいない。生徒間のぎくしゃくした空気も元通りになり、少しぴりぴりしていた雰囲気も柔らかく緩いものに戻った。先生達もある程度安心しているらしい。
――天川さんを彼女の部屋に隔離して、学園は彼女を置いて普段通りに回っている。

* *

頬の傷に触れる。深く刻まれていて、消えないだろうと新野先生が申し訳なさそうに言った。
これを付けたのは、今まで私の怪我を小さいものからすべて手当てしてくれていた、優しい彼だった。

* *

四人を選ぶと天川さんがその四人に殺される、と少年は言った。俺は四人を選んでしまって、だから確かにそのようになった。
あの日、もう三日前になる。
俺の"呪文"を聞いた四人は、途端に顔色を変えて、青白い顔で呆然と立ち尽くした。
天川さんが隣にいた善法寺先輩の肩を叩いた時。
――え。
彼は素早く懐から出した苦無で天川さんの頬を斬りつけた。その動きはさながら本当の戦闘時のよう。
――触らないでよ。
そうして青ざめた顔で天川さんを睨みつけた。さながら、敵を見るかのように。

* *

昼ご飯が襖の前に置いてあるが、既にすっかり冷めてしまっている。
先ほど名前の知らない先生が持ってきた時は、食べられますかという質問にとりあえず頷いたけど、結局手付かずのまま放っておいた。
仕事はしなくてもいいと言われているから、ずっとこうして部屋に篭っている。この世界に来てすぐの頃とあまり変わらないけど、あの頃は先生や六年生達が話相手になってくれていたし、これからの生活にわくわくしてもいた。
――すべて精算されて、また笑って生きて行けると思っていた。
ふと、襖が細く開いた。
「……姫美ちゃん、いる?」
おずおずと声をかけつつ顔を覗かせたのは、心配そうな顔をした小松田さんだった。
「……なんですか?」
「あ、うん。どうしてるかなー、って……」
小さく笑って見せながら部屋の中をちらりと見渡した。
「お昼食べてないの?」
「お腹すかないから」
「そっか……」
小松田さんは眉を下げて、申し訳程度に苦笑した。
事務の手伝いの時はよく一緒に仕事をしていたから、気になって来たのだろう。小松田さんは、やっぱり優しくていい人だった。
彼や他の先生方は、私の術の対象外だったから、嫌悪感がないのだろう。あの日からも普通に私の様子を見にくる。特に小松田さんとは仲良しだったから、こうして心配そうに話しもする。
「……でも、ちゃんと食べなきゃ」
「お腹がすいたら食べます」
一日中部屋でじっとしているだけだし、あまりご飯を食べる気にもならなくて、一日一食で十分だ。
「姫美ちゃん、気分転換に外に出てみたら?」
「別に、いいです」
小松田さんの誘いをにべもなく断ると、彼は少し悲しそうな顔をした。
「そんなこと言わないで、ほら、一緒に行こ」
「……」
小松田さんはそう言って手を差し出した。
少し迷って、小さくため息をつきつつその手をとった。
――外に出たところで、何も変わらないけど。
小松田さんは嬉しそうに笑って、私の手を引いた。のろのろと歩いてそれに続き、部屋を出た。
小松田さんが何も言わずに私を引っ張って前を歩いていく。それについて行きながら、久しぶりに外の空気を吸う。下級生達が校庭で楽しそうに遊んでいるのが見える。
――少し離れたところを、彼が歩いていくのが見えた。
彼の隣に三木くんがいて、彼は三木くんに楽しそうな笑顔で笑いかけていた。
三日前のあの日以来、毎日部屋の前に来ては声をかけてくる。なにも答えずにいれば、微かに笑う気配と共に、また来ますね、とだけ言って帰っていく。
――葉くん、あなたは何をしたの。何がしたいの。
――私が憎いの?
――あなたのせいで私は不幸になったんだ。
小松田さんが廊下を曲がった。
彼は見えなくなった。

* *

狼小屋の前に、竹谷先輩と一年は組の乱太郎、きり丸、しんべヱがいた。
竹谷先輩は今日の昼休みに呼んでおいたのだが、後の三人は何してるんだろ。
「竹谷先輩ー」
「おう、葉太郎。遅かったな」
「こんにちは!森林先輩!」
「田村先輩も!」
いつものごとく元気に挨拶してくれた。
「三治郎と虎若が、生物委員の飼育している狼に赤ちゃんができたって自慢したので、見に来ました」
「あー、そうなの」
乱太郎の言葉に頷きつつ、今見に来たところで、大して面白くもないんだけど。
「先輩、どの狼ですかー?」
「見てても全然わかんねっす」
「なんだ、お手上げか?」
しんべヱときり丸が竹谷先輩に聞いた。竹谷先輩が笑う。
「見ればわかるよな?葉太郎」
『わかりませんよー!』
竹谷先輩の言葉に、三人が不満そうに声をあげた。
「三木ヱ門はわかる?」
「生物委員と一緒にするな。見分け方なんか知るか」
尋ねると、三木ヱ門は呆れたように言う。
「あいつだよ、白い狼。お雪って言うんだ」
「へえー」
竹谷先輩の答えに、三人は興味深げに小屋の中を覗いた。お雪はこのところ、小屋の奥に黒兵衛とならんでゆっくり伏せていることが多い。
「さっきから動いてないだろ。他の奴らは、珍しい人間がいるからってずっとこっちを気にしてるけど」
「そういえばそうかも?」
「わかんねーよなあ」
「妊娠中で、体力温存のために日中はあまり動かないんだよー」
「へー」
説明してから、三木ヱ門がずっとお雪を見ているのに気づいた。
「三木ヱ門どうかした?」
「いや。お雪、随分大きくなったなと思って」
「田村先輩、お雪のこと知ってたんですか?」
乱太郎の質問に、ああ、と三木ヱ門はそちらに顔を向けた。
「こいつは葉太郎が二年の時に連れてきた奴で、その時数日私達の部屋に置いてたんだ」
「そうだったんですか?」
「へえー。じゃあ森林先輩、かなり嬉しいんじゃないっすか?」
「そうだねー。成長したなあって」
というか、三木ヱ門そんなこと覚えてたのね。
「来た時は小さかったのにな」
「そりゃ、二年経ったらね」
三木ヱ門が感慨深そうに言うので、微笑んで見せた。
「――というわけで、予算ください」
「却下」
「なんで!?今の流れ的にオッケーな感じだったのに!」
「却下だ!」
二回目も言われて、俺と竹谷先輩ははあ、とため息をついた。
「予算って?」
「お雪の子育て用に、近くに小屋を増設したかったんだが」
「会計委員に申請拒否されたの」
「なに私たちが悪いみたいに。ここ最近各委員会からの追加予算申請をまともに吟味せず通してきたから、金が無いんだよ」
「ええ!?金が無いぃ!?」
「きり丸、反応しないの」
追加予算が全く却下されずにほとんど自動的に落とされてきたというのは、会計委員の活動が止まっていた時の話だ。そういえばあの頃一回三木ヱ門がそれでブチギレてたことがあったのを思い出した。
「今期は追加の予算は絶対に認めないって方針でな。次の予算案に、きちんとした理由を付けて申請してくれ」
あー、これは予算案に書いたらその分通常業務用の予算をがっつり減らすつもりだ。特別に受け入れてやるんだから、みたいな。
「頼むよ、田村!そこをなんとか!」
「無理です。というか、子育て用の小屋って、そんなのいらないでしょ」
竹谷先輩が懇願しても耳を貸さない感じ。委員会中の三木ヱ門は、四年になってからちょっと潮江先輩に似てきたね。
「いらなくないよー」
「昔同じことがあった時も大変だったんだぞ!」
竹谷先輩の言葉に、なにが、と三木ヱ門は眉を寄せた。
「狼は巣で子育てするんだが、子どもが動けるようになるまでの間、巣に母親以外の狼は近寄れないんだ。こんな狭い小屋で子育てさせたら、無駄に喧嘩しちまって。一回小屋壊れたし」
「そんなことあったんですか?」
「俺が一年の頃な。あれは怖かったあ」
初めて聞いた話だ。竹谷先輩が妙に予算申請に熱心な理由がわかった。つまりそれがトラウマなわけだ。
「だから頼む!」
「そう言われても、方針ですから」
そんな話を聞いてもあっさり却下だ。三木ヱ門も頑固だから。
「――まあ、いいんじゃないですか。子どもを生むのもどうせ大分後のことでしょう」
第三者の声。聞き覚えのある声で、驚いてその主を見る。
「あんた……」
「こんにちは。森林葉太郎先輩」
竹谷先輩が不思議そうに知り合いか?と尋ねたが、俺はなんと答えるべきかわからず曖昧に笑った。
「なにかよくわかりませんが、議論中に失礼します」
「初めて見る先輩だ」
「ねー」
乱太郎としんべヱ達がこそこそと言い合うのを、少年は笑って見ていた。
「このタイミングでここにいるんだから、その三人はやっぱり凄い」
「え?」
「なに?俺達褒められたの?」
「そうなの?」
またこそこそと言い合う三人に、少年はくすくすと笑う。
「葉太郎、誰だ?」
「俺にもよくわからないんだよね」
三木ヱ門に眉を寄せて聞かれても、そうしか答えられなかった。
なんとなく、昼間にこの少年を見るのは初めてなので変な感じがする。
「なんでまたここに?蛇見に来たの?」
「蛇?いえ別に」
よく覚えてましたね、と少年は笑った。彼と初めて会った時の話だ。
「孫兵の友達か?」
「彼とは面識もないよ」
竹谷先輩にも答えて、少年はへらりと笑った。そうして俺の方へやってきて、ひょいと俺の手を握った。
少年の手が普通に体温を持っていて、なんとなく不思議に思えた。
「おい、なんだ急に」
三木ヱ門が不満そうに言うと、少年は三木ヱ門を見てふふ、と楽しげに笑った。
「嫉妬しなくても大丈夫。ちょっと借りるよ」
「はあ?嫉妬なんか……というか、今こっちは議論中だ!自分で言っただろうが」
「ああ、こっちの方が色々緊急だから、その議論は一旦中断してください」
「え、なに?なにそれ?」
緊急と言いつつゆったり笑っているので困惑する。
「天川姫美ですよ」
「天川さん?」
その名前を出したら、三木ヱ門と竹谷先輩が顔をしかめた。
「姫美さんがどうかしたんですか?」
乱太郎達が不思議そうに少年を見た。
少年は笑って言った。
「小松田秀作に化けて鉢屋三郎が天川姫美を連れ出して、立花仙蔵と善法寺伊作、斎藤タカ丸含め五人で裏山に向かいました。今から天川姫美が殺されるので、急いで追いかけないと手遅れになります」



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