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天川姫美は洗濯の仕事を終えて伸びをした。手伝ってくれていた善法寺伊作が、お疲れ様と笑った。
「伊作くん、ありがとう。予定より早く終わっちゃった!」
「う、ううん!全然!っていうか、ごめん、せっかく洗ったのに落としちゃって……」
笑顔でお礼を言うと満更でもない風に顔を赤くして、そして段々と落ち込んで、最後にはため息までついた。姫美の後ろで彼女の髪をいじっていた斎藤タカ丸が、あはは、と苦笑した。
「大丈夫だよ。手伝ってくれたのが嬉しいんだもん」
「……ありがとう」
伊作がへにゃりと笑ったので、姫美もにっこりと笑った。彼女は彼の、こういう優しくて可愛らしい面が好きだ。
「姫美さーん、終わりましたよー!」
「あ!三郎くんと雷蔵くん!ありがとー!」
そこに鉢屋三郎と不破雷蔵が走ってきた。伊作が地面に落としてしまった洗濯物を洗い直しに行ってくれていた。姫美は彼らのよく気のつくところがかっこよくて素敵だと思っている。
「善法寺先輩も気をつけてくださいよね」
「面目ない……ありがとう、二人とも」
「じゃあこれだけ干しちゃおう。そしたら夕飯の準備まで暇になるの」
姫美がそう言うと、やったあとタカ丸が笑った。タカ丸さんも手伝ってください、と三郎が不満げに言う。
――この世界のみんなは優しい人ばかり。
――昨日の小平太くんも、仙蔵くんと文次くんが謝らせてくれたし。
――きっと、ずっとここで楽しく暮らしていけるはずなんだ。
「あの、ちょっといいですか?」
――ひとつ悲しいことがあるとすれば。
「森林……!」
――一番信頼していた彼が、敵になってしまったことだ。

* *

声をかければ、まあ予想通りに鉢屋先輩がきっと睨みつけてきた。他に三人いたが、二人は温厚な性格だからか眉をひそめる程度で留めていて、不破先輩は驚いた顔で俺を見ていた。
「なにか用か?」
「天川さんに話があって」
言うと、三人はさらに顔をしかめて、不破先輩は心配そうな表情になった。
「話ってなんだよ」
「ちょっとしたことです。大して時間はとりませんが、だめですか?」
「だめだな」
なんで鉢屋先輩が答えるんだ。ちらりと天川さんの方を見たが、彼女の前にタカ丸さんがいたので表情は伺えなかった。
「お前は前科があるからな」
「前科って、そんな大げさな」
おっと失言だった。鉢屋先輩と善法寺先輩がすごい顔で睨んできた。どうやら彼らにとってはそれほどの大事だったらしい。
「ここでできない話なの?」
「まあ、あまり人前で話せる内容でもないので」
「じゃあだめ。また姫美を傷つける」
「……別にそんな気はないですけど」
善法寺先輩も過保護なことだ。
「じゃあここで話してもいいかどうか天川さんに聞いてくださいよ」
「なんだ、それ」
「俺は別にどっちでもいいんで」
詳しい話し合いができないから人はいない方がいいけど、確認程度なら問題ない。
鉢屋先輩達は顔を見合わせて少し黙っていたが、やがて善法寺先輩が俺の方を見た。
「なんの話?」
「……術、の話です」
「――えっ」
タカ丸さんの後ろで、天川さんが声を上げた。その場の全員が目を向けると、彼女は呆然とした様子で立ちすくんでいた。
「――なんで、そのこと」
「……やっぱり、」
――本当に彼女は術を使っているのか?
「なんで葉くんがそれを知ってるのっ?」
「……天川さん、本当にそうなんですか」
「なんで?どういうこと?」
完全に動揺しているようだった。顔色が段々と青ざめていく。もうこれは確実か。
「おい森林!なんなんだよ!」
「どうしたの、姫美ちゃん」
鉢屋先輩が俺に食ってかかって、タカ丸さんが天川さんに心配そうに声をかけた。様子がおかしいのは俺のせいだと思ったのだろう。
「天川さん、これ以上の話は――」
「嫌、聞きたくない!葉くんどっか行ってよ!!」
急に顔をあげて天川さんが怒鳴った。その場の全員が驚くぐらい、初めて見るほど激しく怒っている。
「話があるんです」
「やめて!葉くんなんて嫌い!!嫌いよ!」
「そんなこともうやめませんか!」
ぴたりと口を閉じて、天川さんは俺の顔を見た。
黒い目の中に、なにか激しく渦巻く感情が見える。
「やめる……?」
「そんなことしても、誰も幸せにはなれません。やめませんか」
「……」
天川さんはじっと俺を見ていたが、やがてぐっと眉を寄せて声を上げた。
「うるさい!私は今幸せよ!葉くんなんて嫌い!どっか行って!話なんか聞きたくない!」
――完全に拒絶した。
「……森林、もういいでしょ」
善法寺先輩が天川さんから目を離して俺を見た。
「話はまだ……」
「もういいでしょ!これ以上姫美を悲しませないでくれよ!」
善法寺先輩はそう叫んで俺を睨みつけた。普段温厚な分、その怒りに思わずたじろぐ。
――もうだめだな。
「……天川さん、今日の夜、消灯前に正門の前に来てください。待ってます」
最後にそれだけ言いおいて、俺は彼らに背を向けた。天川さんがすすり泣く声が聞こえてきた。
――これじゃあ、だめだな。
――きっと天川さんは来てくれない。

かん、かんと九つ鐘をつく音が響いた。子の刻になった。
鐘の音がやんで、しんと辺りは静まり返る。俺はため息をついて、正門に背を預けて座り込んだ。
「――来ませんでしたねえ。天川姫美」
「……」
「予想通りですけど」
いつの間にか少年が俺の隣に立っていた。同じように門に背を預けている。
「先輩が最後に忠告してくれたのにね」
「……あれ、事実だったんだね」
「術ですか?ほら、私は嘘なんかついてないでしょう」
少年が笑う声が聞こえた。
「そう言えば先輩、私のこと三年生に聞き回ってたそうで」
バレてたのか。孫兵だけでなく、三反田や富松にまで知らないと言われた。
「なにもわからなかったよ」
「そりゃそうですよ。今後はやめてくださいね。無意味ですから」
「結局あんた何者?天川さんのことといい、現れるのも消えるのも突然だ。幽霊みたい」
「幽霊?面白い冗談で」
本当に面白そうに少年は笑った。結構本気だったんだけど、違ったらしい。
「私が何者かはいつか教えてあげますよ。機会があれば」
「ああもういいよ。あんたに何か聞いてもまともに返ってこないのはわかった」
「それはよかった」
少年はそう言って門から背を離した。そして俺の前に立ち、俺を見下ろした。それを見上げると、彼は相変わらず微笑んでいた。
「ついに天川姫美は来なかった。貴方はこれで、四人か天川姫美のどちらかを選ぶことになる。わかったでしょう、私が嘘をついていないことは。いつか私が言ったようになる」
「……」
天川さんを選んで四人がいつか死ぬのを待つか。
四人を選んで天川さんが殺されるのを待つか。
「この呪文は忘れないように。一応いつまでも有効ですが、もたもたしてると四人が死んでしまうかもしれないので気をつけて」
少年は言いながら俺の前にしゃがみ込んで、ふわりと笑って顔を近づけた。
「――」
そして顔を離して、立ち上がった。
「それじゃあおやすみなさい」
そのまま少年は三年長屋の方に歩いて行った。やっぱりあの子は三年生なのか?
少年が囁いた"呪文"を頭の中で二、三度繰り返す。
天川さんか、あの四人か。

少ししてから俺も長屋に戻ることにした。ゆっくりと歩いて自室に向かう間も、ずっと少年とのやり取りを思い返していた。四日前の生物小屋の前、昨日の廊下、正門前。
――天川さんは幸せだと言った。四人も彼女を心から愛している。五人は幸せそうだった。
自室の襖を開いて中に入って、ため息をついてしばしぼんやりしていた。ずるずると座り込んで、床に目を落とす。
「……葉太郎?」
小さな声が聞こえて、顔を上げた。衝立の向こうで寝ていると思っていた三木ヱ門が顔を出していた。
「……先に寝ててって言ったのに」
「寝てたよ。お前が戻ってきたから目が覚めた」
「そっか。ごめん」
三木ヱ門がそんなに眠りが浅いとは思えないし、事実なら寝起きはもっと不機嫌だろうに。
三木ヱ門は眉をひそめて俺を見ていたので、へらりと笑ってみせた。
「俺も早く寝よ」
「……」
立ち上がってのろのろと寝間着を探し始めた俺と、何も言わない三木ヱ門。
「……葉太郎、何かあったか?」
「なんで?別に何もないよー」
軽く返すと、そうか、と三木ヱ門は呟いた。
三木ヱ門が立ち上がって押入れに近づく気配がしてそちらを見ると、布団の用意をしてくれるらしかった。
「ありがとう、三木ヱ門」
三木ヱ門はちらりと俺の方を見た。首を傾げてみせると、何も言わなかった。
寝間着に着替え終えた時には布団の用意はできていて、もう一度ありがとうと言うと気にするなと返ってきた。まだ眉間のしわは消えていない。
「じゃあおやすみ」
「……葉太郎」
「ん?」
三木ヱ門が名前を呼んだので、そちらを向く。ふわりと笑って首を傾げると、三木ヱ門は一瞬ためらう様子を見せてから、言った。
「お前に隠し事をされると、私にはわからない。私には関係ないことなのかもしれない」
俺が隠し事をしているのは確信しているようで、目は強く俺を見つめていた。
「お前が何を隠しているかは別に言わなくてもいいが、私にできることがあるなら言ってくれよ」
「……ありがとう」
やっぱり三木ヱ門は優しいな。
「……じゃあさ、一つ聞きたいんだけどね」
「なんだ?」
――あの四人は天川さんのために死ねるのだと少年は言った。
「好きな人の言葉に従って死ぬのは幸せなことかな?」
――それは幸せなことにも思えるのだ。
三木ヱ門は俺の問いに不可解そうな顔をして、しばし黙り込んだ。
「俺はそれも幸せなのかなと思ったんだ」
「……よくわからんが、幸せではないだろ」
「でも、それに反して生き延びても、相手に顔向けできない。好きな人の言葉に従って死ぬなら、悪くない最期でしょ?」
「死ぬ時点で不幸だろう。もう相手の顔を見ることすらできないんだから」
三木ヱ門はそう言って俺の顔を見た。
「死んだからと言って、相手になにかしてもらえるわけでもない」
「――なるほど」
――天川さんは、あの四人のうち誰かが死んだ時、どう思うんだろう。
――きっと悲しんで悲しんで、それで。
「……ありがとう、三木ヱ門。参考になったよ」
「今の何が参考になったのかわからないが……まあ、お前がいいならいいか」
三木ヱ門は呆れたように言って、おやすみ、と衝立の向こうに消えた。おやすみ、と返して俺も布団に入った。
――天川さんは、自分の言葉で相手が死んだことには気付かずに、そのまま忘れてしまうのだろう。


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