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目を覚まして身体を起こすと、衝立の向こうでもごそりと身じろぎする音がした。
「あぁ……三木ヱ門。おはよー」
「……おはよう」
ぼうっとしつつ返すと、葉太郎は笑った。意外とこいつは私より朝に強い。

食堂に向かうのはいつもより遅かった。久しぶりに葉太郎と一緒だから。
「あ」
「どうした?」
葉太郎がふと足を止めた。うーん、と少し苦笑して、ごめんと言った。
「先に行ってて。俺、ちょっと竹谷先輩のとこ行ってくる」
「なんで?」
「昨日忘れ物しちゃった。取りに行ってくる」
「わかった」
昨日、葉太郎は部屋に戻ってきた。仲直りしたのだからと私から言ったのだ。
――いいの?俺、三木ヱ門が好きなんだけど?
――私は別に気にしない。
――……ああ、そう。
葉太郎は何とも言えない表情で苦笑した。
――三木ヱ門ってそういう、自分勝手なとこあるよね。
私は、姫美さんよりお前のことが好きだと思って選んだわけだが。と言うのは気恥しいし、まだ今の心地よい関係でいたいとも思った。
――嫌なら別に、いいけど。
――嫌じゃないよ。こんな風に思ってるって知られたら絶交かと思ってたから、それよりよっぽどマシ。
そんなことを思ってたのか。どうやらこいつには、私の気持ちは全く伝わっていないようだ。

* *

「お前なあ、もう心配ないかと思ったら」
「ごめんなさいー。だって嫌なんですよー」
竹谷先輩が呆れてため息をついた。俺はそれに眉を下げて苦笑してみせた。
三木ヱ門に言った忘れ物というのは嘘である。というのも、三木ヱ門と一緒に食堂へ入るのが嫌だったのだ。
俺と三木ヱ門は仲直りしたし、今朝は三木ヱ門が、一緒に食堂に行こうと言ってくれた。それは嬉しいのだが、一つ問題がある。
――三木ヱ門が俺から離れて天川さんのところへ行くのを見るのは嫌だ。
「竹谷先輩もどうせ一人でしょ。寂しい者同士じゃないですかー」
「どうせとか言うな!俺は勘右衛門もいるし!兵助も……」
竹谷先輩は言いかけて口を閉じた。
久々知先輩について、今日の朝が勝負だというのは昨日尾浜先輩に聞いた。
竹谷先輩と尾浜先輩は、五年生達を天川さんから引き離そうと決めて、四日前鉢屋先輩達を町に遊びに誘ったらしい。結局久々知先輩しか釣れなかったそうだ。俺にしてみれば予想通りだ。鉢屋先輩は天川さんから離れそうになく、不破先輩はその必要がないし、多分鉢屋先輩から離れない。
とりあえず釣れた兵助は絶対に逃がさん、というちょっと怖い宣言をその日のうちに竹谷先輩から聞いた。昨日一昨日は竹谷先輩がお雪関係で不参加だったが、尾浜先輩が一人でその宣言通りに天川さんに一切接触させずに済んだという。
で、今日は久々知先輩を天川さんに会わせて様子を見るらしい。ここ数日俺と竹谷先輩と尾浜先輩で朝食をとっていたが、今日は別行動である。同室二人で食堂に行くそうだ。
「……大丈夫かなあ」
「まあ、大丈夫だと思いますけど」
「根拠は?」
「……ないですけど」
そう言うと竹谷先輩はまたため息をついて、無責任だなと嘆いた。
「ほら、三日経ってますから」
「まあ……」
竹谷先輩は晴れない表情のまま小さく頷いた。
三日というのに、大した意味はないだろうと俺は知っているが、そんなことを今言うべきではないこともわかる。不破先輩が一日足らずで嫌いになったというのだから、日数ではなくもっと確定的な原因があるはずなのだ。それが満たされていれば期間は関係なく、逆に満たされていなければどれほど期間をあけても無意味になる原因が。
――他の人達はもういいんですよ。
四日前の夜の、あの奇妙な少年が言った通りなら、久々知先輩は大丈夫なはずだけど。
結局あの少年はなんだったのだろうか。
――食堂に着くと、なぜか食堂内が妙な緊張感に包まれていた。

* *

食堂の前に来ると、ちょうど中から伊賀崎が出てきた。姫美さんのところに残らないのかと疑問に思う。相手も私に気づいた。そして、なぜかそのまま足を止めた。妙に難しい顔をしているのがわかった。
シャーッと伊賀崎の首にいるジュンコが鳴いた。
「伊賀崎、食堂にジュンコは連れてくるなと」
「……先輩」
伊賀崎は私の顔をじっと見て、固い声で言った。
「――天川さんのこと、少し気をつけた方がいいかもしれません」
「はあ?」
伊賀崎はそれだけ言って、すれ違って行ってしまった。どういう意味だろう、さっきの忠告は。
――というか、あいつ姫美さんのこと天川さんって呼んだな。
疑問を残しつつ食堂に入ると、ちょうどその姫美さんが盆の受け渡しをしていた。
「おはようございます、姫美さん」
声をかけると、いつも通りの明るい笑顔を見せた。
「おはよう、三木くん!」
――嫌悪感がぶわりと身体を駆け巡った。
――ああ、これか。さっきの忠告は。
「今日は遅かったねえ、来るの」
「そ、うですね」
そうは言ってもこの変わりようはなんだ。先程まで可愛らしく思っていた笑顔さえ、見ていて気分が悪い。
とりあえず顔に出すわけにはいかないから、なんとか微笑を浮かべて盆を受け取り、慌てて姫美さんに背を向けた。
以前葉太郎と一緒の時にいつも使っていた席に座って、深呼吸をした。身体の中に嫌悪感が巣食っているように感じて、それを吐き出すように数度繰り返した。姫美さんが笑っている声がした。目を向けると、いつもの席に座っている立花先輩達と話しているようだった。私と伊賀崎も昨日まであの中にいた。姫美さんに笑いかける自分を想像してみた。
――気持ち悪!
姫美さんが彼らから離れて、仕事に戻った。にこやかに仕事をこなすのを見ているのすら気分が悪い。七松先輩と潮江先輩が連れ立って食堂にやってきて、姫美さんに話しかけた。それにあの人は笑顔で応える。
――なんなんだこれ!
――ああもう、葉太郎、早く来い!
「――気持ち悪い!」
吼えるような大声が食堂内に響いて、しんと静まり返った。一瞬自分の声かと思ってしまったが、食堂内の視線は全て一つの方に向いていた。
目を見開いて、口元は歪に笑みを浮かべたままの姫美さんと、それをぎっと睨みつける七松先輩だ。
「おい、小平太……」
「気持ち悪い、気持ち悪い!なんなんだ、お前!」
七松先輩が姫美さんを睨んだまま喚く。潮江先輩の静止もまったく聞いていない。というか、聞こえていなさそうだ。目の前の相手しか見えていない。
姫美さんの顔から完全に笑顔が消え失せて、怯えた色を見せ始めた。
「ど、どうしたのこへくん――」
「そんな風に呼ぶな!虫酸が走る!」
「おい小平太!」
吐き捨てた七松先輩に、ようやく立花先輩が状況を把握したらしい。伊作先輩達はまだ呆然とした顔でその様子を眺めていた。
「なんなんだ一体!」
「うるさい!仙蔵も伊作もなんでこんな奴を!それより、なんで私はこんな奴を好いていたんだ!ああ気分が悪い!」
「貴様……!」
「ちょ、おい!二人ともやめろ!」
立花先輩が七松先輩に掴みかかろうとしたのを、潮江先輩が慌てて間に割って入った。どけ!と立花先輩が怒鳴る。彼がこんな風に激怒するのを見るのは初めてかもしれない。
「私、部屋に戻る!」
「待て小平太!話は終わってない!」
「あ、おい!」
走って食堂から出ていった七松先輩と、それを追いかけて飛び出していった立花先輩、潮江先輩がその二人を追いかけていって、食堂はまたしんと静寂に包まれた。
姫美さんは青い顔で三人が出ていった食堂の出入り口を見たまま立ち尽くし、伊作先輩や不破先輩が、はっとしてそんな姫美さんに声をかける。鉢屋先輩はその間も呆然としていた様子だったが、急にがたりと椅子を蹴って立ち上がり、無言のまま出入り口から飛び出していった。
伊作先輩達に椅子に座らされた姫美さんは、机に突っ伏し、ついに泣き出してしまった。
生徒達がだんだんと小声で会話し始め、少しずつ食堂内に音が戻ってきたが、姫美さんのしゃくり上げる声が一番大きく響いている。生徒の多くは、そんな姫美さんの方を心配そうに見ている。
――そして、私はそんな姫美さんを見て、いい気味だと思ってしまった事実に愕然とした。

* *

食堂にはざわざわと小声で囁き合う声ばかりで、いつもみたいな楽しげな会話は一つもなかった。
食堂の入り口近くの席、普段天川さんを好いている生徒が使っている席で、善法寺先輩と不破先輩が、机に突っ伏している天川さんに心配そうに声をかけていた。
「……ちょ、竹谷先輩、なんなんですかこれ」
「俺に聞くなよっ」
自然と俺達の会話も小声になる。天川さんの方を遠巻きにしながらおばちゃんに声をかけると、困った表情で朝食の載った盆をくれた。
「何かあったんですか?」
「私もよくわからないんだけど……七松くんが急に姫美ちゃんに、気持ち悪いって怒鳴って」
「七松先輩が?」
竹谷先輩と顔を見合わせる。どうしたんだろうねえ、とおばちゃんが心配そうに天川さんを見やった。
あの席にいない立花先輩と鉢屋先輩は、七松先輩と喧嘩になって出ていったというところかと予想する。
「もしかして七松先輩も?」
「……そうでしょうね」
七松先輩も天川さんを嫌いになってしまった。そして良くも悪くも素直でものを考えない性格だから、面と向かって天川さんを怒鳴りつけたのだろう。
「なんか大変なことになりましたね……」
「おお……」
食堂内を見渡すと、多くは天川さんを心配そうに見る生徒だが、その中で気にせず食事をすすめている生徒がいる。
――天川さんを嫌いになった生徒達は、普通に食事を続けている。
「竹谷先輩、俺は三木ヱ門のとこに行きます」
「おう……俺は勘右衛門と兵助のとこ行ってくるよ」
三木ヱ門も久々知先輩も、どちらも天川さんを気にしていないように見えた。
――なんか、喜んだらいいのか怒ったらいいのか、複雑な気分だ。

* *

その時食堂では神崎左門、次屋三之助、富松作兵衛の三人も朝食を摂っているところだった。
「……なあ、お前らの先輩方大変なことになってるけど」
「七松先輩ってああいう人だからなあ」
「潮江先輩、二徹の上に今朝会計室で起きたら鍛錬しに行ってたぞ。大変そー」
「……お前らも天川さんのこと心配じゃねーの?」
「なんかなあ」
「うん」
別に、と三之助も左門も頷いた。

時友四郎兵衛は姫美を心配そうに見ていて、同じ机に座っていた池田三郎次と能勢久作はそれを見て眉を寄せた。
「四郎兵衛どうした?」
「うん……天川さん、大丈夫かなあ」
「別に気にしなくていいだろ。お前別にもう天川さんのこと好きじゃないって言ってたじゃないか」
「そうなんだけど……あんまり泣くと七松先輩が悪者に思われるんだな」
「いや、実際先輩が悪いと思うけど。さすがに面と向かって言うのはどうだよ」
「……そうだね。三郎次の言う通りなんだな」
四郎兵衛は一つ頷いて、視線を自身の食事に戻した。



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