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その日の夜、俺は狼の小屋の前にいた。
小屋には狼が八頭ほど飼われている。みんな目をきらりと光らせて、難しい顔をして座り込んでいる俺を見ていた。
「……どうしたのさー、黒兵衛」
手を伸ばして頭を撫でると、いつもの通りグルグルと唸って頭を垂れる。数日前に竹谷先輩と散歩に連れ出したあの黒い狼である。
様子を見る限り、別に機嫌が悪いわけでもなければ体調が悪いわけでもなさそうだ。
「なんで餌食べないの?」
黒兵衛から手を引いて、小屋の床に置いてある鶏肉の塊を睨む。昼にほとんど食べなかった黒兵衛のために、夕方わざわざいつも世話になっている農家から追加でもらってきたのに。黒兵衛に声をかけても、知らんぷりで伏せるだけだった。
「……あ!こら、お雪!」
そうこうしているうちに近くに寄ってきていたらしい白い毛並みのお雪が、鶏肉をくわえてしまった。諌めるとすぐに放したが、その場で座り込んでいるので諦めてなさそうだ。
「昼も黒兵衛の分食べたでしょー。だめだよ」
目を見つめると、お雪はふいっと視線を逸らした。食い意地の張ったことだ、まったく。
今の月は下弦だ。雲はなく、辺りは薄明かりに白く照らされている。
「――」
ふと気配を感じて、後ろを振り返った。
少し離れたところに萌黄の装束を着た少年が、薄い笑みを浮かべて立っていた。
「――こんばんは」
「……こんばんは」
びっくりした。まったく気付かなかった。いくら狼達に気を取られていたとはいえ、まさか後輩に背後をとられるとは。
少年がゆっくりと近づいてきたので、待って、と制止した。不思議そうに首を傾げられたので説明する。
「今狼小屋の扉が開いてるんだ。危ないから近づかないで」
「ああ、そうなんですか。じゃあここで見てます」
しれっとそう言って、少年は足を止めた。そこも毒蛇達のいる小屋の前だから、あまり下級生は近寄っちゃダメなんだけどな。まあ、俺がいるからいいか。
「どうしたの、こんなところに用事もないでしょ?」
「まあ、そうですね。別にこれといって」
はっきりとして聞き取りやすい声ではあるが、内容は釈然としない。彼は俺の言葉に返事はしているけど、目はひたすら毒蛇達の方に向いている。
「……えっと、蛇が好きなの?」
「嫌いじゃないです」
「孫兵と話が合いそうだね」
少年はふっと俺の方を見て、にこっと笑った。
「森林葉太郎……先輩、ですよね」
「うん」
「先輩は最近忙しいでしょう。あの人達のことで」
少年がそんなことを言い出すので驚いた。あの人達というのは、もしかして天川さん達のことだろうか。俺や竹谷先輩達みたいに色々あるならともかく、そうでない生徒達が彼らのことに対して何か言っているのを聞いたことがなかった。せいぜい食堂の席を占拠してて邪魔だとかいう程度。
「なんでそんなことを?」
「いえ、別に。大変そうだなって」
「今はそうでもないかな。結構みんな委員会をちゃんとしてくれるようになったから」
言うと、そうみたいですね、と少年は笑った。よく笑う子らしい。挨拶を交わしてから今まで口の端はずっと緩く持ち上がっている。
「あんたは孫兵の友達かなにか?」
「いえ?まったく」
「ああ、そう。孫兵も生物委員で、特に蛇が好きなんだよ」
「知ってます。目立つじゃないですか、彼」
少年はそう言ってしゃがみ込んだ。じっと毒蛇達を見つめている。
「あんた名前は?」
少年はゆっくり俺の方を見て、ふわりと笑った。
「ジュンコ」
「え」
「って言うんですよね、この赤い子」
どう考えても女の子の名前だ、と思ったら。少年は人差し指で毒蛇小屋の中を指した。その先にいるジュンコは、扉のすぐ近くでドクロを巻いていて、少年の方をじっと見上げていた。
「そうだよ」
「この子素敵ですねえ。賢くて大人しくて、見た目も美しい」
「ねー。俺もジュンコは素敵だと思うよ」
何と言っても孫兵が大事に大事に育ててきた最愛のパートナーである。孫兵はどのペットにも等しく愛情を注ぐが、ジュンコについては本当に特別なように見える。
「伊賀崎孫兵がいつも一緒にいる子でしょう」
「うん。やっぱりあんた孫兵と気が合いそうだよ」
「そうですかね」
少年はそう言って立ち上がり、今度はちゃんと俺の方を見た。
「私、先輩に会いに来たんです」
「あ、そうなの」
その割にはこちらにはまったく興味なさそうだったけど。しかし少年は淡々とそう言った。
「先輩は天川姫美のこと、結局どう思ってるんですか」
「……なんで天川さんの話が急に?」
「いいじゃないですか。答えてくださいよ」
にこにこと笑って言うので、変に気が緩む。この子、変な子だなと今更思った。
「どうって、別に。いい人だと思うけど」
「いなければいいのに、とか言っておいて?」
少年が薄笑いのままで言った。むっとして眉を寄せると、少年はすみません、と苦笑した。
「わかってますよ。先輩は天川姫美のことは本当に気にしてるんですから」
「なんでそんなこと知ってるの」
「見てればわかります」
見てわかれば今日みたいに先輩達に恨まれたりしてない。
「狼達もいいですね」
「は?」
「大切に育てられてるのが見てわかります」
「……ありがとう」
本当に変な子。なんでまた急に狼達の話なんか。
「あ、先輩、お雪が」
「え、ああまた!こら!」
目を離している隙に、また黒兵衛の餌を食べようとしていたらしい。俺に気付かれてやめたものの、恨みがましい目を向けてきた。
「もー、どうしたの。いつもそんなに聞き分けの悪い奴じゃないのに」
「あはは、大変そうですね」
少年がからからと笑った。お雪の頭を撫でようと手を伸ばすと、お雪は少し後ろに後ずさりしたが大人しく撫でられた。怒られると思ったのかな。
「……へえ、先輩すごい」
「え?なにが?」
「お雪に触るなんて。危ないですよ」
「大人しい子だから大丈夫。それに、上級生になって狼が怖いなんて言ってられないし」
「そういうことでもないんですが」
少年は苦笑して、まあいいやと呟いた。
「あと二人なんですよ」
「は?なにが?」
「あの人達の中で、先輩方が連れ戻せる人」
一瞬戸惑って、また天川さん達の話に戻ったのかとわかる。話題の切り替えが自由すぎる。
「なに、それ」
「あと残ってるのは六人で、その内二人は先輩方で元に戻せるんですよって」
「……六人?」
そう言われて、天川さんの周りにいる人間を思い浮かべてみる。とりあえず今日会った六年生二人と不破先輩、あとは鉢屋先輩と久々知先輩、タカ丸さん、三木ヱ門、孫兵。七松先輩や潮江先輩なんかは委員会で会っていないけどまだ天川さんが好きで、喜八郎と浦風もいたはずだし……ってどう考えても六人じゃ足りない。
「わかりません?立花仙蔵、善法寺伊作、斎藤タカ丸、鉢屋三郎、田村三木ヱ門、伊賀崎孫兵。の六人ですよ」
「先輩に対して呼び捨ては――」
「ああすみません。先輩って礼儀にうるさいですよね」
なんとなく誠意の感じない謝罪だ。あとなんか生意気なこと言ってる。そういうところが失礼だって。
「というか、他にもいるでしょ。天川さんのことが好きな人」
「他の人達は全員もういいんですよ。あとはこの六人だけ」
「なんでそんなことわかるの?」
「見てればわかります」
またそれか。少年は薄く笑っているだけだった。
「あんた、みんなが天川さんを嫌いになる原因でも、知ってるの?」
「ま、そうですね。知ってます」
「え」
簡単に肯定されたので驚く。俺達が色々考えても結局よくわかっていないのに。
「それって」
「教えませんよ。それより、あと二人です」
先回りしてぴしゃりと拒否されてしまった。なんで。
「……あと二人って、三木ヱ門と孫兵?」
「さすがにわかりますよねえ。あからさまですもんね、他の四人は」
少年は笑った。そしてふとまた毒蛇達を見た。
「その二人は、貴方達がちょっと力を貸せばすぐに元に戻せるんですよ」
「その元に戻すって、どういうこと?天川さんを嫌いになるあれのこと?あれって全員に起こるものなの?」
少年はこちらを見て笑っただけで、俺の問いには答えなかった。
「――田村三木ヱ門……先輩、と伊賀崎孫兵を元に戻したら、貴方に"権利"をあげますよ」
「権利?」
「はい。だから頑張ってください」
「なんの権利?」
「それは今度のお楽しみってことで」
少年は楽しそうに笑ってみせた。色々と気になることはあるが、もう追及する気になれない。どうせまともな答えは返ってこないのだろう。
「……あとそのお雪ですけど」
「また狼の話ね。なに?」
少年はじっとお雪を見ていた。白い月の光さえ吸い込むような黒い目をしている。
「気を付けてくださいよ、本当に。身篭った動物が怖いって、生物委員の先輩ならよくご存知でしょう」
「……え?」
「お雪、身篭ってますよ。黒兵衛との子ども」
思わずその二匹を見やると、二匹はぴったりと身をよせ合うようにして伏せていた。思えばさっきからずっとこの状態でいた気がする。
「本当に?」
「ええ。試しに腹でも触ろうとすればどうです?噛まれますよ」
「そんなこと言われて出来ないよ!え、なんでわかるの」
少年はまたふわりと笑って言った。
「――見てればわかります」
その時急に辺りが暗くなった。驚いて空を見上げると、先程まで輝いていた月がなくなっていた。と思ったらすぐにぼんやりとした光が戻ってきて、ああ雲に覆われたのかとわかった。
さっきまで雲なんてなかったのにな、と思いながら目を少年に戻すと。
「――あれ?」
少年はもうそこにはいなかった。

[あとがき]



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