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今日の授業が全て終わり、浦風藤内は教室を出ようとした。
「と、藤内!ちょっと待って!」
そこに慌てた声が後ろからかけられて、藤内は教室を振り返った。
「数馬?なに?」
「あ、あのね、今日さ、天川さんのとこ行く?」
数馬がなんとなく言いにくそうにゆっくりと聞いた。
「うん。これから復習と明日の予習をやって、その後行くつもり」
答えながら、もしかして数馬もそのつもりなのかなと気づく。委員会が忙しいとかで、彼は最近天川姫美のところに行っていない。気まずいとか思っているのかと予想する。
「姫美さん、最近数馬が来ないの気にしてたみたいだよ」
と、気を使って教えてやる。数馬がというよりは、最近人が減ったのが気がかりだったようだ。先週までは人が集まりすぎて先生に注意されたくらいだったのに、昨日一昨日は十人足らずと随分小ぢんまりしていた。
「天川さん、僕のこと覚えてないでしょ」
数馬がいつものことだけど、と苦笑した。思ったよりさらりとそんなことを言うので驚く。普段から影の薄さを気にしている数馬だが、姫美を好きになってからは忘れられてないだろうかとすごく心配してたのに。そして忘れていない姫美にまた嬉しそうに笑っていたのに。
「そんなことないよ」
「ううん、そうなの」
藤内は首を傾げて数馬の顔を見ていた。
――というか、覚えてられるとちょっと不快。
という本音は見せないように、数馬はそのまま笑顔を浮かべていた。
「そんなことより、藤内、予定変更できないかな?」
「え、どういうこと?」
急な質問に、藤内は戸惑った。
「予定変更って……俺に何か用事でもあるの?」
予習復習はやりたい。というか最近まともにやった記憶がなくて、少し焦っているのだ。
「そうじゃないんだけど……」
数馬は眉を下げて言い淀み、少ししてからきっと藤内の目を見つめた。
「――今日一日天川さんと話したりしないで欲しいんだ」
「……え?」
思いもよらない言葉に藤内は一瞬反応が遅れた。数馬は真剣にそんな藤内の目を見つめていた。
「なんで……っていうか、嫌だよ。今日が三年生の日で、明日から先輩方がいるからまともに近づけないんだ。数馬も知ってるでしょ?」
「お願い!今日だけでいいから!」
「ええー、なにそれ。どういうことなの?」
藤内は眉を寄せて数馬に問うが、相手は口を閉じて何も言わずに黙り込んでから、お願い、ともう一度言った。
「それって今日じゃなきゃだめなの?」
「駄目……ねえ、お願いだから、今日はやめてよ」
数馬の顔が何故か泣きそうな程歪められていて、藤内は狼狽える。昨日は後輩に泣かれたのだが、あれもかなり堪えたのである。
「……はあ、しょうがないなあ」
「え、と、藤内それって」
「三回もお願いされたらさすがに断れないよ。よくわからないけど、今日一日姫美さんと会わなきゃいいんでしょ?」
「あ、ありがとう!藤内!」
数馬は嬉しそうに笑って何度も礼を述べた。

* *

「ねえ、三郎〜」
「だから、行かないってば!勘右衛門しつこい!」
鉢屋三郎が呆れと苛立ちが半々の声で、先程から食い下がってくる尾浜勘右衛門を睨んだ。勘右衛門はそんな三郎に、お願い、とまた両手を合わせるだけだった。案外頑固で図太いところがある。
「雷蔵もなんとか言ってくれよ!」
「えー、僕?」
隣で様子を見ていた不破雷蔵。勘右衛門に目を向けられて困ったように眉を下げた。
「雷蔵、三郎を説得してやってよ。甘味処行きたくない?」
「うーん……」
「雷蔵は私と姫美さんのとこに行くって言っただろう!」
勘右衛門が今度は雷蔵に取り入ろうとするので三郎が怒った表情をする。そんな三人の様子を見ている竹谷八左ヱ門は困った顔、久々知兵助は呆れた顔だ。
どういう状況かというと、先ほど勘右衛門と八左ヱ門が、五人で町に遊びに行こうと誘いに来たのである。この二人は最近委員会活動が忙しいと姫美のところに来ていなかった。ようやく一段落ついたから町に出て甘味処にでも行こうと思って、と説明した。
兵助は最初こそ三郎と同じく、姫美のところに行くからと断ったのだが、勘右衛門からその甘味処で期間限定で豆腐を使った甘味を振舞っていると聞いて、悩んだ末勘右衛門と八左ヱ門に賛同したのだ。三郎はやはりというべきか、それでも自分は行かないと言い張る。三郎が行かないならと雷蔵も残ることにした。
そうなると勘右衛門と八左ヱ門の計画はほとんど成功とは言えない。各委員会に人が戻ってきて、ある程度通常通り回り始めたのは事実だが、本当なら町に遊びになんか行っている場合ではないのである。ひとえに友人達を姫美から遠ざけるための今回の作戦だ。三人をなんだかんだと理由をつけて二日間姫美から遠ざけようというわけだ。
「一日くらい良いじゃない」
「馬鹿。その一日の間に、姫美さんがあの立花先輩やタカ丸さんに惚れてしまうかもしれないじゃないか!」
「そこで善法寺先輩を出さないのって……」
「……とにかく、私は行かないからな!」
三郎がふんと鼻を鳴らして、そのまま背を向けて足早に歩いていってしまった。ああ、と八左ヱ門が焦ったような声を上げたが、三郎は振り返らなかった。
「じゃ、僕も行くよ。三人で楽しんできて」
「雷蔵もやっぱり来ないのか?」
「町に遊びに行こうって言って一番に反応したのはお前じゃないか」
兵助と八左ヱ門が言ったが、雷蔵は三人に苦笑しただけで、その場を離れた。
――五人で町に出かけるなんて久しぶりなのになあ。

姫美が今日は学園内の掃除をするというから、少し探した。いつも生徒達が賑やかにしていたから、どこにいるか知らなくても見つけられたのに、今日は来てみれば伊賀崎孫兵と斎藤タカ丸の二人しかいなかった。
「姫美さん!探しましたよー」
姫美の姿を認めて三郎が嬉しそうに笑って駆け寄った。雷蔵もその後に続き、そんな二人を見て姫美も心底嬉しそうに笑った。
「遅かったねえ」
「ちょっと足止めくらって」
タカ丸の言葉に簡単に言って、三郎は近くに立てかけてあった箒をとって手伝います、と言った。
「……あの、なんで今日はこんなに人が少ないんですか?」
雷蔵が問いかけると、姫美の髪を弄っていたタカ丸が手を止めて答えた。
「さっきまで三木ヱ門くんもいたんだけど、立花くんと善法寺くんを探すって言って、行っちゃったの」
「お二人は来てないんですか?」
「不破くん達と一緒で、なにか用事でもあるんじゃないかな」
タカ丸がのんびりそう言ったので、まあそんなところかと雷蔵は納得しておく。
「あ、姫美さん僕も手伝いますよ」
「ありがとう、雷蔵くん!」
タカ丸との会話はそこで打ち切って、雷蔵も箒を取り上げた。タカ丸は会話が終わったとともに、姫美の髪をいじるのに戻った。彼は姫美の綺麗な髪が好きだそうだ。
「――あ!いた!」
そこに走ってやって来たのは、先ほどちらりと話に出た田村三木ヱ門だった。タカ丸がおかえり、と声をかけたが、そんなにのんびりした雰囲気では無さそうだったのに雷蔵は首を傾げる。
「不破雷蔵先輩!ちょっと来てください!」
「え、僕?」
「どうしたの三木くん」
突然名前を呼ばれて戸惑う雷蔵と、目を丸くして三木ヱ門に事情を聞こうとする姫美。三木ヱ門はすみません今は、と姫美に簡単に謝って、返事を聞かないまま雷蔵の腕を掴んだ。それを見て三郎が眉をひそめる。
「おい」
「急いでるんです!」
「わ、わかった、わかったから!三郎、これよろしく!」
ぐいぐい引っ張っていくので、雷蔵は箒を三郎に頼んで三木ヱ門について行った。
「ねえ、なんなの?」
「立花先輩と伊作先輩を止めて下さい。探しに行ったら、あの二人、葉太郎に絡んでたんですよ!」
「ええ!?」
三木ヱ門の言葉に雷蔵は目を見開いた。普段から冷静な立花仙蔵と、温厚な善法寺伊作が、まさか二つ下の後輩に?
「鉢屋先輩やタカ丸さんじゃ、立花先輩達に加担するに決まってるし、孫兵は三年だし」
「田村は?」
「……無理です」
「喧嘩中だから?」
尋ねると驚いたように雷蔵に目を向けたが、三木ヱ門はすみません、と肯定を含めて謝った。
「だから不破先輩しか頼めません」
「えー……」
ため息をつきそうになって飲み込む。あの二人は本気で怒ったら怖いのだ。
三木ヱ門は走って雷蔵を先導していたが、すぐ近くの六年長屋の角まできて立ち止まった。あれです、と心なし小さな声で言い、角の先を指した三木ヱ門。雷蔵が壁から顔だけ出してそちらを伺うと、少し遠くに立花と善法寺がいて、その二人の前に森林葉太郎が立っているのが見えた。
「お願いします、先輩」
こんな時ばっかり先輩扱いして、と雷蔵は口に出さないまでも横目で三木ヱ門を見やった。が、その三木ヱ門は眉を寄せて三人の様子を見ているばかりで、雷蔵の視線には全く気づいていなかった。
――心配なんだな、と気づいた。
「……しょうがないなあ」
雷蔵はため息混じりに言って、陰から出て三人の方へ向かった。立花と善法寺が一方的に話しているのを、葉太郎は少し俯きがちに聞いているだけだった。
以前三郎達に絡まれた時もこんな感じだったなと雷蔵は思い出す。
「――立花先輩、善法寺先輩」
雷蔵が声をかけると、二人は不機嫌な表情のまま振り返った。
「姫美さんが待ってましたよ」
「ああ……そうか」
「早く行ってあげてください」
「……ま、そうだね。行こう、仙蔵」
善法寺が頷いて立花を誘うと、彼は一つ頷いてから、もう一度葉太郎を見た。不思議そうに雷蔵を見ていた葉太郎が、はっとして立花の視線を受け止める。
「森林、最後にもう一度言っておくが、お前が姫美さんに謝るまで、私達はお前を許さないからな」
忌ま忌ましそうにそれだけ言って、二人は雷蔵と葉太郎に背を向けて去った。
その背が見えなくなるまで見送って、雷蔵はほっとため息をついた。それから六年長屋の方をちらりと見ると、紫が走り去って行くのが見えた。逃げたな、と雷蔵は今度は呆れたため息をついた。
「――あの、不破先輩」
「あ、森林、大丈夫だった?」
「はい。ありがとうございました、助けてもらって」
「ううん。僕は別に」
頭を下げた葉太郎に軽く手を振ってみせた。
「田村が呼びに来てくれたんだよ」
「三木ヱ門が?」
雷蔵が微笑んで言うと、葉太郎は目を丸くして驚いた後、ふと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「後でお礼言っておきなよ。喧嘩してるみたいだけど」
「はい。そうですね」
葉太郎は眉を下げて笑った。
「じゃあ、僕も戻るから」
「あ、待ってください。ちょっと聞きたいことが」
「え?なに?」
雷蔵が首を傾げると、葉太郎は少し言いづらそうに目をふらりと泳がせてから、意を決したように雷蔵の目を見た。葉太郎がこんなはっきりしない態度をとるのは珍しく、なんとなく身構える。
「――不破先輩って、天川さんのこと嫌いなんですか」
質問するような言葉だが、彼の強い目と断定的な口調で、だいたい確信しているらしいことはわかった。
「……はあ」
雷蔵は大きくため息をついてから、葉太郎の顔を見て苦笑を浮かべた。
「バレちゃった」
「……やっぱり」
「まさか森林にバレるなんてなあ」
葉太郎は雷蔵の様子を伺った。至って普通なようで、なんとなく拍子抜けだった。
「いつからですか?」
「結構前だよ。えっと、二週間くらい前だったかな」
「そんなに前から?全く気付きませんでした」
「そりゃあ、隠してたから」
二週間前というと、かなり早い時期だ。
「どうして、嫌いなのに天川さんのところに残ってるんですか」
「うーん……嫌いというか、恐ろしいんだよ」
「ああ、みんなそう言いますね」
やっぱりよくわかりませんが、と葉太郎は小さくため息をついた。雷蔵は葉太郎の顔を見て、首を傾げる。
「みんなって?」
「え、知りません?竹谷先輩とか尾浜先輩とか、他にも何人もいますよ。天川さんのことが嫌いとか怖いって言う人」
「そうなの!?」
今まで自分だけだと思い込んでいた雷蔵は、その情報に目を見開いた。葉太郎はそれを見て、だからかと思った。
「一人だと思ってたから、角が立つかと思って残ってたんですか?」
「まあ、それもあるといえばあるけど……うーん」
雷蔵は曖昧に答えながら、本当のことを言おうかどうしようかと考えた。
「……言いたくないならいいですよ、無理に答えなくても」
「ううん、別にそんな大層な理由じゃなくて……三郎がね」
結局言ってしまうことにした。鉢屋先輩?と葉太郎が首を傾げる。うん、と頷いて雷蔵は続けた。
「三郎が姫美さんに心酔しちゃってるみたいなんだ。あと、さっきの二人とかタカ丸さん」
「そうらしいですね」
葉太郎が頷いた。
「だから、少し心配だなって」
「……ふうん」
葉太郎は目を瞬かせてから視線を落とした。その様子を見て、雷蔵はやはり話すことはなかったのではと思い始めた。もう言ってしまったものは仕方ないが。
葉太郎は少ししてから顔をあげて、雷蔵を見て笑った。
「不破先輩は優しいですね。何かあったら言ってくださいよ。助けてもらったし、五年長屋の裏口のことも。お返しがしたいんで」
「いいよ、別に大したことしてないんだから」
雷蔵はそう言って苦笑した。
――でも、やっぱり言ってよかったかも。
今まで一人だと思っていたのだ。思わぬ理解者の出現に、雷蔵はなんとなく心強い感じがした。
「ところで、最後に一つ質問なんですけど」
「なに?」
「天川さんを嫌いになる前に数日天川さんと話さなかった時期ってあったでしょう?不破先輩の場合は何日でした?」
「……ん?」
葉太郎の問いに、雷蔵は首を傾げる。そして自分の姫美への気持ちが変化したときのことを思い返して。
「……別にそんな時期なかったけど」
「え?」
「中在家先輩に、図書委員会に行ってやってくれって頼まれたからそうして、その日の夜に会った時にはもうこうなってた」
葉太郎はその返答に、思わず口をぽかんと開けて驚いてしまった。



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