39



保健委員の手伝いで手拭いを洗濯した帰り。普段は二年生が率先して保健委員の手伝いに行ってくれるのだが、今日は三人とも実習に出ていていない。
三反田はたまに視界から消えるが――影が薄いのに加えて歩く速さが違う――それ以外は特に不運に見舞われることもなく。
「保健委員って」
「はい?」
「言うほど不運ってわけでもないんだね」
「えっ!」
三反田は驚きと喜びを混ぜた声を上げた。
「そうですかっ?」
「今まで噂で随分酷いって聞いてたけど、そんなに不運なの見た記憶がないなって」
たまに何もないところで躓いたり、焦ったりしたら連鎖的に失敗が続くのはよく見るが。
「不運じゃないって言われてそんなに喜ぶ?」
「そりゃもう!今まで不運不運って言われてきたから――」
少し前の地面にぽつんと一枚だけ落ちている葉を見つけた。
「不運じゃないって、なんかもう、一つのステータスみたいな――」
俺を見上げてにこにこ話し続ける三反田の腕を引くと、わっと小さく声を上げながら進行方向をずらす。
「――あっ」
突然体勢を崩した三反田の腕から、洗濯したばかりの手拭いがはらりと一枚落ちて、地面の葉の上に被さった。
「あー、せっかく洗ったのに」
「三反田待っ――」
億劫そうな声でそれを拾いに寄っていく三反田に注意しようとした時。
「え、ああぁぁぁ……」
下に遠ざかっていってしまった三反田。
「……あーあ」
「ちぇー、やっぱり保健委員かあ」
突然後ろから残念そうな声がかかった。
「葉太郎が来た時はおって思ったんだけど」
「……喜八郎?」
がさがさと草影から出てきたのは、最近顔を見なかった喜八郎だった。肩にいつものように鋤を担いで、三反田が落ちた落とし穴をのぞき込んだ。
「喜八郎、なにやってんの?」
「え?なにって?」
尋ねるときょとんとして首を傾げる。
「いや……最近見てないなって」
天川さんのところは、と聞こうとしてやめた。最近天川さんの名前を出すと、周りの人達は程度の差はあれどみんな嫌な顔をする。
そして失念していたが、俺は現在天川さんの周りにいる人達によく思われていないのだった。名前を出すと嫌味でも言われそうだ。喜八郎なら問題なさそうだけど。
「んー……」
喜八郎は目線をふらふらとさせて何か考えている様子を見せた。
「……昨日の夜、滝夜叉丸が頼み事してきたの」
「そ、そうなの」
急に話始めたので慌てて相槌を打つ。
「なんか、七松先輩に八つ当たりされたんだってさ。鍛錬しようと思ったのに落とし穴の数が全然足りないって」
「それは可哀想な話だね」
滝夜叉丸全然関係ないじゃん。
「それで、増やしといてって言われて、昨日の夜寝る前に落とし穴掘ってたんだ」
「……七松先輩も迷惑なことを」
それで喜八郎が掘った落とし穴は、七松先輩ではなく後輩達が引っかかるのは目に見えている。
「で、久しぶりに思いっきり穴掘りしたらうずうずしてきたから、今日は色んなとこに掘ろうと思って」
「いや、それ迷惑だっていつも言われてるでしょ」
「いいじゃない、別にい」
また勝手なことを。もういいよ、あんたのそういうところを注意するのは、俺じゃなくて滝夜叉丸の役目だよね。
「で、これが今日のトシちゃん第一号」
「ああ、そうだったの」
「せっかくだから珍しい人に落ちて欲しかったんだけどなー」
「一瞬迷ったんだけどねー。目印なのか、それに見せかけた誰かのいたずらなのか」
「惜しかったなー」
最近は喜八郎が穴掘り休業中だったけどどうなんだろうな、と思いつつ一応避けようと思ったのだ。
「じゃ、僕あと二十はターコちゃん作りたいから、行くねー」
「あ、ちょっと待って」
また唐突に喜八郎が去ろうとしたので呼び止める。
「……作法委員会のことだけど」
「作法委員会?」
「顔出してあげてよ。伝七と兵太夫が寂しそうだったから」
「あの二人が?」
喜八郎は目をぱちりと瞬かせ、首を傾げてふーんと呟いた。
「今日は作法室でお茶するって言ってたから」
「まあ、気が向いたら」
手応えのない返事だ。少し眉を寄せた俺に気付いたか気付かなかったか、喜八郎はじゃあねと背を向けて行ってしまった。
「……あのー」
「あ、ごめん三反田。忘れてた」
「忘れてたって、酷いですよお」
助けてください、と三反田が声を上げる。なかなか上がってこないと思ったら思ったより深い穴だったようで、三反田が手を伸ばしても縁に届かないらしかった。
「第一号って言ってたから、気合入ってたんだろうねー」
感想を述べながら手を伸ばす。とりあえず手拭いの入った籠を受け取って救出、それから三反田を引き上げた。
ぱたぱたと装束の土を落としにかかる三反田を見て、俺はふと苦笑した。
「やっぱり不運だね」
「……そうですね」
そして手拭いをまた洗って戻る途中で蛸壺に落ちている左近を見つけてしまって、不運委員の噂はガセじゃなかったんだなあと実感した。そうか、彼らの不運の多くは喜八郎に起因していたのかもしれない。

* *

ふう、と額に滲んだ汗を拭って、綾部喜八郎は上を見上げた。十分掘り進んだことを確認し、蛸壺から這い出て一息つく。これで今日の最低目標、蛸壺二十個は完成した。
――こんなに楽しいこと、なんで長らく忘れてたかな。
近くの木にもたれかかって一旦休憩。喜八郎はぼけっと空を見つめていた。
――今からどうしよっかなー。
蛸壺二十個は最低目標なので、もちろんあといくらか作るつもりではある。そのままとりかかってもいいのだが。
――姫美さんのとこにでも行こうか。
一度彼女に会いに行って、蛸壺を掘ったから気をつけるようにと言っておいた方がいいかもしれない。
――あ、でも作法委員。
そこまで考えて、先程葉太郎が言っていたことを思い出した。
伝七と兵太夫が寂しそうだという。あの二人はどちらも気の強い性格をしているから、どうも信憑性に欠けると思う。
――どっちにしよう。
姫美のところに行くか、委員会に行くか。
うーんと考え込みそうになって、ふと息をつく。こんなことで悩むのも時間の無駄だ。ぱっと決めてぱっと動いて、それでぱっと穴掘りを再開するのだ。
最早なんのために中断したのかわからない。別にどこかに行かなければならないわけでもないのに。
まあいっか、と喜八郎は立ち上がって、木に立て掛けていた踏鋤の踏子を担いだ。
――気の向くまま歩き出せば、足が向かっていくのは四年間通いなれた作法室だった。

作法室へ向かう道程の上に、姫美と彼女を好く忍たま達が集まっていた。その団体の中に後輩の浦風藤内を見つける。
――そうだ。
「藤内ー」
「え、綾部先輩?」
ふと思いついたので藤内の名前を呼んだ。周りの数人もつられて喜八郎の方を見た。
「今から作法室行くよ」
「はあ、そうなんですか」
「藤内も行こうよ」
「えー!なんで俺まで!」
誘ったら嫌そうに顔をしかめた。今日は姫美と一緒にいるのだから勘弁して欲しいという心情だ。
「いいでしょ。最近顔出してないし」
「だからってなにも今日行かなくても……」
行くならせめて上級生が姫美を独占する明々後日以降がいいのだが……。
「もう決定ー」
「ええー。なんですかそれ!」
「委員長は行きますー?」
喜八郎は非難の声を無視して、姫美の傍にいる、作法委員会委員長の立花仙蔵に声をかけた。
しかし立花は喜八郎の言葉に眉を寄せた。
「行かない」
「だろうと思いました」
姫美に心酔しているようなあの立花が、久しぶりだからという理由だけで姫美の傍を離れるはずがない。
わかってるなら聞くなと顔に出ている立花に背を向けて、喜八郎は藤内に言った。
「じゃ、行こ」
「本当に俺も行くんですかー」
不満そうな藤内には構わずに歩き出そうとした。
「あ、綾ちゃん、藤内くん!」
後ろからかけられた声にぴたりと動きを止める。
「なんですか姫美さん」
藤内が嬉しそうに笑った。彼は姫美に名前を呼ばれるのが好きなのだ。
喜八郎は、ちらりと姫美に目を向ける。
「いってらっしゃい!」
姫美はにっこりと笑って軽く手を振った。藤内はそれを見て頬を赤くして、はい、と返事をした。
喜八郎はじっと姫美の顔を見た後、そのまま無言で顔をそむけて、今度こそ作法室に向かって歩き出した。
いってらっしゃいと言われてしまって行くしかなくなった藤内がそれについてくる。
「綾部先輩、歩くの速いですよ」
途中藤内が不満を滲ませてそう言ったが、喜八郎は無視して速度も緩めなかった。

作法室では、作法委員の一年生、笹山兵太夫と黒門伝七、そして何故か学級委員長委員会の尾浜勘右衛門と黒木庄左ヱ門が、饅頭を茶請けにしてお茶会をしていた。委員会活動というより、おしゃべり会である。
「え、何やってるの?」
喜八郎の後ろでは藤内がぽつりと呟いた。
作法委員会でお茶をするといえば、当然茶道の方だと思っていたのだ。作法委員会の名の通り、色々な作法を学び研究する委員会である。
「見た通り、お茶会?」
「というか、なんで尾浜先輩と庄左ヱ門もいるんですか?」
藤内がもっともな質問をするも、勘右衛門は当然のように、二人だけじゃ楽しくないじゃない、と笑う。
「作法室、いい抹茶あるねー。すごく美味しい」
「なに当たり前のように飲んでるんですかあ!立花委員長に怒られますよ!?」
「バレないから大丈夫だって」
藤内はけらけら笑う勘右衛門の反応を信じられないといった面持ちで見ている。
喜八郎はそんな藤内を置いてひょいと作法室に足を踏み入れた。藤内が後ろで先輩!と声を上げる。
「お茶の席に上がる時には作法が……」
「藤内は真面目だねえ。堅苦しいやつじゃない時はそんなこと考えないんだよ。これも作法」
「ええー……」
適当なことを言う喜八郎に、藤内は狼狽した風に眉を下げた。結局、喜八郎が普通に兵太夫の隣に座ったのを見て、ため息をついて同じように作法室に入った。
「僕らにも饅頭とお茶くださいよー」
「ちょ、綾部先輩!」
「はあい。お茶はねえ、庄左ヱ門が点ててくれたんだよ」
「え、庄左ヱ門お茶点てられるんだ」
「趣味の範囲ですよ」
藤内の感心した声に特に照れるわけでもなく、庄左ヱ門はそう言って準備を始めた。
勘右衛門がこっちに座ればいいよ、と藤内を伝七の隣に座らせた。
「尾浜先輩、これは――」
「饅頭は俺の持ち込みだよ。これね、学園長もお気に入りの和菓子屋のなんだー」
勘右衛門が楽しそうに笑いながら、喜八郎と藤内の前に懐紙を置いて饅頭を載せた。
「どうもー」
「あ、ありがとうございます」
喜八郎は言いながら楊枝をとって食べ始めた。それを見た藤内も倣おうとして、はっと手を止めた。
「いやいや、だから!何でこんな状況なんですか!?」
「えー、もういいじゃない。作法委員会の活動の一環だよ」
「作法のさの字もないんですが!」
勘右衛門の言葉に納得がいかないのを全面に出して肩を怒らせる藤内。喜八郎はそれを眺めながら饅頭を頬張る。
「もう、伝七達もなんで――」
藤内が怒った表情のまま隣の伝七達を見ると。
「――で、伝七?」
その腰に抱きつくようにして伝七がぴたっと藤内に張り付いたのだ。これには藤内も戸惑った声を出すばかり。勘右衛門と喜八郎も目を丸くして驚いた。
「じゃあ僕は綾部先輩!」
と、今度は兵太夫が同じようにして喜八郎に引っ付いた。おやまあ、と喜八郎は目をぱちりとさせる。
「な、なに?どうしたの二人とも」
怒った表情はなりを潜めて、藤内の顔には困惑と疑問が現れている。
「二人とも寂しかったんですよ」
庄左ヱ門がどうぞ、と喜八郎と藤内の前に茶碗を置いてから言った。
「そうなの?」
藤内が呟くように尋ねると、伝七が少しの間を置いてから小さく頷いたのが藤内にはわかった。
「よかったねえ、二人とも」
「そうですね」
勘右衛門と庄左ヱ門は互いに顔を見合わせて笑った。

* *

結局喜八郎は作法委員会に行っただろうか。会計委員会の資料を運んでいる途中でふと思い出した。
兵太夫と伝七は以前俺の前で泣いてしまった子達だ。前々から気になっていたのだが、さすがにそろそろまた泣くのではないかと思って、あまり期待できない喜八郎に頼んでみた。
というのも、ついに最後まで先輩が一人も戻って来ないのが作法委員会になってしまったのだ。ずっと一年生だけだった会計委員会も、ついに昨日一人戻ってきた。それを団蔵と左吉に聞いているだろうと思うと気がかりだ。尾浜先輩と庄左ヱ門が、四人でお茶でも点てると言って作法委員に行ったのは、多分同じ考えからだろう。
資料を図書室横の資料室に運び、指示された資料を探して持っていく。会計室を出るときに出来るだけ急いでくれと言われたので早足で来た道を戻った。
「森林です」
声をかけて襖を開けると、団蔵と左吉がちらりと目を上げて俺を見て、すぐに帳簿に目を落とした。
「資料持ってきました」
「ああ、すまん。このあたりに置いといてくれ」
潮江先輩は目線で示した。そろばんを弾く音は中断されない。やっぱり六年生だなあと思う。
昨日会計室を訪れた潮江先輩は、団蔵と左吉が二人だけで作業を進めているのを見て愕然とし、随分と書類が溜まっているのを見てまた愕然とし、まあいろいろとショックを受けたそうだ。彼はそのまま徹夜で仕事をしている。
「森林、すまないが次の資料を運ぶ前に神崎を探してきてくれないか。厠に行くと言ってさっき出ていったんだ」
「うわ。わかりました探してきます」
一度持ち上げた資料の山を下ろして、慌てて会計室を出ていった。神崎は今日潮江先輩が連れてきたのだ。
――三木ヱ門は、以前潮江先輩と神崎がいなくなった頃に一人で仕事をしたので今は免除である。

* *

伝七に抱きつかれた藤内に、なんか目が潤んでるよと指摘すると、藤内は眉間にしわを寄せて、こんなこと予習出来てないんです!と声を上げた。
――なんでこんなに居心地の良い、懐かしい空間を忘れていたのだろう。
と、喜八郎は思った。
――なんで穴掘りの楽しさまで忘れてたのか。
久しぶりに作った蛸壺達は、やはりいつも程美しくなかった。感覚が完全には戻っていないのだった。
――そして、なんであんな、よくわからないものが好きだったのか。
先程天川姫美が呼んだ声が耳に付いて残っている。綾ちゃん。
――昨日の夜は普通に喋れたんだけど、今や声をかけられただけで嫌悪感を抱く。なんなんだろう、これは。



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