38



潮江文次郎は今、目の前の相手に苛立っている。最近はとんとご無沙汰だった勢いで。
「……もう一度言ってみろ」
「だーかーらー……」
相手は文次郎を煽るように一文字ずつ区切って言い、そして文次郎を睨みつけた。
「気持ち悪いんだよ、お前!」
「――ぬぁんだとお!?」
酷い暴言である。
「留三郎!お前一体どういうつもりだあ!?」
「どういうつもりもなにも!事実を言ったまでだろ!」
「なにが事実だ!人の顔を見るなりそんな暴言を吐くとは、お前の品位の方がよほど最悪だな!!」
「はあ!?俺がお前より下なんてことあるかよお!」
そして相手――食満留三郎は逆ギレである。まったく品位の欠片も無い奴だ!
一度目はまだ流してやろうと思ったのだ。日頃天川姫美の平和思想を尊重し、留三郎との喧嘩もほとんどしなかった。それがどうしていきなりこんな風に突っかかってきたのか。
――気に入らん。そしてこうまで言われて黙って受け流すのはプライドが許さん。
「俺の何が気持ち悪いと言うんだ!?」
「そう聞かれたらもういくらでも思い浮かぶなあ!」
「なん――」
「でも一番気持ち悪いのはなあ、文次郎!」
詰め寄ろうとしたところを、留三郎はびっと左の人差し指を文次郎の眉間に指した。思わずぴたりと動きを止めると、留三郎の顔から怒りの感情が薄れ、どこか悲しそうな表情に変わった。
「お前がそうまで腑抜けになっちまったところだよ」
――お前今死んだな。
留三郎は囁いて人差し指を下ろした。そしてふと息をついて、目線を落とした。
「――俺も人の事言えた義理じゃねえか」
左の脇腹を押さえて呟いたのを聞いて、ああこいつは怪我をしていたのだったと文次郎は思い出した。危うく怪我人に殴りかかるところだった。相手が留三郎だとはいえ、それは流石に人として良くない。
「なあ文次郎、知ってるか」
「……なんだ」
「俺は随分、たくさんのことを忘れていた。お前は今もまだ思い出していない」
留三郎の言葉に眉をひそめる。意味がわからなかった。
「だからお前は気持ち悪いんだ。早く思い出せよ」
「一言多いんだよ!」
文次郎が怒鳴るのを無視して、留三郎はため息をついた。その反応も腹立たしいが、今はそれより困惑が大きい。
――忘れた何か、とは。
「――俺達はやっぱりこんな風にしかいられないんだ」
留三郎は心なしか悲しそうな声で言って、文次郎に背を向けて去って行った。文次郎はそれを呆然と見送っていたが、やがて留三郎とのやりとりを反芻し、自身の眉間に指を当てた。
「……死んだ、な」
――いつの間にか、この戦乱の時代に、いつ来てもおかしくない死を認識しなくなっていた。

* *

俺達はこんな風にしかいられないんだ。
――あの人の幻想に夢を見ていられる時代は、とっくに終わっていただろう?

* *

神崎左門はまた迷子だった。
ここはどこだろう。学園の中は広くて、一見しただけでは現在地がまったくわからない。隣にずっと平屋が見えているが、なにかはよくわからない。どれも似たような見た目をしているのだから。
でも学園の中にいるだけマシだ。学園の中を走り回ってさえいれば、いつかどこかで探している彼女と出会えるはず。彼女は学園の掃除も仕事のうちだから、いつも色んなところを動き回っている。
左門が彼女を好きな理由の一つは、その素直な性格だ。彼女はいつも生徒達に囲まれながら、きちんと仕事をする。手際のいい人ではないから、話に夢中で仕事の手が止まることは多いけど、それに気づいたら慌てて手を動かすのだ。
「姫美さんはどこだー!」
声を上げながらまた走り出した。元来叫べばどうにかなると思っているような短絡的な少年である。
――お前は迷ったら大声出しとけ。その方がこっちも見つけやすいよ。
いつも左門を探し出して手を引く友人が、一年生の頃に言った言葉だ。
――大声を出していれば、作兵衛が来てくれる。
最近、彼は来てくれない。喧嘩中なんだから当然のことだが。
「ここはどこだー!」
左門はずっと走り回っている。ここがどこか、まったくわからない。ずっと同じような景色が続いている。学園が広すぎて本当に困る。
「こっちだー!」
「――おい、馬鹿左門!」
角を曲がろうとした左門を呼び止める声がした。走っていた足を前のめりになりながら止める。振り返ると、平屋の扉が開かれていて、その前に富松作兵衛が不機嫌そうな顔で立っていた。
やっと人が見つかったと思うと安心するが、その相手は今少しぎくしゃくした仲の作兵衛。どういう態度を取るべきかわからなくて、結局左門も作兵衛と同じようなぶすくれた顔をしてしまった。
「なんだよ、作兵衛」
「お前わざとか?」
「何がだ?」
作兵衛は眉間にシワを寄せてため息をついた。あからさまに呆れたといった態度にかちんとくる。
「なんで用具倉庫の周りをずっと回ってんだよ」
「え?」
作兵衛の言葉に目をぱちくりさせて、作兵衛が出てきた平屋を見ると、確かに見覚えがある用具倉庫だ。
「用具倉庫はさっき通り過ぎたはずだぞ!」
「そんなわけあるか!お前、ずっと用具倉庫の周りをぐるぐる回ってただけだよ!」
「えー!」
衝撃の事実。左門としては、用具倉庫は先ほど通り過ぎ、その後完全に知らない場所に出たと思っていたのだ。まさか同じ場所を何度も通っているなんて、そんな発想がなかった。
「……はあ、お前は相変わらずだな」
作兵衛はまた大きなため息をついて、倉庫の扉を閉めた。そして振り返ると、行くぞ、と左門に声をかけた。
「放っておいたらどこ行くかわかったもんじゃねえ。途中まで連れてってやるよ」
「いいのか?」
「お前は俺に遠慮なんてしたことないだろ」
作兵衛はそう言って、少し表情を和らげた。
二人は連れ立って歩き出した。道を逸れかける左門を作兵衛が腕をひいて引き戻しつつ、しばらく互いに無言で歩いていた。
「……あのさぁ」
作兵衛が唐突に話し出したのに驚きつつ、左門はなんだよ、と無愛想に答えた。作兵衛は少し間を置いて、えっと、と言いづらそうにしてから。
「……この前は、ごめん」
「え」
小さな声だったが、左門の耳にははっきり届いた。思わずばっと作兵衛の方に顔を向けると、作兵衛は少し気まずそうに顔を背けた。
「……食満先輩に叱られた。自分の考えを他人に押し付けるべきじゃねえって……それは、そうだと思うから……」
「……」
作兵衛は小さな声で、途切れ途切れに話す。左門はそれを聞きながら、未だ目を瞬かせてきょとんとしていた。
「……なんていうか、ガキみたいに怒鳴っちまって、ごめん」
「……僕も……ごめん」
左門の言葉に、今度は作兵衛が目を見開いて顔を向けた。左門は少し困った顔をしたが、すぐに普段通りの笑顔を見せた。
「作兵衛が嫌って言ってるのに、無理に誘ってごめん!」
足を止めてそう言うと、作兵衛も同じように足を止めて、左門を見た。
「――じゃあこれでおあいこな」
作兵衛は、彼には珍しい、へなっと安心したような笑顔を見せた。

* *

神崎が富松と一緒にやってきたのを見て、少し驚いた。二人は少し離れたところでいくらかやりとりをして、富松の方はそのままどこかへ去っていき、神崎はこちらへ駆け足でやってきた。
「姫美さん!」
「左門くん!また迷子になってたの?」
「でも今日は作兵衛に会えたんで、送ってもらいましたー!」
嬉しそうに笑った神崎を見て、姫美さんもよかったね、と笑った。
「神崎!」
私が呼ぶと、神崎はぱっと振り返って私の方にきた。
「なんですかー」
「お前、富松と仲直りしたのか?」
尋ねると表情を明るくして、はいっと勢いよく頷いた。本当に嬉しそうだ。今日は随分機嫌がいいらしい。
「田村先輩も早く仲直りした方がいいですよ!」
「……余計な世話だ」
我ながらふてくされた声だ。神崎はにやにやと笑って、また姫美さんのところに駆け寄っていった。
――仲直りかあ。
浮かぶ顔は決まっている。この前喧嘩別れをしたまま、一度も部屋に戻ってこない同室者のことだ。

[あとがき]



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