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彼は、彼女の柔らかい笑顔が好きだった。
彼の友人も彼女の笑顔が好きだと言う。あの明るくて真っ白な笑顔を見ると、辛いことも全て忘れられる気がすると。
その友人は、今その彼女と楽しそうに話している。普段からよく笑う奴だが、普段の笑顔と今の笑顔は随分違う感じがする。友人が彼女を"愛"しているからだ。
「もー、二人ともあんまり笑わせないでよ!」
洗濯物落としちゃうでしょ、と少し怒ったように言うけれど、彼女はまだ楽しそうにけらけら笑っているから、全く怒っている感じがしない。
「だって姫美さんはすぐ笑うから」
「そんなに大したことでもないのに」
彼女を笑わせていた二人はそう言って彼女をからかう。彼女は納得がいかないといった顔をして、それまで黙ってその様子を眺めていたもう一人、彼に顔を向けた。
「ねえ、こんなこと言うのよ!二人とも失礼だと思わない?」
――話しかけるな。
「そうですね、酷いことを言う奴らです」
――あなたの声が一番不快なんだ。
荒れた心中はすべて押し込めて、他の三人に混ざれない彼はいつものようにふわっと笑って見せた。
――あなたから、みんなを助けてやりたいんだ。

* *

風呂を終えて長屋の廊下を歩いていた。あまり人に見つかりたくないので心持ち早めの歩調。
次の角を曲がったら部屋、というところで、その角を曲がってきた人がいた。
その容姿を見てまずい、と一瞬思ったが、相手が目を丸くして驚いていたので思い違いだと気づいた。
「森林じゃない。なんでこんなところにいるの?ここ、五年長屋だよ?」
「わかってますよ」
一瞬鉢屋先輩かと思ったが、こんな風に普通に会話を始めることから考えても、彼に顔を貸している不破先輩本人で間違いないらしい。
「今、竹谷先輩のとこで泊めてもらってるんです」
「八左ヱ門の?なんでまた」
「色々ありまして」
曖昧に答えると、あまり言いたくないのが伝わったのか不破先輩は少し苦笑しただけだった。
「八左ヱ門の部屋にいるなら気をつけた方がいいよ。僕と三郎の部屋、近いから」
「え、はあ」
へらっと眉を下げて笑う不破先輩。多分昨日早々に俺のところにやってきて天川さんのことで責め立てた鉢屋先輩を思っての忠告だろう。確かに鉢屋先輩にバレると別のところに行くしかないしなー。
「ここじゃなくて、裏を通ったら誰とも鉢合わせしないと思うよ」
「裏?あー、そっか」
不破先輩の提案に頷く。不破先輩は今度から気をつけるんだよ、と微笑んで俺とすれ違った。
「――不破先輩」
「ん?なに?」
名前を呼ぶと、不破先輩は顔だけで俺を振り返った。
「なんで不破先輩は何も言わないんですか?」
「……姫美さんのこと?」
思えば昨日も不破先輩は、鉢屋先輩と久々知先輩の後ろで黙って俯きがちにいただけで、俺に何も言わなかった。そして今も何も言わずに去ろうとしている。
不破先輩は俺の問いに苦笑した。
「昨日は三郎達がごめん。兵助が酷いことを言ったね。君は肯定していたけど、僕はそんなことないと思うよ」
久々知先輩の言葉、というと最低だと言われたあれか。誰も俺の答えを聞いてないと思ってたのだが。
「聞こえてたんですか」
「……うん」
「いいんですよ、あれは。天川さんを否定するような俺の発言は、確かに最低でしたから」
そう言うと不破先輩は、眉を寄せて視線をあらぬ方へと逸らした。
「……そんなことないよ」
「……え?」
「僕も、本当は、あの人のことが――」
途中で言葉を止めて、不破先輩はふと微笑んだ。
「三郎達を止めてあげられなくてごめんね。でも僕は本当に森林が悪いなんて思ってないから、さっきの助言も別に罠とかじゃないよ」
なんだか寂しそうな顔でそう言って、不破先輩は歩いて行ってしまった。

竹谷先輩の部屋は本来二人部屋なのだが、人数の都合で彼が一人で使っている。たまに弱っている動物と一緒に寝たりすると聞いた俺と孫兵は、よくそれを羨ましがったものだ。
そういう訳で、三木ヱ門に顔も見たくないとまで言われてしまった俺は、その竹谷先輩の部屋に転がり込んだ。そこまで言われて普通に自室で生活できるわけがない。嫌われても尚、俺は三木ヱ門が好きだからだ。
「葉太郎、おかえり。誰にも会わなかったか?」
「あー……」
竹谷先輩に思わず曖昧な返事をすると、竹谷先輩は顔をしかめた。
「おい、先生にバレたら叱られるんだぞ!」
「わかってますよー大丈夫ですって」
基本的に他人の部屋に滞在するのは禁止だ。バレたら厳重注意。生徒同士ならある程度見て見ぬふりをしてくれるが、どこから先生達にバレるかわからないので油断は禁物なのだ。
「ったく。俺は嫌だぞ、お前のために怒られんの」
「そう言いつつ泊めてくれる竹谷先輩、頼りになるー」
「……その言い方だと全く敬意が感じられん」
別にいいけど、と竹谷先輩はため息をつくだけに留めた。なんだかんだで優しい人だとは常日頃から思ってますよ、いや本当。
「――ねえ、竹谷先輩」
「なんだ?」
「不破先輩って、どうなんですか?」
「はあ?」
突然で漠然とした質問に、竹谷先輩は首を傾げる。
「どうって?」
「さっきそこの角で鉢合わせたんですけど」
「雷蔵と!?何か言われなかったか?」
竹谷先輩が一変して心配そうにしたので、大丈夫ですよと返した。
「天川さんのことでなにか言われるかと思ったんですが、鉢屋先輩と不破先輩の部屋が近いから気をつけて、と、廊下を通らずに裏から出入りした方がいいって言われただけでした」
「……それは変だな」
竹谷先輩も難しい顔で唸った。
「不破先輩って天川さんのこと好きなんですよね?」
「ああ。特に最近は三郎と一緒に熱心に通ってるみたいだから……お前に会ったら何かしら言ってくると思ってたんだが」
でも不破先輩は、逆に俺に味方するような物言いをした。俺は悪くないと言った。
「……裏から、か」
竹谷先輩が小さく呟いた。なんですか、と尋ねると眉を寄せたままで静かに話し出した。
「裏から出入りする奴なんてほとんどいないから、助言と見せかけて待ち伏せするつもりかと思ってな」
「……あ、なるほど」
確かにそれはありえる。俺はそこまで思い付かなかったけど、言われれば当然の発想だ。とすると最後の言葉もそういうことか。
「不破先輩は、罠じゃないって言ってましたよ」
「お前はすぐそういう言葉を信用するよなあ。改めた方がいいぞ、ホント」
竹谷先輩が呆れた声で言う。竹谷先輩だって結構騙されやすい性格だと思うんだけど。
「でも本当にただの厚意って感じでしたけど……」
「お前にそう思わせるくらいならどうとでもなるよ」
「そこまで言わなくてもいいでしょ」
竹谷先輩も案外俺のこと舐めてるよね。確かに五、六年生なら簡単だろうけど。
「……不破先輩って、本当に天川さんのこと好きなんですかねー」
「何言ってんだよ。そうに決まってるだろ」
毎日通うんだぞ、と言う。
「まあそうですよねー……」
頷きつつ、なんとなく釈然としない感覚が残った。

* *

不破雷蔵はつい先程の葉太郎との会話を思い出して、一人苦笑した。
――変なことを言ってしまったなあ。
葉太郎が随分人の感情の機微に疎いというのは、友人の後輩ということで多少親交があるためわかっている。おそらく、雷蔵の心中の深くには気づいていないだろう。
自分は今、多くの生徒を騙し切らなければならない状況にある。そして今のところそれは成功している。
雷蔵が足早に向かったのは、教員用長屋の縁側だった。
「雷蔵!やっと来た」
兵助がやってきた雷蔵に気づいた。それにならって雷蔵の方に顔を向けたのは、お喋りをしていた姫美と三郎。
「雷蔵、早く来いよー」
「――ああ、今行くよ」
三郎の声と、その隣で右手をひらひらさせて来い来いとする姫美。
三郎と兵助が姫美を挟む形で、三人並んで座っている。雷蔵は少し迷って、結局兵助の隣に座った。三郎の隣に行くには、一度姫美の前を横切る必要があったからだ。
『月が見たいの』と姫美が言ったのは今日の昼だった。それならお供します、と三郎と兵助が喜々として言った。今日は五年生が姫美と一緒にいられる日だった。
「ねえ雷蔵くん、さっき二人と話してたんだけどね」
姫美が笑いながらひょいと上半身を前に傾けて、雷蔵の顔を見た。雷蔵はそれと目があうのを予感して、さりげなく視線を動かした。
――彼女の目は、気味が悪い。
「なんですか?」
「あのね、月と星のどっちが綺麗かって話なの」
姫美の言葉に、へえ、と相槌を打ちながら、雷蔵は内心穏やかでない。
――どっちだっていいじゃないか、そんなこと。
「兵助は星だって言うんだ。姫美さんは月だって言う」
「三郎は?」
「私はどっちでもいい」
三郎の台詞が自分の考えと同じで、雷蔵は少し嬉しく思った。
「――ま、姫美さんが月だって言うなら、私もそれを支持するがな」
続いた言葉に、一瞬三郎に対して恨みがましい感情を抱く。
「今のところは月が優勢ってことだな」
「三郎のは無効だろう」
兵助が反論するも、三郎はふん、と無視。
「――僕は月より星が好きだよ」
「さすが雷蔵」
兵助が同意見の者を見つけて嬉しそうな声をした。えー、と不満げな姫美と三郎。
「なんで星なの?月の方が明るくて素敵だわ」
あなたと同じ意見というのが嫌だったので、とは口が裂けても言ってはいけないこと。
「――月は明るすぎて。僕ら、忍者のたまごですから」
「そっかあ」
当り障りない返答をすると、姫美は簡単に納得した。
「じゃあ二対二で決着はつかないね」
そう言って笑った彼女と、それに顔を赤くして笑顔を返す二人。雷蔵はその三人を見ないよう、そしてその三人に見られないよう、夜空に浮かぶ満月を、心のままに睨みつけた。
――満月は忍者の邪魔をする。
――天川姫美、あなたもきっとそういう存在だ。
――僕も、本当は、あなたのことが嫌いなんだ。


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