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会計室で帳簿の確認をしていると、廊下をバタバタ走ってくる音がした。
帳簿から顔を上げると、同時に襖が開いた。
『森林先輩!』
用具委員の一年生三人だった。用具委員には富松が帰ったことだし、俺の仕事は特にないはずだが。と思っていたら。
「と、富松先輩が!」
「先輩なんとかしてください〜!」
しんべヱと喜三太が言った。とりあえず団蔵と左吉に謝って会計室を出て駆け出した。団蔵は興味津々だったようだが、左吉に子どもみたいと言われて帳簿付けに戻った。単純な奴だと思うが、助かった。
「なにがあったの?」
「富松先輩が、喧嘩してるんです!」
しんべヱの言葉に驚いた。誰と、と聞こうとしたが、その前に何人かの生徒達がざわざわとしているのが見えてきて口をつぐんだ。
彼らが遠巻きにしていたのは、大きな声で掴み合いの喧嘩をしている、富松と次屋、神崎の三人と、それを止めようとしている三反田だった。
「だから、嫌だって言ってんだよ!」
「なんでそんなこと言うんだよ!」
「作兵衛、お前変だよ!」
「うるっせえよ!変なのはテメーらの方だ!」
「三人ともやめてよ……!」
「なんだと!」
「それどういう意味だよ!」
「ちょっと、落ち着い――わあ!」
次屋の腕を掴んだ三反田は、すぐにばっと腕を払われて尻餅をついてしまった。まったく聞く耳を持っていないらしい。そもそも三反田の存在を認識しているかどうか怪しい。どうやら三人とも、自分の意見に反対する相手しか見えていないようだ。
「三反田、大丈夫?」
「森林先輩!あれ止めてください!」
「止めてって言われてもなー」
正直俺、喧嘩の仲裁なんてしたことないよ?勝手にやってればいいってスタンスだから。少し気乗りしないが、まあ一年生達にも頼まれたしなあと、三人に声をかける。
「おい、三人とも落ち着きなよ」
「うるさい黙ってろ!」
「あんた先輩に向かってなに?」
穏便に行こうと思ったのに、次屋にイラッとしてその腕を掴んで力を込めた。
「いたたた」
「ほら神崎と富松もやめな」
ぎりぎりと次屋の腕を締めつつ、後の二人の腕をそれぞれ叩いた。神崎は怒った顔で恨めしげに、富松ははっとした様子で俺を見上げた。両者とも一旦話を聞いてくれるらしい。
「ちょ、放せ、放してくださいー!」
「まったく」
次屋の腕を放してやれば、俺が掴んでいたところをさすりながら顔をしかめていた。
「神崎と次屋は、天川さんに喧嘩は良くないって言われてるんじゃないの?」
「だって作兵衛が天川さんを侮辱するから!」
神崎が富松を睨みながら言うと、富松もまた眉間に皺を寄せて神崎を睨む。なんとなく状況が予想出来る気がする。
「絶対あんな人のところには連れていかないって」
次屋が言う。それであんな人なんて言われたら黙ってられないってことか。
「作兵衛も昨日まで普通だったじゃないか。なんで急に」
神崎の言葉に富松はふいと二人から目を逸らして、ぽつりと呟いた。
「普通じゃないのはテメーらだ」
「おい、作兵衛――」
「あーもうやめなって」
また最初に戻るだけだと判断して、富松と他の二人の間に割り込む。
ため息をついてから迷子二人の腕を掴むと、神崎は首を傾げて、次屋は大げさに放せ放せと騒いだ。別にもう痛めつけるつもりはないんだから騒ぐな。
「こいつらは俺が連れていくから、三反田は富松と一緒にいてやって」
「は、はい」
三反田は頷いて富松の隣に立った。
神崎と次屋は驚いたように目を丸くしていたが、行くよと声をかけるとぱっと表情を明るくした。
「よーし、じゃあまずは食堂に行きましょう!」
「はいはい、ちょっとまてそっちは逆方向!」
「何やってんだよ左門こっちだって」
「どっちだよそこ壁だろ!」
神崎は逆方向に走り出そうとし、次屋はなぜか壁を指す。神崎は会計委員、次屋は体育委員でなまじ鍛錬だけ重ねていることを考えると、これは体力を削られそうだ。
「じゃあこっちか!」
「勝手に動くな!」
なんでそんなに自分の判断を信じきれるのかわからないけど、とりあえず確認もせずに飛び出していくのはやめろ。次屋はなぜか頑なに壁を指してあっちですって、と言い張る。あんたら自由すぎない?

* *

少し離れたところでずっと穴掘りをしていた喜八郎が、ひょこっと蛸壺から顔を出し、泥だらけのままで縁側に座る姫美さんのところに近寄っていった。
「綾ちゃんどうしたの?」
「いえ別にー」
「ちょ、綾部先輩重いんですけど!てか土付くじゃないですかー!」
今日は三年生が優先して姫美さんと話せる日だから、彼女の隣には浦風藤内が座っていたのだ。その浦風と背中合わせになるように座り込み、浦風に半分以上体重をかけている。あいつの後輩なんて大変だろうな。
「喜八郎!今日は三年生の日だぞ!勝手に姫美さんに近づくんじゃない!」
「僕は藤内に近づいただけー」
「また屁理屈を!」
すました顔で嘯く喜八郎を叱るのは滝夜叉丸。こいつは意外と先輩方に対しては礼儀正しいから、五、六年生を差し置いてというのを気にしているんだろう。喜八郎の場合はあまり先輩方も気にしていないようだが。あとは自分がそれを気にして近づけないから八つ当たりだ。こいつの後輩にも、死んでもなりたくない。まあ学園のアイドルたる私の後輩が一番幸せだろう。そういえばその神崎はまだ来ていないな。
「今日はお友達少ないねー藤内」
「言い方がなんか嫌なんですけど……そういえばあいつら遅いですね」
「また迷子になってるんじゃない?」
姫美さんが楽しそうに笑った。伊賀崎がそうですねえと微笑んだ。
「数馬くんは保健委員かな」
「善法寺先輩、食満先輩ってそんなに酷い怪我なんですか?」
「うん、そうだねえ」
六年生も少し離れたところで固まっている。
最近、こういう形が定着してきている。本来姫美さんと一緒にいられるはずの学年は彼女の一番近くにいることができ、それ以外の学年はそれを少し遠巻きにする形だ。遠巻きとは言っても会話ができるし、その分自分達と話す時間が減るから、上級生になると自分達の学年以外は追い払うようになる。と言っても四年生までは六年生に手出しできないし、実際一学年で姫美さんを独占できるのは五、六年生だけだ。
「心配だなあ。ここ数日顔も見てないし」
「大丈夫だよ、大事をとって入院してるだけだから」
善法寺先輩はにこにこと笑って言っているが、多分食満先輩の容態をよく知らない。入院ということは自室に帰ってきてないということで、彼が医務室に行ったところを見たこともない。
「――あー!姫美さん!」
「おー」
元気な声と少し気の抜けた声。目を向けると、少し遠くに神崎と次屋が仲良く手をつないでやってきたのが見えた。
「三之助、走るぞ!」
「おー、?」
『どこ行く気だ!』
と数人の声が被った。こちらが見えているはずなのに、当たり前のように方向転換して走り出そうとする神崎と、不思議そうにしながら止めない次屋。どうやってここにたどり着いたんだ?二人の姿が長屋の影に消える。
「おいこらそっちじゃないだろ!」
疑問に思っていたら、すぐにそんな声と共に二人の襟首を掴んで葉太郎が現れた。ああ、あいつが連れてきたのか。
「森林先輩、姫美さんの隣までお願いしまーす」
「あんたら少しは遠慮すれば?」
神崎の言葉に少し顔をしかめて、葉太郎がこちらへ向かってきた。いつの間にか二人と仲良さげな雰囲気。なんだか気に入らん。
「――姫美さんどうしたんですか?」
と、次屋がきょとんとした顔で言ったので、葉太郎達を見ていたその場の人間は姫美さんの方を振り返った。
姫美さんは見たこともないような険しい顔をしていた。眉をぎゅっと寄せて葉太郎を睨んでいる。彼女がこれほど本気で怒った顔は初めて見た。私達の驚きは相当なものだ。
その葉太郎の反応といえば。
「……じゃあ俺戻るよ」
少し眉を下げただけで、神崎の言葉通りに姫美さんの隣まで迷子二人を連れていき、何も言わず背を向けた。姫美さんも、何か言うわけでもなく葉太郎の背をひたすら睨むだけだった。
葉太郎が見えなくなるまで、誰も言葉を発しなかった。最初に誰かが姫美さんにどうしたのかと声をかけると、みんな口々に喋り始めた。
私は葉太郎が去った方をぼうっと見ていたが、姫美さんが呟いた言葉に、驚いてそちらを見た。
「――葉くんが酷いことを言ったの。私なんていなければって」
その言葉を聞いた反応は人それぞれだ。姫美さんを特別好いている立花先輩や善法寺先輩、タカ丸さん、鉢屋先輩の四人は激しく怒り、それを潮江先輩や久々知先輩、不破先輩などが宥めている。困惑の表情を浮かべるのが大多数。七松先輩は普段から考えれば不気味なほど黙り込んで、葉太郎が消えた方を見やっていた。
「――葉太郎がそんなこと言うはずありません」
思わず口に出した私を、立花先輩達が睨みつけた。思わず肩を震わせると、潮江先輩が四人の前に立ってくれた。
「なんだ、田村は姫美が嘘をついているとでも?」
「そんなこと……でも葉太郎が姫美さんにそんなことを言うとは思えません」
「ふん。人の性質なんてすぐに変わるものさ」
鉢屋先輩が吐き捨てるように言った。
「――どうせただの逆恨みだろ。あいつがそんなに情けない奴だったなんて」
立花先輩はそう言って、姫美さんの頭を撫でて慰め始めた。いつの間にか彼女は泣きそうな顔をして俯いてしまっていた。
周りの生徒達も姫美さんの周りに集まって口々に声をかける。私はその中に混ざる気になれなくて少し離れたところに座ったまま地面を見つめていた。
――葉太郎が、逆恨みでそんなこと言うはずは。
きっと姫美さんが何か勘違いしたんだ。
私の知ってる葉太郎はそんなことを言う奴ではない。葉太郎がいつのまにか私の知らない奴になってしまったなんて、そんなこと考えたくもない。

* *

部屋に戻ると三木ヱ門がまだ起きていた。
「……まだ寝てなかったの」
「葉太郎に話があって」
あ、これはやばいな。
「……天川さんのこと?」
「……」
三木ヱ門は無言で一つ頷いた。まあ、天川さんのあの反応を見て放っておくわけないと思ってたけどね。というか、俺は二日前の当日に尋問されると思ってたんだけど、天川さんがみんなに喧嘩したことを隠してたというのが意外だ。
「……姫美さんが、葉太郎に酷いことを言われたと」
「内容は聞いた?」
「……姫美さんなんていなければって」
なんだ、聞いたのか。でもその前のやりとりについては話してないかな。多分天川さんがあの会話で覚えているのは最後の俺の呟きだけだ。
「本当にそんなことを言ったのか」
「……」
黙っていると三木ヱ門はだんだんと険しい顔つきになって、最後には俺を睨みつけた。
「お前はそんなことを言う奴じゃない」
「……それはどうだろ」
「なんだと」
三木ヱ門は俺の呟きに眉をぴくりと動かした。そして低い声で問う。
「答えろ。お前はそんなこと言わないよな?」
その聞き方。三木ヱ門は俺を信じていたのだろうか。そうだとすれば場違いにも嬉しいけど。
――裏切ってごめんなさい。
「言ったよ」
「……そうか」
殴られるかもしれないと思ったけど、三木ヱ門は低い声で唸って顔をそむけた。
「――信じてたのに」
「……ごめん」
謝ると三木ヱ門はきっと俺を睨みつけた。
そして俺が恐れた言葉を口にした。
「――お前なんて、もう顔も見たくない!」
「……ごめん」
もう一度謝って、俺は部屋を出た。



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