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奇妙なことがわかった。 三郎次曰く『何を考えているのかわからなくなった』。久作曰く『前まで好きだった笑顔が恐ろしい』。中在家先輩は無言で少し考え込み、結局頷いた。
――天川さんに対する心象は変わったか、という俺の問いへの答えだった。

* *

三反田数馬は、食満留三郎が起きたことを知らせに天川姫美のところに向かっていた。
食満が酷い怪我を負い、まだ目覚めないことを姫美が心配していたというのは、クラスメイトの浦風藤内から聞いた。数馬自身は食満が学園に戻ってから付きっきりで看病していたため、ほとんど彼女を目にしてもいなかったからだ。
数馬は以前の自分の行動を恥じていた。同じように食満の看病に当たっている富松作兵衛もそうだ。一つ上の先輩である森林葉太郎の言葉が、胸に刺さって抜けなかった。
自分達は学園のことを何も考えていなかった。考えたふりだけして、すべて放り出していただけだった。
あれは悪いことだったのか。ただ好きな人に自分のことを見てもらいたいということは。
後輩の川西左近は、数馬が謝った一昨日に、こう言った。
――仕事をしなかったことは怒ってますが、天川姫美が好きだとかは勝手にすればいいですよ。
だから食満の看病は任せてくれたらいいと続いたが、それは譲らなかった。
何か一つに集中したくて、食満の看病を買ってでた。姫美とは少し距離を置いて、今までのことを考えたくて。実際に話をしたわけではないからわからないけど、作兵衛も同じように考えたのかもしれない。
食満が目を覚ましても、まだ考えはまとまらない。
生徒達に囲まれる姫美を見つけた。
話しかけるのに少し緊張して、小さく深呼吸をしてから彼女の名前を呼んだ。
姫美が振り向く。どきっと心臓が高鳴るのはいつも通り。
そして、彼女は笑顔で言った。
「なあに、数馬くん?」

瞬間、冷水を被せられたように身体が冷える感じがした。さっと血の気が引いて、頭が真っ白になった。

――なんだこれ。
今まで感じたことのない感覚。無意識に足がじりっと後ろへ下がる。
姫美は不思議そうな顔で小首を傾げた。なぜか、目を逸らしたら負けだと感じて、姫美の顔を見る。
嫌に冷たい汗が背に滲んでいる。
「どうしたの?」
「い、いえ……あの……」
どうしよう。どうしよう。早くこの場を離れたい。もう、一秒だってこの得体が知れない何かを見ていたくない。
――彼女の目。
「食満先輩が、起きたので、その」
「留くん起きたんだ!よかったあ、心配してたの」
ああ、やめて。違う、あなたは別に、心配なんて、やめて。僕らの先輩は、あなたなんかに心配されるような。
周りの人達もよかったと呟く。よかったですね、と姫美に笑いかける人もいる。
――僕はこの人のどこが良かったの?
――……彼女の純粋できらきらした目が。
――こんな恐ろしい、気味の悪い目が?
「じゃあお見舞いに行かなきゃ」
「あ!あの……もう大丈夫だからって、だから、その、怪我も酷いし、あまりお見舞いとかは」
思わずそんなことを言っていた。食満はおそらく姫美に見舞いに来てもらったら、すごく喜ぶだろうに。
「えー」
「怪我に障ると良くないから、やめておこうよ」
「伊作くんもそう言うの?保健委員のみんなは心配症だねー。じゃあ仕方ないなあ」
できる限りもう会いたくない。医務室にも来ないで欲しい。絶対に食満の見舞いなんて来ないで。せめて僕のいる時には絶対に。
自分でもなぜこんなに彼女をおぞましいと思っているのかわからない。
「ぼ、僕、戻りますね」
「留くんにお大事にって言っておいてね!」
ばいばい、と姫美が手を振るのに、右手をぎこちなく二度ほど振り返してそのまま背を向けて走り出した。体中にまとわりつくような気味の悪さを振り払いたくて足を止められない。
――なんだよ、これ。
――彼女が怖い。あれは何か怖いものに違いない。
向かう場所は医務室か作兵衛や葉太郎のいる食満のところしか思いつかなくて、ひたすらそちらに向かっていれば、廊下で話している紫と萌黄がいた。
「数馬?」
作兵衛が声を上げ、葉太郎も数馬を振り返った。
数馬は作兵衛の声にようやく姫美から逃れたような気がして、走る速度を緩めた。

* *

「――なんだろうね、それ」
俺が呟いた言葉に、二人は小さく首を振っただけだった。まだ混乱しているらしい三反田と、考え込んでしまった富松。
お前も、と口走った富松も、今日三反田と同じようなことがあったそうだ。彼はクラスメイトの迷子二人を連れて天川さんのところへ行った。そしてその時天川さんに声をかけられて、自分の天川さんへの意識が変わったことに気がついたという。
「今日まではなんともなかった訳でしょ?」
「はい……さっき、突然」
好きな人のことを、突然一転して怖くなるというのはどんな気分なのだろう。
「天川さんが怖いねえ。全然そんなこと思わないけどなー」
「俺達だって、今までは全く……」
富松が眉をひそめて言った。
あれ、そういえばこんな話、前に――
「……あ、金吾だ」
「はい?」
三反田が首を傾げた。富松も目をぱちりと一つ瞬かせる。
「金吾も前に同じことを言ってたよ。怖いとか、得体の知れないよくないもののように思うとか」
「それって……」
随分前のことで、しかも個人的な問題だと思っていたから忘れていた。そういえば三木ヱ門にその話をしたとき、彼は少し気にしていたようだった。
"天川姫美からあの人達を引き離す方法"?
「……ちょっと金吾にもう一度話を聞いた方がいいかもしれないねー」
「かもしれないじゃなくて、聞くべきですよ!」
富松がそう言って、俺探して来ます!と三反田を連れて走っていった。
俺はどうしようかと考えて、ふと思いついた。
――他にも同じような人がいるかもしれない。

そして話を聞きにいった結果、三郎次と久作、中在家先輩も同じ状況だということだった。
そして中在家先輩が気になることを言った。
――私達は姫美を嫌う前に、四日間ほどまともに彼女と会話することがなかったという共通点がある。
そういえば、三反田と富松も、食満先輩を看病していた二日間は彼女と会っていなかったはずだ。

飼育小屋に行くと、竹谷先輩と尾浜先輩はまだいた。小屋の前に立ってなにやら話している。
「なにやってるんですか?」
「あ、葉太郎!この小屋の修理ってお前達でやったんだよな?」
竹谷先輩が指したのは、孫兵の個人的なペットである毒虫達のいる小屋だ。
「そうですよ」
「……お前って案外こういう作業苦手なのか?」
「だから言ったでしょ。俺じゃ無理だって」
「いや、だからってお前……」
「どう見ても釘打ち過ぎだし、隙間あるし」
ほらこことか、と言って尾浜先輩がいくつかの箇所を指す。
「別に崩れてはいないし、戸も開くし、大丈夫でしょう」
そう言うと、竹谷先輩は呆れたようにお前なあ、と言ってまた小屋を見上げた。俺はもうその話は終わりだと判断して、尾浜先輩に目を付ける。
「ところで、尾浜先輩はなんでまだここに?」
「いや、別に。八左ヱ門が仕事引き受けちゃったから手伝ってただけ」
「え、ありがとうございます」
「いいよ、お礼なんて。庄左ヱ門と彦四郎は、他の委員会の手伝いをしてたんでしょ?」
俺もやんなきゃ、と笑う。意外とその辺りは真面目だったりするのかと今知った。
「……見栄えが悪いし、これじゃまたすぐ壊れるな」
竹谷先輩が低い声で呟いた。
「そうですか?」
「また建て直すかー」
「えー」
そんなに酷いかなー。竹谷先輩がやけに張り切っている、本気っぽい。面倒くさ。
「……そういえば二人に聞きたいんですけど」
「なんだ?」
「最近天川さんに対する心象が変わったりしました?」
既にこの日三回行った質問を投げかける。
竹谷先輩は首を傾げた。尾浜先輩は目をぱちりとさせて俺に聞いた。
「どういうこと?」
「その感じだと特に何もなさそうですねー」
「そうだなあ。別に変わってないけど?」
竹谷先輩の言葉に、うんうんと尾浜先輩も頷く。
「最近天川さんと話しました?」
「なんだ、葉太郎。そんなに姫美さんのこと聞いて」
「なにってわけでは」
ここで天川さんを怖いと言っている人達がいるなんて言えば怒られると思うので、笑って誤魔化しておく。竹谷先輩達は不審そうに少し眉を寄せたが、一応答えてくれるらしい。
「俺は一昨日から話してないかな。六年生に追い払われたから話せなくて」
「俺も同じだな」
「え。昨日とかは?」
「昨日は五年生は実習で外に出てたから」
「三郎と雷蔵は実習の後に行ってたみたいだけど」
熱心だよなー、と竹谷先輩が言った。尾浜先輩は疲れてそのまま寝たらしく、竹谷先輩は飼育小屋に行っていたらしい。
「竹谷先輩よく飼育小屋にいますね」
「いやー、久しぶりに会ったら可愛くてなあ。つい」
その言葉、一年生達にも聞かせてあげたい。以前の竹谷先輩だって喜ぶだろう。
「じゃあ三日ほど会ってないんですね」
――三日となると、三反田と富松より一日長く、三郎次達より一日短い。
「久しぶりに会いに行ってみたらどうですか?なんか生物委員のせいで二人の恋路の邪魔してるような気分になります」
「別にそんなことないけど」
「そうそう。気にすんなって。俺、今日は狼の黒兵衛の散歩に行くつもりだし」
「竹谷先輩が一番気になるんですよ。その変わりよう」
言うと竹谷先輩は苦笑した。委員会に顔を出さなかった分の反動が大きすぎると思うんだよね。
「しょうがねえだろー。なんか、やっと気兼ねなくやりたいことが出来るって感じなんだから」
「そんなの、自由にやってればいいじゃないですか」
「そうなんだけどな」
とりあえず是非話してみれば良いですよと力説すると、変な奴だなと言いつつ二人とも乗り気になったらしい。確かに三日も会ってないもんなー、と楽しみな様子。
竹谷先輩と尾浜先輩がまた来なくなったら一年生に泣かれるなと思いつつ、へらりと笑っておいた。

夜。狼小屋の前で待っていると、竹谷先輩がやってきた。俺の顔を見て驚いた様子。散歩に同行してもいいかと聞くと、少し迷った様子を見せてから了承の返事を得た。
それならもう一匹連れていこうということになって、俺は雌狼のお雪を連れ出した。
黒兵衛の黒い体は闇に溶け込むようで、お雪の白い体は月の光を反射してぼんやり浮かびあがっている。竹谷先輩がずっと無言でいたので、俺も無言でその隣にならんでいた。賢い狼達は、俺達の手を煩わせることもなく前を歩いている。
裏山の奥までは縄を掛けて行く。そこで縄を外し、自由に山の中を走らせるのを追わなければならない。
「……なあ葉太郎」
「なんですか」
そろそろ縄を外してもいい頃かと思い始めたとき、竹谷先輩が小さな声で俺を呼んだ。
「お前、わかってたのか。俺達の姫美さんへの気持ちが……こんな風になってたって」
「……すみません」
「……別に責めてねえよ」
竹谷先輩は少し間を置いて、小さく笑って見せた。もういいだろう、と竹谷先輩は黒兵衛の縄を解き始めた。
――性格が悪いかもしれないが、俺は竹谷先輩の言葉に安堵してしまった。



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