32



食満留三郎は、目覚めてすぐに今いる場所が自室でないことに気付いた。
部屋中に視線を走らせて、知っている場所であると気づいてほっと息をついた。学園の医務室の近くにある、入院患者用の部屋だ。枕元には包帯と手拭い、留三郎自身の装束が置いてあった。
任務で怪我をしたのだ、と思い出した。失敗したわけではないが、まさかあんな特に難しくもない任務で怪我を負うとは、情けなくて悔しい。
――でも、姫美との約束は守ったぞ。
天川姫美は、顔を合わせるとすぐに喧嘩をする留三郎と潮江文次郎に、約束をさせた。随分前のことだ。
喧嘩で解決することは何もないのだから、人を傷つけてはいけない。
彼女はとても優しい人だ。
その言葉がよぎって思わず動きが止まり、潜入していた城の兵の刀を避け損ねて、この様だ。
――どうなのだろうな、と思う。
姫美の言葉は正しいと思う。そりゃあ誰も傷つかなければ素晴らしいことだ。しかしそのために、自分の身は犠牲にするべきなのか。相手が戦いを挑んできたら致し方なく対応するべきではないのか。
目が覚めたのだから、姫美に会いに行こう。そして疑問に答えてもらおう。そもそも知覚しているところまでで二日は姫美に会ってない。早く会いたい。
傷が痛むが、歩くくらいなら支障はない。ついでに医務室に寄って、起きたことを報告してこよう。
留三郎はゆっくり起き上がって、部屋を出た。医務室に向かって歩き出してすぐ、角から萌黄色の後輩が現れた。

* *

気まずそうな顔で眉を下げる竹谷先輩と、普段通りに丸い目をぱちぱちとさせる尾浜先輩。
尾浜先輩はにっと笑って言った。
「八左ヱ門が、森林に言いたいことがあるんだって」
「勘右衛門!」
竹谷先輩が焦った声を出した。そして俺に顔を向けると、あー、と視線をふらふらとさせる。
しかしすぐに一つ息をついて、俺に目線を合わせ。
「――葉太郎、すまなかった!」
と、がばっと頭を下げた。
「え、ちょっとやめて下さいよ。先輩でしょ、あんた」
「先輩なのに仕事全部放り出してごめん!お前に沢山迷惑かけた」
もういいです、頭上げてください、と言って、ようやく彼はその不安げな顔を上げた。
「戻って来たって、本当だったんですね」
一年生達が言っていた。竹谷先輩が戻ったから、生物委員のほうは任せて下さい。
「勘右衛門が、お前らがすごく大変そうだって教えてくれたんだ」
尾浜先輩の方を見ると、彼はへらっと笑った。そして、俺も謝らなくちゃね、と困った顔をした。
「この間は無神経なこと言ったね。悪いなと思ってたんだけど、なんとなく言い出しづらくて」
「それで竹谷先輩を連れてきてくれたんですか?」
尋ねると尾浜先輩は苦笑した。
「八左ヱ門と二人でなら謝れるかなって」
結局二人とも一人で俺に会うのが気まずかったということのようだ。
尾浜先輩は笑いながら過程を話した。この間俺と話した後、中在家先輩に現状を聞かされたらしい。それでこれは悪いことをした、と反省する。謝らなければと思ったものの、気まずさを感じて明日にしようと後回しにした。ところが次の日は天川さんのところへ行かなければならない。そして結局二日続けて俺のところへ来なかった。そうなれば気まずさは更に募る。どうしようと考えた結果、竹谷先輩を連れ戻して一緒に謝りに行こうと決めた。どうせ六年生の日は彼女に会えないのだから、と竹谷先輩を連れ出して、生物小屋に向かった。
「……一年の奴らに、泣きそうな顔で怒られたよ」
竹谷先輩が眉を寄せて言った。その時のことを思い出したのかもしれない。
「そうでしょうね」
「本当に情けないよな」
「はい」
頷くと、はっきり言うなあ、と竹谷先輩は苦々しく笑った。
「それで毎日生物小屋に行くようになったのに、森林が来なかったんだよ」
「ああ、それは」
「事情は聞いてるから、説明はいいよ」
尾浜先輩が言った。一年生達に聞いたらしい。
「森林が来たってことは、食満先輩もう大丈夫なの?」
「いえ、まだ起きてませんが……大丈夫だと思うんですけどね」
「嫌な言い方だな……」
竹谷先輩が心配そうに大丈夫かな、と呟く。だから大丈夫だと思うって言ったのに。
「じゃあなんで来たの?」
「一年生が今日野外実習だというので。いつ終わるかわからないし、終わっても疲れてるだろうから、俺が仕事することになってたんです。竹谷先輩がいるならいいかなとも思ったんですけど、約束したことなので」
説明すると、そうか、と竹谷先輩は頷いた。
「でも俺達でやっとくから、お前は戻ってくれ。今までサボってた分、働かねーと」
「え、でも……先輩達、天川さんのところ行くでしょう」
「そんなこと気にしなくていいって!」
竹谷先輩が笑った。行くなら仕事の後に行けばいいし、と言う。それならお言葉に甘えようか、と思った時。
「森林先輩っ!」
名前を呼ばれてそちらを見ると、慌てた表情で三反田が走ってきた。
「どうしたの」
「あ、あの、食満先輩が、うわっ!」
足が絡まってべしゃっとこける。ああ、保健委員だなと思う。
「食満先輩、どうかしたのか?」
竹谷先輩が眉を寄せて尋ねる。三反田は顔を上げて、倒れたままの体勢で言った。
「食満先輩が起きましたよ!」
竹谷先輩と尾浜先輩が安堵したように息をついた。

竹谷先輩達に生物委員の仕事を任せ、食満先輩が入院している部屋に行くと、富松がむすっとした顔で座っていて、新野先生が食満先輩の包帯を取り替えているところだった。
「食満先輩、起きたんですね。よかったです」
「森林?」
声をかけると、食満先輩は不思議そうに首を傾げた。特別仲良くしているわけでもないから不思議だったのだろう。
「森林先輩が、食満先輩を運んでくださったんですよ」
「そうなのか?」
富松の言葉に驚いた様子。すまなかったな、と言われたので、いえいえ、と軽く手を振る。
新野先生が包帯を巻き終わり、きちんと安静にしているんですよ、と忠告して出ていこうとした。
「食満先輩!」
「食満先輩起きたって!」
「先輩……!」
バタバタと廊下を走る音が聞こえたと思ったら、新野先生が開いた襖から我先にとしんべヱ、喜三太、平太の三人が飛び込んできた。実習終わりに直接来たのだろう。新野先生は苦笑して部屋を出ていった。
三人は口々によかったよかったと騒ぐ。それに食満先輩が礼を言いながら頭を撫でる。
用具委員会全員集合って感じ。
「――こら!うるさいぞ!」
ぱあんと襖を開けて左近が怒鳴った。怪我人がいるんだから騒ぐな!と言いながら部屋に入った彼は、粥とお茶の載った盆を持ってきた。
「どうぞ。三日も何も腹に入れてないんですから、ゆっくり食べてください」
「ああ、ありがとう」
食満先輩は嬉しそうにその盆を受け取った。ゆっくり食べろと言われたのにぺろりと平らげてしまって、左近が少し顔をしかめた。元気そうでよかったじゃない、と苦笑しておく。
「傷の加減は?」
「まあ、痛むが大したことはないな」
「でも早速出歩かないでくださいよ!廊下で食満先輩を見た時は幽霊かと思ったじゃないですか!」
「勝手に殺すなよ、作兵衛」
富松の言葉にもからからと笑う。出血が酷かったから少し血が足りてないかもしれないが、それくらいはそのうち治るだろう。大して普段と変わらない様子だ。
「入りますよー」
医務室に行っていた三反田が戻ってきた。入れ替わりに左近が医務室に戻る。三反田は食満先輩に粥を食べたことを確認して、どうぞ、と笑顔で薬を差し出した。食満先輩はうっと顔をしかめたが、大人しく受け取った。保健委員の薬は苦いので、気持ちはわかる。
一年生三人は、久しぶりに食満先輩と富松がいるからだろう、とても嬉しいらしいのが見て取れた。にこにこ笑いながら沢山話をしていた。それを見る食満先輩と富松も、微笑ましいというような顔。
なんだかんだで用具委員の一年生達とはよく一緒にいたから、よかったなあとしみじみと感じる。
「――そうだ」
と、三反田が呟いた。
「作兵衛、食満先輩が起きたこと、姫美さんに知らせなきゃ。心配しておられたから」
天川さんの名前が出た瞬間、一年生達がぴたりと話を止めた。
「心配してたのか」
「はい。とても」
三反田の言葉に、食満先輩が少し嬉しそうに笑った。
そうか、今の穏やかな状況は、別に以前のように戻ったわけではないのだ。食満先輩は怪我をしているからここにいて、富松と三反田はそれを心配してここにいるだけだ。
――食満先輩の怪我が治ったら、またああなるだけかもしれない。
それもしょうがないとは思うけれど、一年生達の暗い表情を見ていると。一度元に戻ったような錯覚を起こした彼らが、また一年生だけの委員会に戻ったとき、以前より辛くなるのは目に見えている。
「本当なら俺が直接会いに行きたいんだがなあ」
「駄目ですよ、食満先輩はちゃんと寝てないと!」
三反田が慌てて言うと、わかってるよ、と食満先輩は苦笑する。
「じゃあ伝えて来てくれ。もう大丈夫だからって」
「はい。作兵衛、行こう」
食満先輩の伝言を預かって、三反田が立ち上がる。
富松は動かずにじっと俯いていた。
「……作兵衛?」
「あー……悪い、俺はいいや」
「え!どうして?」
富松の言葉に三反田は目を丸くした。驚いたのはその場にいた他の人間も同じだった。
「どうしてって言われても、別に意味はねぇけど……良いだろ?」
「そりゃあ好きにすればいいと思うけど……本当にいいの?」
「俺の事なら気にしなくていいぞ?」
食満先輩も言ったが、いいんです、と富松は首を振る。
三反田は首を傾げながら部屋を出ていった。富松は依然として無言で畳を見つめるばかり。そんな富松に、一年生達も食満先輩も顔を見合わせる。
「……富松、それならちょっと手伝ってよ」
「えっ」
俺の誘いにばっと顔を上げて、困惑した表情を見せる。笑って見せると、眉を下げて困った顔。
「手伝いって……」
「ちょっとしたことなんだけどねー」
曖昧にそう言って立ち上がり、勝手に部屋を出る。富松は迷った様子を見せたが、慌てて俺の後を追って部屋を出た。
適当な方向に廊下を歩いて、少し離れたところで立ち止まる。富松はまだ困ったように眉を寄せている。
「ごめんねー」
「別に……なんですか、手伝いって」
「あれは嘘」
は?と富松が目を丸くしたので、へらりと笑う。富松はますます眉間に皺を寄せて俺を見上げている。
「富松の様子が変だったから」
「……別に、先輩には関係ないことです」
小さい声で言われた。まあそれもそうなんだけど。
「富松は天川さんに会いたくないの?」
「……」
単刀直入に聞くと、ちらっと不満げに俺の顔を見た。首を傾げてみせると、目を逸らされた。
「……そうですね」
「なんで?」
「なんでも良いでしょう、別に」
苛立ったように言われる。思ったより強情だ。富松は俺が苦手だから、びびって教えてくれるかと思ったけど。
「……ま、なんでもいいけど。天川さんに会いたくないなら、これからは委員会に出てくれるの?」
「そりゃそのつもりですけど」
「そう。よかった」
微笑むと、富松は目を丸くして驚いた表情をした。
「どうしたの」
「あ、いえ……」
富松は言い澱んで目をそらした。それから、あの、と目をそらしたままで口を開いた。
「なんでそんなに嬉しそうにしたんですか」
「嬉しいからだよ?だって富松がまた居なくなったら、今度こそしんべヱ達が泣くかもしれないから」
「あいつらが?」
富松は首を傾げた。
「今度こそって――」
富松が尋ねようとしたとき、背後からばたばたと廊下を走る音がしたので振り返った。
「――数馬?」
富松が驚いた声を上げた。三反田が泣きそうな顔で走ってきたのだ。
「どうした、数馬」
「作兵衛……」
三反田は走るのをやめて富松に歩み寄った。顔をしかめている。俺と、おそらく富松も、その様子に驚きと若干の心配を覚えた。
「作兵衛、どうしよう」
三反田はさらに顔を歪めて言った。
「――僕、姫美さんが怖くなっちゃった……!」
俺はその言葉にとても驚いた。どういう意味?
富松はその言葉を聞いて目を見開き、小さく呟いた。
「――え、お前も……?」



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