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能勢久作は困っていた。
あまり関わったことのない一年生と二人だけというのも辛いが、その一年生がさめざめと泣いて一向に泣き止まないのである。
久作については、血塗れの食満留三郎を見た直後は頭が真っ白で何も考えられないような状態だったが、少し経ってみると彼の容態を心配できるほどには回復した。あんな大怪我をしているのを見て、すぐにその場の人間に指示を出した森林葉太郎は、普段へらへらとしていてもやはり上級生だということだろう。頼りになると委員会の後輩達が言っていたのにも納得できたかもしれない。
さて、下坂部平太のことだ。
まだ混乱していた間は、平太が隣でぐずぐずと泣いているのも気にならなかったが、今となっては放っておくのもどうだろうと思う。といって泣いてる子どものあやしかたなんてわからない。
ちらちらと横目で様子を伺っても、膝を抱えて肩を震わせているばかり。まったく落ち着いた様子がない。
と、平太がちらりと顔を上げた。お、と思ったが平太はまたそのまますぐに膝に顔を埋めて一層泣き始める。そういえばさっきから度々、こんな風に泣き方が激しくなるタイミングがあったような。
平太が見ただろうものは、考え始めてすぐに思い当たった。
地面に落ちた血の跡である。これを見ては先ほどの食満の姿を思い出していたのに違いなかった。
久作は少し迷ってから立ち上がった。放っておいて良いだろうかと思ったが、どっちにしろ慰めてやっているわけでもなし、変わらないだろう。平太は少し身じろぎしたが、顔を上げるわけでもなくそのまま泣いていた。
久作は平太の周りの地面にぽつぽつと落ちている血の上に周りの土を被せてまわった。それから葉太郎達が食満を運んで行った道筋を少し辿って、平太が見えると思われる範囲の血の跡を隠した。
すぐにその作業は終わり、その途中で思い出した用具委員の工具の片付けを始めた。一年生三人が放り出したせいで、すべての工具が木箱から飛び出して地面にばらまかれていたのだ。たまに平太の様子を確認しながら、工具を箱に詰め直す。どんな風に収められていたか覚えていないので、そのあたりは適当である。
必要以上に時間をかけて片付けを終えても、先ほど行ってしまった四人の内の誰かが帰ってくる気配はない。しょうがなく門の横に戻った。おそらく自分は役に立たないと判断されたのだろうが、頼まれた手前、門の見張りくらいはきちんとやらなければ。少し迷って、結局また平太の隣に腰を下ろした。平太の肩はもう揺れておらず、泣き声もようやく収まったようだ。鼻をずるずるとすする音だけが聞こえる。
早く誰か帰ってきてくれ、と思いながら黙っていると、平太が小さな声で呟いた。
「……食満先輩、大丈夫かな……」
「……大丈夫だろ」
答えるべきか、なんと言うべきか、と困ったまま、とりあえずそう答えてみる。
「森林先輩もいるし」
「……そうですよね……」
葉太郎は別に保険委員でもないのに何を言ってるんだ、と久作自身は言った瞬間に思ったが、平太は久作の言葉に素直に頷いた。少し顔が上げられていた。
「森林先輩、すごいから……大丈夫ですよね……」
「……やけに森林先輩のこと信頼してるんだな」
「……先輩、前も僕達のこと助けてくれたから……」
平太はそう言って顔を歪めた。また泣くのか、と久作は慌てる。
「僕、前も森林先輩を困らせちゃって……先輩達がいなくて、しんべヱと喜三太は心配だから、僕がしっかりしなきゃいけないのに……」
「……」
一年ろ組の生徒でよく知っているのは委員会の後輩である二ノ坪怪士丸ぐらいだが、その怪士丸が言うに、クラスメイトはみんなこんな感じ、らしい。基本的に暗くておどおどした小心者。その一員の平太であるが、彼なりに責任感があり、委員会のためを思っていた。
「でも、前もさっきも、僕何にもできないし、泣いてるだけで……二人はちゃんとお手伝いしてるのに……」
情けないと思っているのだろう。
久作は平太の言葉になんと言えばいいのかわからなかった。自分はむしろ、自身の後輩達をこんな風に追い詰めてしまった側なのだと気づいたからだ。
「……食満先輩達のこと、恨んだりしないのか」
思わず尋ねてしまった。今はそんなことを言って平太を困らせている場合ではないのに。
しかし予想に反して、平太は全く困った様子なく、当然のように首を振った。
「全然、そんなこと思わないです……」
久作は意外に思って平太を見る。その顔は怒った風ではなかったが、平然とした風でもなかった。
「……ただ、元のように戻ってほしいとは、思っちゃいますけど……」
ただ悲しそうに呟いた。
「おーい!二人とも〜!」
第三者の声。顔を向けると、小松田が走ってくるところだった。装束に血は付いてないので、着替えてきたのだろう。血の付いた装束では、また見た瞬間に平太が泣き出すのは目に見えていたので、少し安堵する。
「ごめんねえ、ありがとう」
「あ、あの、食満先輩は……」
平太の質問に小松田は少し困った顔をした。
「僕が出て行ったときには乱太郎くんと伏木蔵くんと川西くんしかいなかったけど……森林くん達が新野先生とか善法寺くんを呼びに行ってたから、今頃治療中じゃないかな〜」
「そうですか……」
平太は小松田の言葉に俯いた。ごめんねえ、と小松田が眉を下げた。
「あとは僕がやるから」
ありがとう、と小松田がへらりと笑ったのを見て、久作は立ち上がった。
小松田に工具や塗料などを少し見ていてもらえるように頼むと、任せて、という返事を得た。
それから、まだ座り込んだままの平太を見て声をかける。
「行くぞ」
「……え?」
「医務室。食満先輩のところ」
平太は戸惑ったように目を瞬かせながら、のろのろと立ち上がった。久作は少し迷ってから右手を差し出した。平太がほとんど無意識に左手を伸ばすと、その手をとって歩き出す。
「あの……」
「一年は組だけじゃ不安だからな。お前も行ってやらないと」
久作はそう声をかけながら、少し遠回りになるなと思いつつ、葉太郎達が食満を運んでいったのとは別の道筋で医務室に向かった。また泣かれるのは御免である。

二人が医務室の前の廊下に着くと、そこに並んで座っていたのはしんべヱと喜三太だけではなかった。その二人に挟まれて、富松作兵衛がいたのだ。
「あっ平太!」
喜三太が久作と平太に気がついた。作兵衛を挟んで向こう側にいたしんべヱもこちらを見る。
「平太、と……二年の能勢?」
作兵衛は少し青ざめたように見える顔で二人を見ると、不思議そうに小さく首を傾げた。
「テメェら、そんなに仲良かったっけ?」
久作は慌てて平太と繋いだままだった右手を離した。

* *

医務室の襖を開けると、廊下に並んで座っていた五人がぱっと振り返った。
「森林先輩!」
「食満先輩は……!」
一年生三人が立ち上がったので、医務室の襖を大きく開いてやる。
入っていいってさ、と言うとばたばたと駆け込んでいった。久作はそれに続いたが、富松はまごついてなかなか入ろうとしない。
「富松?」
「わあ!す、すみません!」
声をかけると肩をびくっと揺らして医務室に入った。
「血は止まったし、呼吸も安定した。命に別状はない」
『よかったあ〜』
左近の言葉に、しんべヱと喜三太は顔を見合わせて笑っていた。平太も小さくよかった、と呟いた。その隣で座り込んでいた富松も、はあと大きくため息をついていた。よく見れば顔色が随分悪い。さっき変に躊躇していたのは、お得意の妄想が働いていたのかもしれないなと気づいた。
「ほら、皆さん。あまり騒々しくしないんですよ。怪我人がいるんですから」
新野先生が苦笑しつつ言うと、はあいと返事をする一年生達。
「疲れたろうから、みんな休めば?食満先輩は俺が見ているから」
「え、でも」
「特に左近は疲れたでしょう」
随分気が張っていたようだったから。左近はそれでも少し迷う様子だったが、それを解消したのは意外にも三反田だった。
「そうだよ。僕も残るから、みんなは戻ってかまわないよ」
「数馬先輩……」
その言葉に、結局左近は頷いた。久作と連れ立って出て行こうとしたのをあっと声を上げて呼び止める。
「久作、工具とかはどうした?」
「ああ、わからなかったので、とりあえず小松田さんに見ておいてもらってます」
「今から作業とかできないし、全部倉庫に運んでおこう」
「わかりました。あ、森林先輩は良いですよ、やっときますから」
「僕達も手伝います……」
久作に申し出たのが平太だったのは少し意外だった。結局一、二年生七人でやってくれるというので甘えておくことにした。作兵衛もついて行こうとしたが、しんべヱ達が大丈夫です、と言い、左近が顔色の悪さを指摘したので、結局やめた。
新野先生が先生達に報告に行くと言って出て行き、俺と三反田、富松の三人と、眠ったままの食満先輩だけが医務室に残った。
しばらく誰もなにも言わずにいたが、食満先輩をじっと見ていた富松がふと呟いた。
「……善法寺先輩は、なんで来てくれなかったんだろ」
その言葉に、富松の顔を伺うと、怒ったような顔だった。
「……いつもならあんな事言わないんだよ……」
「じゃあさっきのあれはなんなんだよ……!」
さっきの、というと俺が新野先生を呼んだ後に様子を見に行ったときのことだろう。俺が顔を出したとき、食満先輩のことは聞いていただろうにも関わらず、天川さんの心配をした善法寺先輩のことだ。
「食満先輩だから大丈夫だろうって、おかしいだろ!」
「……うん」
そんな風に言ったのか。同室で付き合いが長いからこその信頼だろうか、と思ったが、富松が言った。
「あんなの、信頼でもねぇ。そうあってほしいって願望だ!」
願望……なるほど。言い得て妙だ。
「信じらんねぇ、あの人……!」
「……僕も、今日の伊作先輩の態度は良くないと思うよ」
さすがに憧れの先輩と言えど、三反田も眉をしかめた。信頼ではなく、願望か。おそらく善法寺先輩は、天川さんとの時間を減らしたくなかったのだろう。今日は六年生が彼女と一緒にいる日だ。
「……ん?ちょっと待って二人とも」
思わず口を挟むと、二人は困惑した表情で俺の方を見た。
「なんですか?先輩」
「思ったんだけど、それってあんた達が言えることじゃないんじゃないの?」
「え?」
俺の言葉に、二人は目を丸くした。どういう意味ですか、と富松が眉を寄せて言う。
「結構前に孫兵が言ってたんだけど、委員会に出ていないことを言及されたときに、二人も言ったんだよね」
――自分達がいなくても、後輩達がいるから大丈夫だろう。
「それって、富松が言うところの、信頼じゃなくて願望だよね?」
少し首を傾げると、二人はしばし目を見開いていたが、少しずつその顔色を青くさせた。
「……で、でもそれは、実際に」
「俺が見てる限り、どの委員会も大丈夫には思えなかったけどな」
俺にすがって泣いてしまうくらいに追い込まれた子もいたっていうのに。
二人が黙り込んでしまった。ここに来て初めて、言い過ぎたかと気づいた。
どうしたものかと思ったとき、新野先生が戻ってきた。森林くんも疲れたでしょう、と言われたので、お言葉に甘えて医務室を出ていった。

* *

掃除を終えて、私は一旦部屋に戻った。
部屋の襖に手をかけようとして、中から開かれたのでうわっと声を上げてしまった。
「三木ヱ門?どうしたの?」
「いや、ちょっと手拭いをとりに……お前は?」
「休憩中ー。ついでに装束が汚れたから洗濯しようと思って」
落ちるかなー、と苦笑する葉太郎の手には、小さくくるまれた紫の装束。先ほど見たものだろう。
「えっと、食満先輩がどうって言っていたが……」
「うん。まあ、一命はとりとめたから大丈夫だよ」
「え、そんなに酷い怪我だったのか?」
目を瞬かせると、まあね、と葉太郎は困ったように微笑んだ。
「そう、か……」
「……うん、じゃあ俺洗濯してくるから」
食満先輩の血なんて付けてたくないしねと笑ったが、冗談にしては不謹慎だし、真面目だとしても他人に言う台詞じゃない。
廊下を歩いていく背を見送る。
昨日の今日で、どう接していいかと悩んでいたのだが、案外なんとかなっただろうか。
今まででは考えられない、互いの視線が一切交わらなかったのは棚に上げて。私はそう結論づけた。
[あとがき]



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