09



――三ちゃんが悪いんでしょ!
――私は絶っ対に悪くない!
――何言ってんの!三ちゃんが笑うからいけないのよ!!
――お前があんな派手にこけるからだろ!
――だからってあんなに笑うことないじゃない!!馬鹿!!
――誰が馬鹿だ!!お前どうせ恥ずかしいだけだろ!自業自得だこの馬鹿!!
――なんですってえ!?
――……お前らうるっせえ!!喧嘩なら外でやってろ!!邪魔だ!!
私と三ちゃんは、なんということもない出来事で不思議なほど白熱した口喧嘩を繰り広げることがあった。家で喧嘩していると、時々お父さんに外に放り出された。仕事の邪魔だったからだろう。
私も三ちゃんもお父さんには頭が上がらないから、そうして本気で怒鳴られて外へ叩き出されると、それまでの勢いが嘘のように、二人揃ってしゅんと座り込んでいたのだった。

* *

勘右衛門さん達が店に来てから一週間後、ようやく三郎さんが店に顔を出した。二週間ぶりだ。
「三郎さん!いらっしゃいませ!」
「おー……なんか久しぶりだ」
「そうですねえ」
三郎さんはそう言って苦笑すると、いつもの椅子に座って言った。
「今日はお使いじゃないから」
「え、そうなんですか?」
「ああ……まんまとしてやられたから」
三郎さんが何か呟いたので首を傾げたが、気にするなとひらひら手を振っただけで教えてくれなかった。
「醤油の団子ちょうだい」
「あ、はい」
注文を受けて厨房に入ろうとすると、奥さんに名前を呼ばれた。なぜかにこにこと楽しそうにしている。
「なんですか?」
「はりきってたじゃない。うんと美味しいお茶を出してあげればいいわあ」
奥さんはそう言って笑った。そういえば、三郎さんにお茶を出したことは無かったのだった。思い出すとなんだか楽しくなって、はいっと頷いた。
注文を伝えてお茶を煎れている間、奥さんが一緒に厨房に入っていた。さも奥さんが煎れたかのように差し出して、騙されたところを種明かししてあげなさい、と奥さんが言った。案外お茶目なところのある人だ。その計画を聞いた店主も面白そうに笑ったので、似た者夫婦だ。
奥さんが先に厨房を出てから、盆に湯呑を載せて私も店内に戻った。三郎さんはぼうっと入り口の方を見ていた。
「どうかしましたか?」
「ん?いや別に。通行人の足が見えるなーって」
入り口には長い暖簾が掛かっているだけなので、外を行き交う人々の足元だけなら見える。そんなどうでもよさそうな事を指摘する三郎さんに思わず笑った。
「面白いですか?」
「あ、今馬鹿にしただろ。結構面白いんだから」
「え?なんでですか?」
てっきり暇つぶしにぼんやりしていただけだと思っていた。三郎さんはまた暖簾の下から足達を見た。
「足元を見れば、その人間の年格好や性格がある程度想像できるんだよ」
「ええ?本当に?」
「ああ。少なくとも、歩幅や足の大きさから身長はだいたいわかるし、速さや足の運び方で性格も予想はできる。着物からも、色々わかるしな」
……そう言われればそうなのかな。かと言って、そんなことを思いつくということすら、普通ないだろうと思うけど。
――三郎さんって、頭良いのかな?
「あ、お茶どうぞ」
「ああ」
三郎さんの講義で忘れていたので、慌ててお茶を机に置いた。三郎さんは普通に湯呑を取り上げた。人々の足元を見ていたというなら、このお茶を私が煎れたなんて思っていないはず。人によっては奥さんの煎れたものと全く変わらないと言ってくれるお客さんもいるし、それなりに自信はあった。
「――なんだ、これ」
しかし三郎さんは一口飲んだだけでそう呟いて、湯呑から口を離した。
「なんか味落ちた?茶葉が変わったのか?」
なんの悪気もなく、首を傾げて言われた。
「お、落ちたって……」
思わず笑顔が引き攣る。三郎さんは不思議そうにして、奥さんが驚いた顔で、あらあらと言いながら近寄ってきた。
「んもう、三郎くんったら!」
「え?なんですか」
「大丈夫よお、小梅ちゃん!小梅ちゃんのお茶はちゃんと美味しいからあ」
「う……」
その優しさに泣けそう。三郎さんは一瞬きょとんとしてから、えっと声を上げた。
「これあんたが煎れたの?」
「そうですよ!まずくてすみませんねえ!」
「い、いや不味いとは言ってないじゃないか」
そう言いつつ困った顔で眉を下げる。本当に無自覚に言ってしまったことなのだろう。その事実がまた辛い。
そりゃあ奥さんの煎れるお茶に匹敵するなんて全く思っていないし。まだまだ修行が足りていないし。でも、一口ではっきりと味が落ちたとか、まして茶葉が変わったとか言われてしまうなんて!そんなに違うかな!?茶葉も同じだし蒸らす時間も同じなんですけど!
「三郎くんがそんなに気の利かない男だったとは誤算だったわあ」
「さすがに知ってたらそんなこと言いませんよ!」
「知らなくたって言うべきじゃないわよ!ねえ?」
奥さんが他のお客さん達に同意を求めると、みんな口々にそうだそうだと囃したてる。
「ええー!私が悪いんですかあ?」
「まったく!小梅ちゃんに謝んなさいよ」
「はあ?」
「い、いえ、別に、そこまで気にしてないので……」
随分三郎さんが悪者にされているので、さすがに申し訳なく思って口を挟んだ。
「小梅ちゃんったら健気だねえ」
「三郎、こんないい子にあんなこと言って、やっぱり良くねえよお」
なんかお客さん達が逆に三郎さんを煽り始めた。
いやいや、そもそも私と奥さんが下手な作戦なんかしようとしたから――。
「――っていうか!最初に言っといてくれればちゃんと気をつけてたのに、言わないからでしょ!?」
三郎さんが不満げに声を上げた。
――あれ、それって。
「なのに私ばっかり責められるのも納得いかないんですが――」
「――やっぱり私の煎れたお茶は不味かったって事ですか?」
努めて冷静な声で言うと、不満を呟いていた三郎さんは口を閉じ、目を瞬かせて私を見た。
「や、だからそんなこと言ってないって」
「今言ってたじゃないですか」
「は?なんの話だ」
「気をつけてたのにって言ったでしょ。つまりなんですか、気をつけてないと適当な褒め言葉も出ない程度の味だったってことですかっ?」
「なっ。それは穿ちすぎだろ」
三郎さんが面倒くさそうに顔をしかめた。その態度が苛立たしくて、私もぎゅっと眉を寄せた。
「穿ちすぎ?今の発言はそう取れるものだったでしょ!?」
「そう取れるったって、完全に疑心暗鬼じゃないか。私はそんなつもりで言ったんじゃない!」
「じゃあどういうつもりで言ったんです!?」
「どういうつもりもなにも、思わず出ただけでそんな深い意味はない!」
「深い意味とかじゃなくて、何を思って言ったのかって聞いてるの!」
「たかが愚痴に何ムキになってんだよ!」
「愚痴ぃ!?そんなこと言われるほど酷かったっていうの!?」
「ああ、もう!お前はいっつもそう、」
「――二人とも静かになさいッ!!」
びくっと肩を震わせて、私と三郎さんは同時に口を閉じた。そして同時にゆっくりと奥さんの方を見た。
今までに見たことのないほど怒った顔で、奥さんは大声を張り上げた。
「――外に出なさい!!他のお客さんに迷惑でしょう!!頭が冷えるまで戻って来るんじゃないわよ!!」

すごすごと二人揃って裏口から出てきた私と三郎さんは、傍から見ればなんて情けないだろうか。
「……あんたのせいで怒られた」
「なんで私……三郎さんのせいです」
言い返すと、三郎さんはむっとした顔を向けてきたが、結局はあとため息をついて顔を背けた。
「あーあ。何やってんだ、私は」
「……」
三郎さんの呟きを聞きながら、私も同じことを思った。何してんだろ、私。
店の外壁にもたれる三郎さんと、着物を気にして壁には寄り掛からずに立っている私。どちらも黙り込んで、何も話さない。
――なんか、昔こういうことよくしてたなあ。
ふとそんなことを思い出した。お父さんに怒鳴られて外に放り出され、家の玄関の前で座り込んでずっと黙っていた。じっと二人で黙り込んでいれば、しばらくして相手が先に謝ってくれて、それがありがたいやら悔しいやらで、結局頷いて返すだけだった幼い私の姿が目に浮かんだ。私から吹っかけた喧嘩でも、謝るのは相手からが多かった気がする。
『喧嘩をした相手にきちんと謝れる。小梅よりも三の坊のが大人だな』
お父さんはよくそう言った。
――さっきの言い争いも、完全に私から吹っかけてたよね。
それで、こうしてずっと黙り込んでいるのは、幼い頃の私と同じだ。もう五年近く前のこと。
「……あの、三郎さん」
身体ごと彼の方に向き直って名前を呼ぶと、三郎さんは少し驚いたようにして、黙ったまま壁から背を離して私を見た。
「すみませんでした。失礼なことをしました」
「……え」
三郎さんは驚いたように声を漏らした。私は深く折っていた腰を戻して、苦笑してみせた。
「私、昔よく友達と喧嘩していたんです。謝るのはいつも相手の方でした。父はよくそんな私達を指して、相手の方が大人だって言ってたんです。私は、ほとんどの場合自分の非を認めようとしない子どもでしたから」
三郎さんは突然思い出話を始めた私に困惑したのか、目を丸くして黙っていた。
「さっきも、私から突っかかってしまいましたね。三郎さんはなにも悪くないのに、勝手に怒り出して、お恥ずかしい限りです。それで奥さんに追い出されて、黙り込んでいるなんて本当に昔のままです。このまま三郎さんに先に謝られたりしてしまえば、それこそ何も成長していないってことになってしまうと気付きました」
「……そ、うか」
「はい」
三郎さんは目を瞬かせて小さく返した。私は最後に頷いて、口を閉じた。三郎さんは困った顔をして目を泳がせていたが、やがて苦く微笑んで口を開いた。
「私も、言葉が悪かったかもしれない。私も昔から、よく友人に誤解を招くような言い方をして喧嘩していたよ。私こそほとんど成長してないのかもな」
「そんな、私が勝手に邪推してしまったから……。三郎さんは本当に思ったことをおっしゃっただけですもの。それに怒るなんて、お門違いですよね」
奥さんのお茶よりも味が劣るなんて事実だし、それは自分でも自覚しているところのはずなのに。
――でも、三郎さんにあんな風に言われるのは思っていたよりも悲しくて。
「……あの、気をつけるという発言は、単純に、味が落ちたとかいう不注意な言い方の話だったんだ」
三郎さんはそう言って眉を下げた。
「こう言ってはまた傷つけるかもしれないが、実際、奥さんの煎れたお茶には勝てないことは自分でもわかっているんだろう?」
「はい、それはもちろん自覚しています」
「そうか。私は奥さんが煎れたものと思い込んでいたから、思わずそんな言葉が出てしまった。理由を考えたら、茶葉を変えたとか奥さんの具合が悪いのかとか、そう思って」
「それで、あの言葉ですね」
三郎さんは申し訳なさそうにすまん、と言った。でも何も言わずにお茶を出したのは私であって、三郎さんはやはり何も悪くなかったのだ。
「三郎さんは悪くないんです。騙されてくれないかなって思って、変なことをした私が悪かったんです」
「やっぱりそういうことだったのか。悪かったな、騙されてやらなくて」
「いいえ。やっぱり私はまだまだなのだなとわかりました」
一口ですぐにわかってしまうとは。やはり、お客さんにお茶を出すのはもっとちゃんとしたものを出せるようになるまで控えよう。
「でも、あんたのお茶が不味いとは思ってないよ。それは事実」
「え?」
「奥さんが煎れたと思えば違和感があるけど、そうじゃなければ全然気にならないさ。三ヶ月であれだけ美味く煎れられるなら、練習すればいい。きっと奥さんのようなお茶も出せるようになるさ」
――あ、慰めてくれてるんだ。
そう気付くと三郎さんが少し気恥しそうに目を逸らしているのがなんだか可愛らしく思えて、くすくすと笑ってしまった。三郎さんがむっとした顔をした。
「なんだよ」
「いえ。ありがとうございます」
お礼を言うと、三郎さんは目をぱちりと瞬かせた。
「練習します。また今度、私の煎れたお茶を飲んで貰えますか?」
そう尋ねると、三郎さんは少し驚いた風にしたが、それからにっと笑って頷いた。
「ああ、楽しみにしてる」

* *

――ああ、失敗した!危なかったあ!
学園に戻って自己嫌悪に陥っている。さっきのまさごやでの失態は、思い出すだけで恥ずかしい。
――完全に、昔さながらの喧嘩腰になってしまっていた。あいつのことも、お前って言ってしまった。もう少しで完全に失言をするところだった。
――『お前はいっつも、私の話を聞かないな!』
あいつが"三郎さん"の話を聞かなかったことはない。あいつは"三郎さん"の前では淑やかで控えめな女であった。話を聞かないのは、"三ちゃん"に対してである。何かしてやろうと思っても、話を聞かずにすぐ突っかかってきて、そのまま喧嘩に突入するようなことがしばしば。人形を直してやろうとした時も、盛大にこけたあいつを、軽く笑って引き起こしてやろうとした時も。
――そういえば、あいつは私とのことを覚えていたのだな。
そりゃあ、まだ五年足らずしか経っていないのだから、早々忘れる訳もないだろう。記憶を塗り替えるほどあの村の生活は忙しないものでは無かっただろうし。
喧嘩をして、謝るのがいつも私からだったかどうかはあまり覚えていない。私もあいつも気の強い質だったから、自分が悪いと思わない限り謝らないし、謝らなくても次の日にはけろっとして私の前に現れる馬鹿な奴だった。おそらくそうして有耶無耶に終わるパターンが一番多かっただろう。
――成長かあ。
あいつは充分成長しただろう。想像以上に女らしく育ってしまって、喧嘩しても謝れるようになった。
――あいつは、"三ちゃん"との関係が変わるのが恐くはないのだろうか。それとも、変わってしまっても構わないと思っているのだろうか。それとも、もう会うことはないと思っているのだろうか。どうでもいいと思っているのだろうか。
――そういえば、あいつはなんで村を出たのだろう。あいつのお父上、あの厳しくも優しかった男は、今どうしているのだろう。
尋ねたら、変だと思われるだろうか。



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