07



――……ほら。
――え、これ……。
――だから借りるだけって言っただろ!
――……直してくれたの?
――お前も松さんも、そういうの苦手だって言ってただろ。
――……あ、ありがとぉ……!
――ちょ、泣くなよ!また怒られるだろ!
三ちゃんが顔を背けながら差し出したみいちゃんは、太郎にボロボロにされた部分が修復されていた。拙い繕い物だったが、それすら出来なかった私とお父さん――そういえば三ちゃんは松さんと呼んでいた――は、みいちゃんはもう捨てなければならないと思っていた。
私と三ちゃんは喧嘩をすることも確かに多かったが、彼は不器用に優しいのだということを、私はちゃんと知っていた。

* *

沙織さんとミツコさんにあの人の愚痴を零した時に、人に悩みを聞いてもらうことはこんなに気が楽になるものなのかと知った。さすがにお客さんの愚痴なんか長々と話すのはよくないので、簡単に思ったことを話しただけだったのに、その短時間で驚くほどの効果があった。友人がいるというのは、こんなに心穏やかになるものらしい。驚くべき発見だった。
しかし、やはり他人の愚痴を聞くというのは、聞き手にとってはただの苦痛になりかねない。あの時沙織さんは真剣に話を聞いてくれていたが、もし今度同じようなことがあれば、沙織さんがうんざりし始めた時にはちゃんと言葉を止めようと思う。
――人の振り見て我が振り直せ。この人の言動を見て、私はこんな風に延々人の悪口を言い続ける意地の悪い人間には絶対になりたくないと思う。本当に、顔だけは好青年でも嫌な人だ。
「――だよ!?本当にあのジジイ、腹立つー!」
「……はあ」
だよ!?と言われても、私はそのおじいさんのことは知らないし、肯定も否定もするわけにはいかない。
「小梅ちゃんもそう思うでしょ!?」
「えーっと……」
だからなんとも言えないって。そもそも、おじいさんがあなたのお小遣いを取り上げたのは、一向に仕事をする気がなさそうだからだと思う。あなたが悪い。
「人の事をそんな風に言うのは、あまりよくないことかと……」
苦笑しながら当たり障りなく答える。この言葉で、その口の悪さをなんとか治してくれないものか。
「さすが小梅ちゃんだ。その優しい心は、ジジイのせいで傷ついた俺の心に染み渡るよ」
なんだかうっとりしたように言われる。優しい心なんておそらくあなたに抱いたことはない、ってそんなことをお客さんに思うのもよくないので押し込める。
「小梅ちゃんがあいつを許すのなら、俺もそうしようじゃないか。そう、よく考えれば、ジジイの頭の中は古臭いから、俺達若者とは水と油、考え方が相容れないんだな」
私はそんなことを言った記憶はない。あと、この人は今店内に常連さんの老夫婦がいらっしゃって、自分の事を睨みつけているのを知らないのだろうか。知っていたらすぐに噛み付くような質らしいから、知らない方が穏便に済むだろうけど……。
――早く帰ってくれないかなあ。注文の品はとっくに渡しているのに。
「そうだ、小梅ちゃん、仕事が休みの日ってある?」
「今のところその予定はありません」
「えー。そういうの良くないよ。ちゃんと休みを貰わないと!従業員のことをちゃんと思いやるようでないと、良い経営者とは言えないからね!」
あなたは一体何様のつもりなのか。下心が明らかだから予定はないと言っただけ。店主と奥さんの優しいことを、なんでこんなに何度も店に来ておいてまだわからないの?休みがあったって、あなたなんかのために捨てたりしないんだから!
「小梅ちゃんは働きすぎだよ。なんなら俺ががつんと言ってやろうじゃないか!頭の固いこの店の店主に!」
「やめてください、そんなこと」
「小梅ちゃんは優しすぎるよ。まったく、悪い輩にひっかからないか心配だ。でも大丈夫、この俺がそんな輩からしっかりと守ってあげ――ぎゃっ」
「生憎、間に合ってるよ」
上機嫌に話し続けていた彼が、急に蛙の潰れたような音を発して、すてーんと椅子ごとひっくり返った。
「いや、間に合ってるというか、手遅れというか。なんとも言えないな」
一瞬呆然としてしまったが、はっと声のした方を見た。
「――三郎さん……!」
小さく呟く。いつの間にか彼の隣に立っていた三郎さんは、地面に這いつくばって呻く相手を無表情に見ているだけだった。
「な、なんなんだよ一体!」
「久々に通りかかったら随分胸くそ悪い声と台詞が聞こえたものだから、思わず」
「お前っ、こんなことしてただで済むと思うなよ!」
「なんだ?お前に何か出来るのか?仕事もせずに団子屋に居座って、グダグダ気色の悪い話を続けているだけのくせに」
「なんだとっ!」
彼は非常に沸点の低い質だ。三郎さんの煽りに完全に乗っかって、怒鳴りながら立ち上がって拳を振るう。きゃあっと奥さんが悲鳴を上げた。
あっと思った時には、三郎さんがその拳を左手でぱしりと受け止めていた。驚いて目を見開く彼を、三郎さんが睨みつけた。
「お前、金輪際この店と小梅に近づくなよ。お前みたいな屑が関わって良いような場所じゃない」
「なっ……!」
彼は顔を真っ赤にして、三郎さんを睨み返した。
「お、お前が俺の何を知ってるってんだ!?お前に屑なんて言われる筋合いは――!!」
「――二ヶ月前」
三郎さんが静かに言った単語に、彼はびくっと肩を震わせて口を閉じた。
「に、二ヶ月前って……」
「あの時の女は、私の知り合いなんだが」
彼の顔が、急に赤から青にさあっと変わった。三郎さんはそれを静かに観察しているが、私を含めた他の人達はその様子を目を瞬かせて見ていた。
「懲りてないようだな。そうなると、もう適当なところに言いつけるしかないなぁ」
「そっ……」
彼は口をぱくぱくとさせていたが、急にうわあっと声を上げて三郎さんを押しのけて店を飛び出していった。
――な、なに?
「まったく、情けない奴」
三郎さんが取るに足りないというようにふんと鼻を鳴らして、やっと私は彼が出て行った店の入り口から視線を外した。
「さ、三郎さん、今のは……」
「ああ、騒いでしまったな。すまなかった」
「い、いえ!それは全然……!助かりました!」
慌てて否定すると、三郎さんは少し安堵したようにそうか、と言った。
「三郎くん凄いじゃないか!」
「かっこよかったぞお!」
「はは、ありがとうございます」
奥さんとお客さんの言葉に、三郎さんはにっと笑ってみせた。
「凄かったねえ。三郎くん、意外と強かったんだねえ」
「そんな大したことないですって」
「いやあ、すっきりしたよお」
みんなが三郎さんを褒めたりさっきのお客さんが如何に迷惑だったかという話を始めた。私はまだぼんやりとしながら、みんなと話している三郎さんを見ていた。
――なんだろう、この感じ。
「三郎くん、お団子持って帰るだろう?ちょっと待っててくれな」
厨房から顔を出した店主が笑いかけると、三郎さんはえっと声を上げて手を振った。
「いや、今日は通りかかっただけで。金も無いし」
「お代は良いよ。助かったから、お礼だ」
「そんな、勝手にしたことで」
「いいからいいから!」
店主は強引にそう決めて、厨房に引っ込んでしまった。三郎さんは困ったように眉を下げたが、奥さんがお茶を持ってくるわねえと言ってしまったので、小さくため息をついて席についた。
「……あ、あの、三郎さん」
「ん?」
少し気後れしつつ声をかけると、三郎さんは少し首を傾げて返した。
「本当に、ありがとうございました」
「別にいいって。気にするなよ」
「でも、本当にあのお客さんには、こう言ってはあれですが、困ってしまっていて……」
「だろうな。あれは質が悪い人種だ」
三郎さんはそう言い捨てた。きっぱりした言い方に、思わず少し笑った。
「素敵でした」
「えっ」
三郎さんは私の言葉に目を瞬かせて、それからふいと視線を逸らした。その様子が少し子どもっぽいように見えて、また笑ってしまった。
「あら、小梅ちゃんったら、三郎くんに惚れ直したあ?」
「えっ!別に、そういうわけじゃ……!」
「からかわないでくださいよ、奥さんっ」
三郎さんも少し不満げに言った。あらあら、と奥さんは取り合わないで、どうぞと三郎さんの前にお茶を置いた。
「でも本当に素敵だったわよお。金輪際近づくなって」
「なんか改めて言われると恥ずかしいんでやめてください」
三郎さんは少し眉を寄せて、照れ隠しするようにお茶を啜った。
――そういえば。
「三郎さん、初めて私の名前呼んでくれましたね」
言うと、三郎さんはうっと呻いて、お茶を飲み込んでからごほごほと咳き込んだ。慌てて背中を摩ると、いいから、と手を振られた。
「なんだよそれ。そんなこと気づくか?」
「でも、本当にそうだったでしょう?」
「知らない。そんなの気にしたことないから!」
三郎さんの顔が少し赤い気がして、くすくすと笑うと恨みがましく見られた。
「そもそも、二週間ほど来られませんでしたよね。週に二度ほどいらしてたのに」
「あ、ああ、まあ……」
三郎さんは少し気まずそうに目を逸らした。
「理由を伺っても?」
「いや……大した理由はない。ちょっと都合が合わなかっただけだ」
三郎さんはそれだけ言って、はあとため息をついた。

* *

自室の畳にうつ伏せで寝転んでいたからか、部屋にやってきた雷蔵がうわっと声をあげたのが聞こえた。
「何やってんの、三郎」
「今の私はとてもいたたまれないんだ……放っておいてくれ……」
「な、なんかよくわかんないけど……勘右衛門の言った通りだ。変なの……」
雷蔵は何か呟いて、僕図書委員会の仕事があるから、と本を持ってまた出て行った。
――本当にいたたまれない。とてもいたたまれない勘違いをしていた。
どうということはない。二週間前にあいつが言っていた愚痴は、私のことではなくあの男のことだったのだ。確かに口が悪く迷惑な奴で、顔だけは好青年だった。あれが店に置き忘れていった団子の包みは結構な重さがあったので、沢山買ってくれるというのも当てはまる。
――二週間ずっと悶々としていた私の時間を返せ。
もう会わないことにしようとさえ思っていたのだ。実際、店の前であの意味不明で失礼極まりない発言を聞くまではそうしようと思っていた。しかし、長くお世話になったまさごやの夫妻に対してあんな言い草。放ってはおけない。し、あいつが『やめてください』と言ったのだ。止めないわけにもいかないと思った。そして店に入って目に付いたのは、以前会ったことのある野郎があいつに言い寄っている様。
――名前、そういや呼んだことなかったかな。
特に意識していたつもりはない。が、名前を呼べばそれだけ幼い頃に近づく気がして、なんとなく避けていたのかもしれない。
「……小梅、」
やはり声に出せば懐かしさを覚えた。やめよう。今度から名前は極力呼ばないようにしよう。
――もう戻れないことがわかっていて、元通りに近づきたくはなかった。
まあ、何にせよあの男はもうあの店には来ないだろう。忘れ物を届けに来たという名目で、お前の家は知っているんだぞということを暗に示したが、ちゃんと伝わったようだった。顔を真っ青にして、私の手から荷物と団子の包みをひったくってすぐに家に引き入った。別に話すことも無かったので、そのまま私も学園に戻ってきた次第である。
――気づいてよかった。
あの男は、二ヶ月前に私がミツコに変装していた時に、裏道のところで襲ってきた男だった。特に問題なく対処――アソコを蹴り上げて、名前を聞き出した――したので懲りただろうと思っていたが、まさかあいつに手を出すとは。
――ま、今度あれが店に来たら私に言うように指示したし、そうなればすぐにしかるべき制裁を加えてやろう。
とにかく私は、また何事もなくまさごやに顔を出せることにすっかり機嫌が治っていた。

この日の一部始終が、まさか彼らに知られるところになるとは夢にも思っていなかった。

[あとがき]



前<<>>次

[8/32]

>>目次
>>夢