――あれ?
ドアから入ってくる靴の中に、彼の茶色のローファーが見えなかった。そのままドアが閉まって、電車は駅から出ていった。
数瞬固まってしまい、その後視線を上げて斜め向こうのドアの手すりを見た。
――彼がいない。なんでだろう。
彼は日々のルーティンを崩さない人だ、多分だけど。そんな彼が、毎日乗っている電車にいないなんて。
そりゃあ、彼にだって、私の知らない事情は沢山あるに決まっているけど。この約一年間で、彼が本当に一度も違わず同じ電車に乗っていたというわけでもないし、今日もそのうちの一つなんだろう。
こういう時に、とても悲しい気分になってしまう。用事があって早く学校に行ったのかもしれないし、逆にもっと後の電車に乗るのかもしれない。風邪で学校を休むことになったのかもしれない。
そういう事情を、所詮なにも知らない他人の私が知ることはできないのだ。
――大丈夫かな。風邪とか怪我とかしたんじゃないかな。大丈夫だよね、そんなこと早々起きないもん。
同じクラスの友達が遅刻しようと休もうと、ここまで心配はしないのに。彼の情報が少ないからか、それとも彼への気持ちと友達への気持ちが決定的に違うからだろうか。
――やめておこう、他人なんだから、気にしすぎ。
そう思い込むことにして、手元の小説の世界にもう一度戻ることにした。
* *
――やっぱりなあ。
電車に乗り込んで、横目で確認して思った。定位置についてもう一度、斜め向こうの長椅子の端に座っている人を見ると、当然彼女ではなく、見たことのないスーツ姿の男の人だった。
そりゃそうだよ、俺が予想外の忘れ物をして取りに帰り、いつもの電車に間に合わなかった時、彼女も都合よくその電車に乗り遅れている確率ってどれほどだ。
彼女がいないだけでこんなに落胆するとは。まったく、前日にしっかり確認したつもりだったのに。これからは前々日に前日準備するべきものを確認した上で準備するようにした方がいいのかな。三之助あたりには気にしすぎ、と言われそうだ。
でもそれくらいしたって、彼女を一目見ることと天秤にかけられるとは思わない。だって俺と彼女の接点なんて、たった二駅、十分間のみなのだから。
今日は化学式の小テストがあるから、その対策をしなくちゃいけないのに。彼女がいてもいなくても、俺はどうも調子がでないみたいだ。
* *
はっと気づくと電車は動き出していた。
皮肉にも、降りなければいけない駅名の書かれた看板はゆっくりと去っていく。あと数秒早く気づいていれば……後悔しても乗り過ごしたものは乗り過ごしたのだ。
彼がいないから、それを意識しないように、小説に集中していれば駅を乗り過ごすなんて。こんなことは今までなかったのに。
彼がいてもいなくても、私はうまくいかないみたい。
少し焦りつつ時間を確認する。次の駅で降りて戻れば大丈夫なはず。いつも早めの電車に乗っていてよかった。
次の駅で降りると、当然だが同じ制服の生徒は誰もいない。ああー、なんか心細いです。
だけど、少し周りを見ると、彼と同じグレーのジャケットを着た生徒がいるのに気づいた。
天井の看板を確認しながら、逆方面のホームに移動して電車を待った。こういう時ってなんで電車が来るのが遅いように感じるんだろう。
そう思いながら待っていると、先ほど私が降りたホームにまた電車が到着した。乗客を入れ替えて、再びホームを出ていく。
もしかしたら、と少し期待してしまって。つい、私が降りた辺りを注視してしまって。
――あ、いた。
黒髪、綺麗な姿勢の男の子。こちらに気づくわけもなく、改札へ向かう流れに紛れてすぐに見えなくなってしまったが、確かに毎朝見かけるあの彼だった。
――そっか、彼はいつもこの駅で降りてたんだ。
ちょうどこちらのホームにも電車が来ることを告げるメロディが流れた。
――今日は運が悪いと思ったけど、その代わりに彼について一つ知れた。
よし、私も早く学校に行かないと。
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