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車掌さんのアナウンスは、まもなく次の駅に停車することを告げた。それと同時に、今まで浸っていた小説の世界から急に現実に引き戻された気がした。
視線は手元に開いている小説の文章の上を滑っている。いくら同じ一文を繰り返しても、その情報が入る余地は今の私の頭にはないみたい。

ゆっくり電車が止まった。長椅子の端に座っている私の、すぐ隣でドアが開く。
ついに私の視線は小説から外れ、ドアから流れ込んでくる靴の群れに吸い寄せられた。

――あっ、今朝もいる。

少しほつれが出始めている、茶色のローファー。黒地に薄い青のチェックがプリントされたスラックスの裾。一瞬通り過ぎただけのその足元、私の頭を占拠するのは。
音を立ててドアが閉まり、また電車が動き出す。
朝八時の電車内はとても静かだ。がたんがたんと車輪の音ばかりが小さく聞こえる。だれも知り合いなどいないけれど、しかし毎朝のルーティンが被る人はいて。

例えば、私の斜め向かい、反対側のドアの手すりに背を預けている男の子。

少し持ち上げた小説を読むふりをして、ちらりとそちらに目がいってしまう。黒髪の男の子。グレーのジャケットに赤いネクタイの制服で、おそらく、多分、私と同じ高校生。今日も英語の単語帳を熱心に見ている、きっと、思うに、真面目な人。
学年も、学校も、あの駅から乗ってどの駅で降りているのかも知らない。中学から女子校に通っているせいで、彼が一般的に見て背が高いのか、綺麗な顔立ちなのか判断ができないけど、私にとっては背が高くて、かっこいいと思う男の子。

名前も、性格も、知らない。
――知りたいことは沢山あるけど、話したこともない私には。

こんなにじっと見ていたら気づかれちゃう。私はつとめて視線を外し、また頭に入らない文字列を繰り返す作業に戻ろうとした。

*  *

駅のアナウンスは、まもなく電車が到着することを告げた。それと同時に、一時間目の授業で小テストが行われるはずの英単語達が俺には無意味なものになってしまった気がした。
アルファベットの単語と、その意味を示す日本語の単語。行ったり来たりしても、その情報を許容できる余裕はなくなってしまったみたいだ。

ゆっくり電車が止まった。俺は一旦単語帳を閉じて、降りる乗客の終わりを待った。前に並んでいた人達に続いて電車に乗り込むと、ついちらりと横目で長椅子の端を確認してしまう。

――あっ、今朝もいる。

黒髪を肩まで伸ばしていて、落ち着いた緑色のジャケットの制服。手元の文庫本を見て、俯いている。
一瞬通り過ぎざまに盗み見た姿、俺の頭を占拠するのは。
音を立ててドアが閉まり、また電車が動き出す。俺は同じ時間の同じ車両、同じドアから乗り込んで反対側のドアの手すりにもたれかかっている。

その斜め向こうで、長椅子の端にちんまりと収まっている女の子。

単語帳を再び開いて、また英単語と日本語訳を繰り返す。いつもの半分も頭に入らないのは、それも毎朝いつものことだ。
ちらりと視線を斜め向こうへ。カバーをかけた小説を読みふけっている彼女は、あと二駅先の中高一貫の女子校に通っているらしい。緑のジャケットに黒地に赤のチェックが入ったプリーツスカート、そのお嬢様学校の高等部の制服だということはこの辺りの高校生なら大抵知っている。
学年はおそらく、俺と同じ二年生。彼女の姿は、俺が高校に入って電車通学を始めた時からいつもあった。俺から見ても、多分一般的に見ても、少し地味だが可愛らしい顔をしていると思う。背は見たところ少し低めかな。

ただ、名前も、性格も、知らない。
――知りたいことは沢山あるけど、話したこともない俺には。

ああ、あまり見ると気づかれてしまう。俺はつとめて視線を外し、また無意味な単語達を繰り返す作業に戻る。予習は大事、毎日の小テストは大事。
俺が彼女を気にし始めてから、もう一年になろうとする。

毎朝、二駅、十分間。それが唯一の接点だった。


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