08



珍しく、彼が勉強をしていなかった。していなかったというより、できていなかったのかもしれない。
手元には確かに彼愛用の古文単語帳――あまりに彼が毎朝勉強しているものだから、何かしらの単語帳やらドリルは彼の愛用品だと思うようになっていた――を持っていたが、それは閉じられていた。表紙の上にスマートフォンを置いて操作していたからだ。片手で何事か打ち込んで、指を止め、また何か打ち込んでいる様子を見るに、誰かとやりとりしているのだろう。
物珍しくてつい観察してしまいそうになったが、バレてしまっては困るので視線を小説に戻した。しかし彼が気になって読み進められないのはいつものことだった。

*  *

珍しく、孫兵から連絡があった。珍しくというのは彼が携帯端末でメッセージを送るのが珍しいという意味だ。何か急な用があるのだろうとすぐに予想がついたので、古文の予習を中断してやりとりをしている。
何でも今朝は彼が所属する生物委員会の餌やり当番に当たったそうで、二つ下の学年の後輩と一緒に作業をしていたらしい。作業をしている途中で、その後輩が急に何かに気づいたようにして顔を青くしたので理由を聞くと、ポケットに入れていたはずの鍵の感触がない、ということらしかった。実際確認して、確かに彼は鍵を持っていなかったのだ。そういえば以前から、その後輩はおっちょこちょいなところがあると孫兵も言っていたっけ。とにかくどこで落としたかと聞かれて後輩は駅だろうと答えた。同じポケットに定期入れを入れていて、出し入れした時に偶に落とすからそういうことだと。わかっていたなら別のところに仕舞えという話だ。

『わざわざごめん。気にしているらしいから、早く確認したくて』
『うん、もうすぐ着くからちょっと待ってね』

孫兵と、おそらくやりとりに気づいている後輩が気にしないように、軽い調子のスタンプをポンと押しておく。元々用の無い駅で一度降りるというのは確かに面倒だけど、まあそう悪い話ではないと俺はすぐに思った。
なぜならその後輩が使った駅は、彼女が降りるのと同じ、学校に着く一つ手前の駅だ。だからどうなるってわけじゃないんだけど。

*  *

もうすぐ下車駅だからと小説をカバンに仕舞う。しっかり肩紐をかけなおしたところで、もうすぐ駅に到着する旨のアナウンスが流れた。彼のいる十分間が今日も終わってしまうと思ったら、その彼が定位置の手すりから背を離したのが視界の端に映った。思わず目を上げようとしたが、彼と視線が合いそうになって慌てて逸らした。何事もないように席を立った時、彼はいつも私が降りるドアの前でそれが開くのを待っていた。
――え、なんで?降りる駅間違えてる?まさか!
混乱しながらも、少し間を空けて彼の後ろに並ぶしかなかった。耳の奥で大きな音がどくどく鳴っている気がする。近くに立っただけで、何をそんなに。

ドアが開いて、彼はやはり当然のようにそのまま降りて行った。間違えているわけではないらしい。後ろからなので彼にバレることはないだろうと考えれば、つい彼しか見えない、改札に向かうその様子をじっと伺ってしまう。
――ああ、いつも前から見ているだけだからとても不思議な感じ。
綺麗な姿勢でさっさと歩いて行ってしまう。同じ学校の子が何人か、彼を見てささやき合っていた。彼に気を取られて歩調が遅い私とは距離が開いて、急いでいるらしい人が何人も私を抜かして彼との間に入ってきた。それをわざわざ追いかけるのは、恥ずかしい上に無意味だとわかっているのでやめた。人ごみに紛れて見失いそうになったが、ホームから階段を降りて改札口が見えると、彼がその横の駅員室に話しかけているのを見つけた。
どうしたのだろう。彼はこの駅になんの用事があるんだろう。そう思っているうちに、改札のすぐ目の前まで来ていた。
――あっ。
そこまで来てやっと、このまま進めば彼のすぐ隣の改札を通ることになると気づいた。横に四つ並んでいて、ホームから降りてきた人々はなんとなく四つの列に分かれるようにして、それぞれの改札を通っていく。そのうち一番駅員室に近い改札を通る列に紛れ込んでしまっていたらしい。普段なら別に、どこの改札だって構いはしないのに。いや、今だって本当なら、彼が駅員さんに声をかけていようが、私がどの改札を通ろうが、私達には何も関係ないはずなのだけれど。
やけに緊張して、いつもより視線を落として。もう彼を見ていては不自然に思われてしまうような距離。

「――それです、ありがとうございます」

彼の隣を通った時、彼がそう言って駅員さんから何かを受け取った。不自然だとわかりつつ思わず横目で見れば、彼の手には可愛らしい白い犬のストラップが揺れていた。
定期券を通して改札を出て、振り返るわけにもいかずそのまま駆け足で友達のところへ向かった。毎朝駅で待ち合わせている二人。
「おはよー」
「お、おはよ……」
「どうしたの?」
友達が不思議そうにしたので何もないよ、と苦笑して見せた。言いながら、ついマフラーで口元を隠してしまう。その子はふーん、と特に興味なさそうに言って、もう一人がねえねえ、とキラキラした目をした。
「あんた気づいてた?あの人、かっこいいよね」
「え、え?何が?」
「もー、気づいてなかったの。駅員さんと何か喋ってた」
そう言われてぱっと振り返ると、すでに彼はホームに向かって踵を返していたので後ろ姿だけしか見えなかった。
「黒髪でね、正統派イケメンって感じ〜っ」
「大川学園の制服だったよね、なんで一個手前で降りてたんだろ」
彼女はきゃっきゃとはしゃいでいて、もう一人が不思議そうに首をかしげていた。私はその子が言った台詞に対して目をぱちりと瞬かせた。
「大川学園……?」
「知らないの?次の駅のとこにあるんだよ、そこの制服」
「高等部だよね、何年生かな、一個上かな」
どうやら随分彼が好みだったらしく、楽しそうにしながら彼の背を見ている。ちょっと面白くないと思いながら私ももう一度目を向けたが、彼はすでに階段を上がってしまったようで姿は見えなかった。
「わかんない、見てないよ、ほらもう行こ」
「えーもったいないなあ」
もったいないって、もう彼も見えないのに。
私と一人が歩き出したので、彼女も待ってよ〜とついてきた。

私が彼の学校について一年間もわからなかったことを、友達が一目見て知ってしまったのは少し、というか大分面白くない。私ももう少し、周りのことに興味を持つ方がいいのかもしれない。


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