06



次の日の夜。
「――あれ、七咲先輩?どうしたんすかこんな時間に」
「竹谷くん。そっちこそ……」
生物小屋近くの長屋の屋根の上に、この一ヶ月で見慣れた彼女を見つけた。七咲先輩は俺の声を聞いて、ひらりと地面に降り立った。
近くで見てやっと驚いた。彼女はいつもの装束でも袴姿でもなく、薄手の寝間着に羽織を一枚かぶっただけの格好だった。いつも綺麗に結われている黒髪は下の方でゆるく一つにまとめられ、胸の方に流している。
「うわっなんですかその格好」
「その反応失礼じゃないの。お風呂入った後なんだからこんなものでしょう」
「いや、女の子がそんな格好で出歩いちゃだめですよ!」
「誰にも会わないと思ったものだから」
それに、竹谷くんならいいでしょ別に――いやよくないです。とてもよくないです、主に俺の精神衛生上。
「……竹谷くんも、夜丸が帰ってくるから?」
「も、ってことは」
「ええ、まあそう」
あまり表情に変化がないから、本心のところがまだわからない。単純に生物委員の仕事だから来たのか、それとも別の理由もあるのか。
「引き取りは別に、俺だけでも大丈夫なんで戻っていいっすよ?」
「いいえ……夜丸の様子見てからにするわ」
――もしかしたら、俺と同じなのかな。いや、まさかなあ。
たったひと月世話をしただけなのに。
しかし七咲先輩はあまり口を開かず、ぼんやりと夜の空を見上げているだけだった。時々正門の方に目を向けるのは、木下先生が帰ってくるのを待っているから。俺も何を話したもんかと少々困りつつ、同じように手持ち無沙汰だった。
「……ねえ、竹谷くん」
沈黙を破ったのは意外にも七咲先輩の方で、名前を呼ばれた俺ははい、と答えながらそちらを見た。
先輩は少し神妙な面持ちで俺を見ていた。その表情に驚きを隠せない。このひと月で、一度も見たことのない表情だった。
「――心配?」
その言葉で、やはり先輩も俺と同じなのかもしれないと思った。
「……そうっすね。心配、ですね――夏は、特に」
「……どうして夏は特に、なの」
七咲先輩の声が弱々しいように思えて、俺は彼女の目を伺ってしまった。しかし普段と同じ、静かで冷静な瞳だった。
――話してみるか。どうせ木下先生はまだ来ない。
「……俺、一年の時から生物委員やってて、一番よく世話してた犬がいたんすよ。よく懐いてくれてて、年の割には小柄だったんすけどすごい元気な奴」
一年生のうちは犬猫とかうさぎとか、無害な動物しか世話ができない。その中で一番懐いてくれていたのが、茶色の毛並みの犬だった。耳の先や手足の先、あと腹の毛だけが白色をしていた。
「名前が『タイチ』つって。ほら、今二号いるでしょう。タイチに似てるから、タイチ二号なんすよ」
「……そっか」
七咲先輩は、変わらず静かな瞳をしていた。
「二年の時の夏休み、っていうか俺が知ったのは夏休み明けですけど――タイチ、いなくなってたんすよ」
夏休みが明けて、登校してきた二年生の俺は生物小屋に遊びに行った。タイチただいまーっと声をかけたが、ワンという声も聞こえず、タイチが現れることはなかった。
「先輩からタイチは怪我をして、治療したけどダメだったって聞いたんです。俺が登校した時にはもうお墓もちゃんと作ってあって、花が添えてあって」
まだ残暑が厳しい裏山の奥、見晴らしの良い崖の近く。強い日差しに照らされていたのは、青色の花。まだ覚えていたのか、俺は。
「……うん、だから、俺別に夏休みに実家に帰れないとか気にしてないんですよ。先生方も、七咲先輩も気にしてくれたのかもしれないっすけど。帰れないんじゃなくて、帰りたくないんです。せっかく委員長代理になったんだし、俺がみんなの世話したいんです、じゃないとなんか落ち着かなくて」
――どうせ帰省したところで何をするわけでもないし。
――生き物たちのことで落ち着かないのも目に見えている。
今までの夏休み、委員長の先輩が残るから大丈夫だと思いながらもそうだったように。
「もう三年前の話だし、それ以来怪我とかで死んだ奴はいないんすけどね」
なんとなく苦笑して、七咲先輩の方を見た。そうなの、とか、ふうん、とかそういうあっさりした返事を予想していた。生物委員でもない先輩にとっては、そう関係ない話だから。
なのに。
「……もう三年前、かぁ」
――七咲先輩の横顔がどこか悲しげだった。
小さく呟いた台詞の意味もわからなかったが、先輩は何か落ち込んでいるような風にも見えた。どうしてだろう。先輩には関係のない話だったのに。
「……七咲先輩?」
声をかけてみると、七咲先輩は少しの間を置いてから俺の方を向き直った。何か言いづらいことを言おうとするように口を開いて閉じて、顔を伏せた。
「ど、どうしました?」
「……あの、ね、竹谷くん、私――」

――あなたに、話さなきゃいけないことがあるの。

「竹谷、七咲も。どうしたこんな時間に」
「うわぁ!」
急に掛けられた声に、思わず声を上げてしまった。七咲先輩も驚いたようにびくりと肩を震わせて、声の方を振り向いた。
「あ、お、おかえりなさい、木下先生」
「おかえりなさいっ」
「お、おう。ただいま……」
俺たちの慌て様に驚いたらしく、木下先生は少し怪訝そうな顔をしていた。
「あ、俺は夜丸を引き取ろうと思って」
「そうか、うん、じゃあ任せるぞ」
木下先生に駆け寄って、夜丸へと左腕を差し出すと静かに一度羽ばたいて俺の方へと飛び移った。
「お疲れ様でした、小屋に戻しときますね」
「ああ。お前達も早めに寝るんだぞ」
「はい、おやすみなさい先生」
「おやすみなさい……」
簡単に挨拶を交わして、木下先生は最後に一度首をかしげてからその場を去った。任務の報告に、学園長先生の庵へと向かったのだろう。
変な空気が流れる中、とりあえずと夜丸を鳥小屋に戻した。木下先生にらしくない控えめな挨拶を送った七咲先輩は、肩を落としている。
「えっと、七咲先輩……?」
「……ごめんなさい、変なタイミングだったみたいね」
「あはは……あの、話したいこと、って」
改めて聞いてみたが、七咲先輩は胸元の黒髪をいじってため息をついた。
「……やっぱりいいわ――おやすみなさい、竹谷くん。また明日」
「え、ちょっと先輩……行っちゃった」
一方的にそう告げて、七咲先輩はさっさとくのいち教室の長屋へ帰ってしまった。


木下先生が、言っていた。
――一つだけ言っておくと、七咲が何か言いたそうにしたらちゃんと聞いてやってくれ。


前<<>>次

[8/18]

>>目次
>>夢