車内に先輩の鼻歌が響く。今日の先輩はなんだかご機嫌だ。まあ、何故なのかは安易に想像がつくが。
「先輩、下手くそな鼻歌はやめてください。不快です。」
俺がそう言えば、先輩は鼻歌を止めて「ごめんごめん」と気持ち悪いほどにやけた顔で謝った。普段なら「偉そうな口をきくな、外すぞ。」とか脅してくるのに。しかもまた鼻歌を歌いはじめた。話を聞いてたのか、この人は?
なんでこの人はこんなにも機嫌が良いのかというと。
今日はホテルの住人の審判小僧ゴールドがこの車に乗るのだ。先輩はこのゴールドさんとやらにすっかり魅了されている。俺は、まだこの人に会ったことがない。先輩をここまで魅了するなんて…一体、どんな人物なのだろうか。
先輩の鼻歌を背景に色々と考えを巡らせていると、急に先輩の鼻歌が止まった。
「やあ、タクシー君。今日は宜しく頼むよ。」
突然の声。
いつの間にか現れたその人に驚いて、私は驚いて声をあげてしまった。
その私の声に気がついたその人は、私のことを見てにこりと笑った。
「君とは初めまして…かな?」
私の、ゴールドの第一印象は「綺麗」だ。
男に綺麗という言葉を使うのも可笑しいかもしれないが、他に思い付く言葉が見つからないので仕方ない。
男の私から見ても綺麗だと思うのだから、先輩が惚れるのも無理はない…のだと思う。俺にはよくわからない。
「よおゴールドさん。もう出発していいんなら、後部座席に乗ってくれ。」
先輩が鍵を回し、エンジンをかける。私が"タイヤ"になる合図だ。
「ねえ。君には名前はないのかい?」
私がタイヤになろうとしたその時、不意にゴールドに話しかけられた。
まさかそんなことを聞かれると思っていなかった私は、きょとんとする。
「君以外にも"タイヤ"はいるだろう?君のことをなんて呼べばいいのか教えてくれないかな?」
初めて言われた言葉に、私は戸惑ってしまった。名前、なんて…考えたこともなかった。
「私のことは、タイヤ…と、お呼びください。」
「それは…名前は無いってことかい?」
なかなか車に乗らないで私とばかり喋っているゴールドに、先輩がもどかしそうに話しかける。
「ゴールドさん早く乗ってくれよ。仕事、遅れてもいいのか?」
ゴールドは何事もなかったかのようにフイ、と私から視線を外すと、後部座席のドアを開けて車内に乗り込んだ。
一体、なんだったのだろう。
目的地に着くと、ゴールドは先輩にお礼を言って車から降りた。バタン、とドアの閉まる音。私は、ゴールドを見送ろうと人間型に戻り地面に降り立った。そのとき、
「 アインス 」
一言、そうゴールドは言った。
「へ、?あいんす…?」
「たしか、人間の住むどこかの国の言葉で1という意味があったはずだ。」
「はあ…そうなんですか。」
だから、なんなのだと私が頭にハテナマークを浮かべる。
「君の名前だよ。さっき決めた。」
「…………は?」
突然そんなことを言われてもはい、そうですか。とはならない。目を白黒させていると、ゴールドはキラキラと楽しそうに歩いて行ってしまった。
「……不思議な人ですね。」
「だろ?まあ、そこがいいんだけど。」
先輩は満足そうに煙草をふかしている。私はというと、先程ゴールドに言われた言葉を頭の中に反復していた。誰かに名前を呼ばれることがあるなんて、思いもしなかった。
「おい、アインス!なにボーっとしてるんだ、行くぞ。」
いつの間にか吸っていた煙草は地面に投げられ、靴の底で踏みしめられていた。
「先輩、今」
「気に入ってんだろ?さっき、嬉しそうな顔してたぞ」
…バレていた。見透かされているみたいでなんだかムカついたので、にやにやとしている先輩を無視して俺は"タイヤ"へと変化した。
「素直じゃないんだからなぁ…ゴールドさんに、他の数字の呼び方も教えてもらおうかね」
「いい考えですね。先輩が覚えられるかどうかにかかってますけど。」
「なんだと?」
普段なら険悪な雰囲気になる車内も、今日はやわらかい空気が漂っていた。