どん底の毎日から私を救ってくれた人は、これからセカイを壊す人だった。
「ねーちゃんいくら?」
「あ、ちょっと困るなァ」
いつもの場所でいつものように立っていれば、誰かしらが声をかけてくれる。相手の靴や時計を見て、お金を持っていそうであればついていく。そう、いつものことだ。しかし、金額を提示しようとした瞬間に、聞き覚えのない声が挟まれる。
「この子、俺の彼女なんすよ」
先程までの客は「貧乏人が」と、私に向けてかこの男に向けてか悪態をついてそそくさとその場を去って行った。勿論その男とは初対面で、付き合っているわけもない。急に仕事を邪魔されたことへの苛立ちから男に文句を言って並べた。
「毎日こんなことしてんの?」
「そうよ。アンタに関係ないでしょ」
「アンタ綺麗なのに勿体無いぜ」
「綺麗って、それしかないからこんなこと……」
「そうじゃなくて、ココが」
そう言って彼が指さしたのは私の左胸。こんなクサいセリフを真顔で言える人なんて初めてで、その上心を褒められたこともなかった私は、目の前のボサボサ頭の変な眼鏡をかけたふざけた男についていった。それが、私とティキとの出会いだった。
「え、名前って日本人だったの?」
「多分ね。母親がそんなこと言ってたから」
「へー。確かに、東洋っぽい顔立ちかもな」
聞けば、ティキはふらふらと地を点々としながら仕事をしているらしい。彼に連れてこられた鉱山での仕事は、勿論私が今までしてきた仕事と比べて体力的にきついものがあったけれど、精神的にはかなり楽である。それは仕事自体がというよりも、環境がそうさせている。
「名前」
「なに?」
「ちょっとこっちきて」
ティキに手招きされて彼の傍にいく。すると手を引っ張られ彼の膝の上に座る形となった。鉱山で女の私が力になれることは少なく、ティキの口添えもあって私は食事係を任されている。毎日大量の食事を準備することはもはや力仕事ではあったけれど、今までの暮らしよりもよっぽど人間らしい生き方をしていると思う。
「どうしたの」
「いや、ちょっと触りたくなっただけ」
「……何それ。変態みたい」
ティキの腕が私のおなかに回され、脇腹を優しく撫でられる。
「あれ、ちょっと太った?」
「う、うるさい!」
「いや、このくらいの方が良いよ。俺は」
恥ずかしさからティキの太ももを叩くと、彼は「怒んなって」と笑っていた。こうして穏やかな彼が好きだ。初対面の時、というか今もだけど変な眼鏡の所為で顔がいまいちよくわからないけれど、それを外せば途端に整った顔が現れる。初めて彼のその素顔を見たのは、初夜の時だった。流石にこういう時はな、と言って眼鏡を外した彼を見て、唖然としたことを覚えている。
「はー、名前は良い匂いだ」
「やだ、くすぐったいよ」
首筋に顔を埋められ、ティキの髪や髭が当たるくすぐったさから身を捩る。すると、ふと顔をあげたティキと眼鏡越しに目が合った。
暫くの沈黙。そして、どちらともなく顔が近づく。しかし唇よりも先に、彼の眼鏡にぶつかってしまう。
「あた」
「ハハ、悪かった」
ティキの手が眼鏡を外し、障害物なしに視線がかち合う。やはりいまだに彼の素顔には慣れない。まじまじと見ることができず目を逸らすと、無理矢理彼の手が私の顔の角度を固定した。
「なんで余所見すんの」
今度は滞りなく唇と唇が吸い付くように重なった。
この瞬間、いつも唇も舌も全部が彼のそれを同じになってしまうような錯覚に陥る。それくらいに頭はぼーっとするし、その感触に蕩けそうになった。
長い長い口づけのあと、ふと部屋の電話機が大きな音を立てて鳴った。そして、ティキは少し苦笑いを私に残してからその電話を受けた。
「また、あのバイト?」
「ああ。……そんな顔すんなって」
「だって」
みんなが言うティキの秘密のバイト。私は勿論、誰もその詳細を知らない。別にここ以外に何か仕事を掛け持ちすることがおかしいわけではないけれど、そのバイトから帰ってきたときの彼は少し匂いが変わる。
「なに、すぐ帰ってくるさ」
「……うん。わかった」
いつもこうして秘密のバイトが入る日は、私を抱いて私が眠っている間にティキは出発してしまう。今日も例に漏れず、翌朝目を覚ますと彼の姿はなくなっていた。ただいつもと違うのは、それが彼と過ごした最後の夜になったということだった。
「名前。何してるの?」
「少し、懐かしくて」
「そういえば、名前は教団に来る前鉱山で働いていたのよね」
「ええ! 名前さんが鉱山で!?」
「といっても、食事係よ」
「あ、なんだ」
労働者風の人たちが出入りするのを、知らず知らずのうちに目で追ってしまう。勿論その中にティキの姿はおろか、イーズたちの姿もなかった。きっと、また流れるように他の場所に行ってしまったのだろう。自分たちを流れ者だと言っていた彼らを思い出し、自然と口角が上がる。
教団での生活は不自由することがない。戦いは大変だけど、皆いい人たちだし何より食事にも寝る場所にも困ることがない。十近く年下のリナリーやアレンたちもとても優しくて、私に良くしてくれる。とても恵まれた環境。しかし、私の記憶の中で一番輝いていた思い出はやはり、ティキたちと共に鉱山で過ごした日々だった。
「さよなら、名前」
だから、ふと聞こえた声にあらぬ幻想を抱いてしまったのだ。
懐かしい声。いつも私を呼んでくれた声。私をどん底から救ってくれたあの声。そして、いつも秘密のバイトから帰ってきたときに香った、あの匂い。彼の匂いと、少し高価な香が混じったような匂い。
私の聴覚と嗅覚が、今の声は彼だったと判断した。
しかし、その声のした方。それどころか四方八方を見渡しても、それらしき人物の姿はない。長身で、意外に筋肉質な彼の身体を思い出す。そのしっかりとした腕で抱き留めてもらうと、いつでも幸せな気持ちになれた。彼の全てが大好きだった。
「どうかした?」
「知り合いに、呼ばれた気がして……」
「それってもしかして、元カレさ?」
「……そうなのかも」
騒ぐラビに、少し頬を赤らめたリナリー。元カレ、という響きに少し違和感を感じてしまうのは、正式な別れの言葉を交わしていないからだろう。きっと彼の方は、突然いなくなった嫌な女だと思っているだろうに。
そろそろ行きましょうか、と歩を進めた皆の背中を見ながら、最後に一度だけ振り返る。勿論そこに彼の姿はない。
「ありがとう、ティキ」
どういうわけかティキが聞いてくれているような気がした。あなたと過ごした日々が私の人生で一番幸せな時でしたと、いつか直接伝えるときは来るのだろうか。
「ありがとう。名前」
走って先に進むアレン君たちを追いかける中、確かに彼の匂いと共に彼の声が聞こえた。
そして彼との再会は、そう遠くない未来にあった。
幸せだった記憶を、ただそのまましまっておきたいだけなのに。
:)140521