夏休み。蝉の声が五月蠅かった。
 練習終わり、体育館の鍵を返すために職員室に入ると、担任とクラスメイトの名字がいた。担任は何か言い聞かすように笑顔で名字に語りかけ、名字はそれを聞いているのかいないのか表情一つ変えずにそこに立っていた。その姿をぼうっと見ていたせいか、担任が俺に気付き「お、黒尾。ちょうど良いところに」と言って手招きする。なんだか嫌な予感がする。

「裏門の所にウチのクラスが文化祭で使う資材が届いてるんだが、名字と二人で教室まで運んでくれないか」

 やっぱり。嫌な予感がしたんだ。

「うわ、結構あるな。これ」

 裏門には大きなダンボール箱やビニールで束ねられた木材など、想像を超える荷物があった。それを目の前にして文句を言う俺に反して、名字は比較的大きめなダンボール箱に手をかけていた。

「それ持てるか?」
「だいじょう、ぶ……」

 持ち上げてゆらりとよろめいた名字のダンボール箱を慌てて支える。

「言わんこっちゃねえ。これは俺が持つから、名字はこっちにしとけ」

 縦に頷いた名字は、俺が指したダンボール箱を素直に持ち上げた。名字が持っていた方を持ち上げると男の俺ですらかなり重く感じる重量感だった。
 二人で荷物を持ちながら教室へと向かう。校舎内はまだ夏休みということもあってか、シンと静まりかえっていた。
 ふと隣の名字に目をやるとやはり無言のまま黙々と歩を進めており、荷物を持つその腕は白く細い。そんな腕でよくまあ重い方を持とうだなんて思ったものだ。名字の表情はさらさらと揺れる髪で見えなかった。
 名字とは三年間クラスが同じだったが、いまだに彼女の事をよくわかってはいない。普通三年間も同じ教室で過ごしていれば、それなりに分かってくるはずだが、考えてみれば名字が感情を顕わにしたところを俺が見たことがないからかもしれない。いつも淡々と過ごしているように見えるのだ。
 思えば一年生の時、名字と国語の授業でペアを組まされたことがあった。二人で一つ俳句を選び、それについて調べて発表するというような内容だった気がする。何の俳句を調べたんだっけ……

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

 驚いて名字を見る。それもそうだ。今俺が思いだそうとしていたことを、名字がこのタイミングで口にしたのだから。もしかして心を見透かされているのではないだろうか。そんな馬鹿げたことも考えてしまう。当の名字は表情を変えずに廊下の窓を外を見ながら続けた。

「芭蕉も、こんな気持ちだったのかなあ」

 静かすぎる校舎内には、外からの蝉の鳴き声が響いていた。なんだ。名字はただこの状況をあの句と重ねただけだったのか。色々と考えすぎていた自分に少し恥ずかしくなる。

「俳句とか好きなのか?」
「うん。この句に出てくる蝉って……」
「ニイニイゼミ」
「そう! 黒尾君良く知ってるね。時期とかで一応ニイニイゼミじゃないかって言われてるんだけど、でもアブラゼミじゃないかっていう人もいて、論争になったんだよ」

 楽しそうに話す名字を見て、ふと一年生国語の授業でのことを思い出す。俺はきっとこのニイニイゼミの話をあの時名字に教えてもらったんだ。名字は覚えていないだろうけれど、当時の俺は良く知ってるものだなあと関心したことを覚えている。
 教室について荷物を下ろす。それを何往復かしてやっと最後の荷物を教室に運び終えた時には、若干陽が沈みかけていた。

「随分かかっちまったな」
「……明日筋肉痛かも」

 手を握ったり開いたりを繰り返しながら、困ったように笑う名字に、俺はそんな顔もするんだなあと新鮮な感情を抱いていた。

「黒尾君は今日は部活だったの?」
「おう。体育館の鍵を返しにきただけだったのによ」
「ふふ。それは災難だったね」

 そういえば、名字はどうして学校に?
 言いかけて、声が詰まった。
 それは、窓から身を乗り出して夕陽を見つめる名字の横顔が見えたからだ。黒くて長い髪の毛は風に浚われて後ろへ流れ、はっきりとした輪郭が顕わになっていた。そしてその表情はいつもの無表情とも、さっきの困ったような笑い顔とも違い、物悲しく見えた。

「雨の匂いがする」

 よく通る声だった。
 そして、ベランダのコンクリートがぽつぽつと色を変えていく。

「凄いな。よくわかったな」
「季節の匂いとか天気の匂いとかあるけど、夏の雨の匂いはなんだか悲しくなっちゃう」

 匂いなんてあるのか? なんて思いはあったが、名字のあの表情の原因が雨の匂いだけではないと直感的にそう思った。

「なんで今日学校来たんだ?」
「……進路相談?」

 というよりも、決定事項を言いに来ただけなんだけどね。と付け足した名字。いつもの無表情に戻っていた。

「私今まで理系だったんだけど、やっぱり文学部いきたくて」
「それは随分思い切った選択だな」
「うん。案の定先生に止められたけど、でももう決めた」

 まっすぐに夕陽を見つめる名字の横顔を、俺はただただ見ていた。

「……黒尾君はどう思う?」
「ん? いや、名字は俺の中ではずっと文系っつーか、そういう印象だからなあ。俺からしてみればぴったりだと思う」
「うん。黒尾君はそう言ってくれるかなって思ってた」

 やっとこちらを向いた名字は口角をあげて笑っていた。それをみて鼓動が少し早くなった。ここまではっきりとした名字の笑顔を、俺は初めて見たかもしれない。
 風がカーテンを揺らし、雨は一瞬酷くなり、遠くで蝉の鳴き声がした。

「だって、黒尾君の所為なんだよ」

 じっと視線が交わったまま、身動きが取れなくなった。名字の言葉を上手く飲みこめない。
 そんな俺をよそに、名字はそのまま教室の扉の方へと向かっていった。そんな彼女を呼びとめることすらできない。
 そして扉に手をかけた名字は、一度顔だけでこちらを振り返った。

「ニイニイゼミのこと、覚えていてくれたの嬉しかった」

 そう言った名字の頬が赤く火照って見えたのは教室に差し込む夕陽のせいなのか、はたまた。
 窓から気持ち良い風が吹き込む。雨はもう止んでいて、俺の額から一筋汗が滴り落ちた。
 また大きく鳴き始めた蝉の声が、以前ほど五月蝿いと感じないのはきっと彼女の所為だろう。
:)150820

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